第41話 三角、丸、四角
午後四時。
空に、雨を含んでいるとみえる雲が垂れ込み始めていた。
眠たくなるばかりの授業が終わり、晃陽は部室に向かっていた。
新作の序章ができていた。また「話が長過ぎる」と明に言われてしまうかもしれないが、そのときはそのときだ。と、やや強くなった心持ちで北校舎から南校舎までの三階渡り廊下を歩いていく。
『―――』
「……」
そのまま図書準備室には向かわず、階段を降りていく。南校舎二階、校長室。
「いるか、
「あ~、こうちゃんだ~。いらっしゃ~い」
罰の掃除も、そろそろ終わりらしい香美奈が出迎える。肩の力が抜けた声。茶の天然パーマが、また湿気にやられそうになっている。それはそれで、愛嬌のある外見。
その整った顔が、しかめ面を作った。
「どうしたの? なんか怖い顔してない?」
「香美奈。何か、変な気配を感じなかったか」
「え?」
「いや、何でもない」
妙な違和感。
晃陽が、おもむろに部屋のロッカーを開ける。『妖怪アジフライ隠し』を見つけた―――実は香美奈が電脳世界の人間関係ストレスで犯行に及んでいたロッカー。
今思い返せば、人間の手でやったとは思えないほどグチャグチャになっていた給食の揚げ物。
「なぁに~? ひょっとして、手伝ってくれるの~?」
「ああ。そうだ」
「え? 本当に?」
香美奈のリアクションも意に介さず、険しい表情を緩めない晃陽。
毎日の影喰いとの戦闘で、気が立っているだけか。しかし、確実に聞こえた、あの“声”。ならば、友人を一人にさせておくことはできない。
「ねぇ、こうちゃん」
「なんだ」
旧態依然とした箒と塵取り、そしてモップによる、晃陽たちの世代から見れば石器時代もかくやという掃除風景が続く中、香美奈が声をかける。
「明ちゃんと、最近なにかあった?」
「何もないが」
「そ~だよね~。君はそう答えるよね~。質問を変えよう。こうちゃんと明ちゃんって、どういう関係ですか?」
その質問には、間があった。香美奈の箒を持つ手が、少し震える。
「……分からん」
「へ~!」
吐息に似た声を漏らす。この
「そっか。もう、そうなんだね」
「何がだ」
「ふふ。いよいよ、三角じゃなくなってきちゃったかぁ」
「まったく分からんぞ」
「い~のい~の。こうちゃんはそのままでいなさい」
「はぁ……。あれ?」
晃陽のCTにメールが届いているようだった。起動し、中身を読む。溜息。
「藤岡さんから?」
「よく分かったな」
「すごいでしょ~。じゃあ、いってらっしゃい。私も、もう帰るから」
外を見ると、雨がポツリポツリと降り出していた。部活も休止だろうが、月菜だけは室内トレーニングを行うはずだ。当然の成り行き。
「気を付けて帰れよ」
「はいは~い。こうちゃんもね~」
甲斐甲斐しく男友達を送り出すと、香美奈は少しだけ目を閉じ、俯いてから、顔を上げ、掃除道具の片付けに入った。
※※
滴る雨の音が不規則なリズムを打つ体育館裏で、小柄な少女のくぐもった声が響いていた。
「んっ……東雲ぇ。もっと、つよ、くぅ……」
「こうか。まだ、入ってないのか?」
「入ってるっ。入ってる、けど、もっと、深く……!」
「仕方ないな。痛いかもしれないぞ」
「いい、からぁ! 思いっきり……やってぇ!」
「んッ」
「あーいたたたた!! やっぱりだめ、戻して! 戻して!」
「だから言っただろうが。
開脚した月菜の背を思い切り押していた晃陽が言う。
「毎日お風呂出た後にやってるんだぞっ。股関節の柔らかさが大事だって言われたから……」
「焦ったってしょうがないだろう」
でも、と、体操服姿の小柄なスポーツ少女は食い下がる。気になって、CTを起動し、ネットで調べてみる。
「やっぱり、何年やっても無理な人は床に身体がつくまではいかないらしいぞ」
「うん。お父さんにも言われた」
月菜の家は道場だという。数日前に行っていた「家の手伝い」とはそのことらしい。小学生までは稽古をしていたが、中学になってからはソフトボールに打ち込み始めた、と晃陽は聞いていた。
「お前は、何でもやり過ぎるんだ。少しは加減しろ」
