「書けること」を神格化したくない

 人の胸を打つ文章が書ける。

 とにかくたくさん文章が書ける。

 個性的なテーマや題材で書ける。

 難しい語彙やレトリックを使いこなせる。

 コンスタントに発表できる。


 書くこと、書けること。

 書き手ひとりひとり、何かしら自負している長所があるだろう。

 自分の強みを客観的に理解しそれを伸ばしてゆくということは、書き手にとってとても大切なことだと思う。


 そしてまた、芽が出ないからといって筆を折ってしまう人が現れないようにか、書き手界隈では「とにかく書けること自体が才能! それを発表し続けることもすごい! 自信を持とう!」というような言説を、それはそれはたくさん目にする。

 正直なところ、最近、少し食傷気味だ。


 書けることはたしかにすごいのかもしれない。異論はない。

 でもそれは、誰もがうらやむ才能というわけではない。

 ひとつの趣味が人の目に触れる形をとっている、その延長上で需要と供給が噛み合うこともある、ただそれだけだと思う。

 あくまで個人の所感だけれど。


 たとえば、一日中サッカーボールでリフティングしていられる人や、建築物の設計図を書ける人、ウッドベースやテルミンを演奏できる人が身近にいたとして(実際いるんだけど)。

 すごいと思う。素直に感心する。

 でも、それらの才能や技術を自分がほしいとまでは特に思わない。

 自分にとってEssencialなものではないからだ。


 同様に、人より「書ける」才能があったとして、特に書くことを趣味としていない人たちからすれば「うん、すごいね」程度のものであるということを忘れないでいたい。


 これはあくまでわたし個人のスタンスであり、誰かのありようを否定するものではない。いろいろなタイプの書き手がいていいと思う。

 ただ、書くことを趣味としない人にまでマウントを取るような文章を何度か見かけ、少々頭がくらくらしてきたのは事実だ。

 過剰な謙遜と同じくらい、臆面もない自画自賛もわたしを困惑させる。


 書きたいと思うこと、どうにも手が動いて書いてしまうこと、それは才能というより、ただの特性みたいなものだ。

 やらずにいられなくてやっているだけ。

 その結果生み出されたもののクオリティ次第で、すごいかすごくないかは他人が判断し、価値をつけてくれるものだと思う。


「書くこと」というひとつの営為の前に、謙虚でありたい。

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