「だめだっ。あたしは身体が小さいし、固いし、だから、人一倍やらないと」
そう言いながら、自分の身体を見下ろす。何かを思い出したように後ずさる。
「どうした?」
「あっ、いや、なんか……急に、恥ずかしくなってきた」
「はぁ?」
「なんだよっ。その声はっ!」
晃陽の呆れたような声に憤慨する月菜。
「だって、あまりにも今更だろう」
雨は変わらず、体育館裏のトタン製の屋根を叩き続けている。
どこからか雨漏りをしているのか、床のアスファルトが徐々に濡れ始めていた。
二人きりの空間。
「東雲はっ……」
そう呼びかけて、月菜は言葉に詰まる。
去年は少し丈が余っていた制服が、ぴったり合うようになっていた。声が低く、深くなった。半袖から伸びる腕も、太く、ごつごつした質感に変わっている。そして、顔。急に掛けだした眼鏡で、印象が大きく変わった。そんな彼の目を見上げて、口ごもってしまう。
「俺はずっと恥ずかしかったぞ」
「え!?」
突如として、晃陽の方から飛び出した衝撃的な発言に、月菜が目を丸くする。
「女子と一緒に、部活の手伝い。お前と二人きりでこうしてトレーニング。俺たちが陰でなんて言われてるか知ってるか、月菜」
「なんて言われてるんだっ?」
「知らないならいい」
「教えろよっ!」
「言わない。―――だからな、月菜、今更なんだ。ほら」
言って、晃陽がグローブを装着し、ソフトボールの三号球を手に取った。月菜も、それに倣う。その左手に向け、晃陽がボールを投げる。
「俺は、月菜が好きだぞ」
「ええ!?」
いきなり取り落とすボール。晃陽が「おいおい」と呆れる。
「いや、お前がいきなり変なこと言い出すからだろっ」
言いながら、ボールを拾って、勢いよく返す。
バシッ。
良い音を立てて、晃陽は月菜の球を受け止める。
「変なことじゃない。誰よりも頑張り屋だ。俺は、月菜を応援してる」
次のボールは、月菜もちゃんと受け取れた。
「でも、あたしは強くなれなくて、稽古はやめちゃった。頑張るしか、できないだけだっ」
より強く、早いボール。少しコントロールが逸れたが、それでも晃陽は捕った。
「小説なんて、今まで一本も書き上げたことなんてなかったんだ」
「……何の話?」
「次々と新しいことに興味は出るが、続かない。それが、俺の悪い癖だった。だけど、お前の姿を見てたら、飽きっぽくて諦めやすい自分を変えたいと思ったんだ」
「……」
「だから、俺はお前の友達で、一番の応援団でいるって決めたん、だ」
月菜に負けず劣らず強い球。だが、コントロールがめちゃくちゃだった。月菜は、必死で捕った。
「ほんと、東雲は東雲だなぁ」
「それはやめろ。褒められてるのか貶されてるのか分からん」
あははっ。大きな口を開けて、月菜の笑顔が咲いた。
「また、球拾いしてくれよなっ」
丸いボールが繋いだ日々。それを総括するように、月菜が投球動作に入った。晃陽が、慌ててしゃがみ、捕球体勢に入る。
月菜は、エースの渾身の球を投げ込む。
必ず、受け止めて欲しかった。
※※
雨はすっかり本降りだった。晃陽はひりひりする左手をマッサージしながら、昇降口に向かった。
「あ」
「あ」
いつかの朝のような、短い言葉の応酬。
「暁井、どうした。傘が無いのか」
「……うん」
「どこかで使っちゃったか」
「傘は使い捨てじゃないよ」
「そうだよなぁ……」
しみじみと呟く晃陽をいぶかしむ明。その表情には気付かず、晃陽は持ってきた傘を開き、こう言った。
「行くぞ」
……まぁ、貸しがあるしね。
明は内心で言い訳をこしらえ、彼の新品と思われる青い傘の内側に包まれた。
「黎は?」
「何か用事があったみたいで、すぐに帰っちゃった。氷月先生も、チラッと来たけど、仕事があるって」
「それはすまなかったな」
「いい。別に。どうせ、浅井さんや藤岡さんのところでしょ」
「よく分かったな」
「……ふん」
激しい雨音をBGMに、二人は歩きながら他愛もない話を続ける。
一人の少年を巡る人間模様は、今まさに、四角形を描いていた。
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