不完全でも、愛しいから
洋酒入りのチョコレートを食べようとしたら、箱の隅に「お子様や運転前はお控えください」と書かれていた。
間違いではないけれど、ちょっと気持ちの悪い文言である。
「お子様」という普通名詞と「運転前」という状態を表す言葉がひとつの同じ動詞で結ばれるのが、どうにも消化不良なのだ。
日本語って、不完全な言語だ。
ちょっと単語を並列にしただけで、それは露見する。
「ジュースやお菓子を食べよう!」という文章があったとする。
意味は通じたとしても、文法上は間違いだ。ジュースという名詞に対応する動詞は「飲む」だから。
かと言って「ジュースを飲みお菓子を食べよう!」と言い換えると、なんだかぎくしゃくした表現になってしまう。
英語なら"Let's have juice and snacks!"で言い表せるのに。
受動態の「れる・られる」が尊敬語としての活用と同じであることも、一種のバグというか、プログラミングのミスのようなものだと感じている。
「先生がお車を譲られました」
この場合、この一文だけでは車を譲渡したのは誰なのかわからない。
日本語話者でも混乱するものを、日本語を学ぶ外国人がどれだけの苦労を強いられるだろうかは察するに余りある。
幼い頃から「日本語は世界一美しい言葉」と聞かされて、なんとなくそれを信じたまま大きくなったけれど、大人になるにつれその認識はずいぶん変わってきた。
明らかな男尊女卑が言葉そのものに表れている、そのことにうっすら気づき始めたときの絶望ときたら。
「女々しい」「雌雄を決する」って、なんだよ。
「父兄参観」に実際に集まるのは、ほとんど母親ではないのか。
「愚妻」「悪妻」という言葉はあるのに「愚夫」「悪夫」がないのはなぜなのか。
「兄弟いる?」と訊かれて「うん、妹がいます」と答えるのはありだけど、「姉妹いる?」と訊かれて「うん、弟が」とは答えないだろう。
なんなんだよ、なんなんだよ。
それでもわたしは日本語を手放すことができない。どうしても嫌いになることができない。
なんと言っても、母国語を否定することはすなわちアイデンティティの崩壊を意味する。
大学では英語の教員免許を取りつつ第二外国語にフランス語を選び、それでは飽き足らずにドイツ語やロシア語やスペイン語も初級を学んでみた。
ライトな言語おたくだからということもあるが、もしかしたら日本語のすばらしさを再確認するためだったのかもしれないと今は思う。
たとえば短歌や俳句といった、感性を定型にぴしりとはめこむ韻文の美しさ。こんな文化は他言語にはなかなかないはずだ。
平仮名・片仮名・漢字を平然と混合して使用していること自体が、他言語ネイティブからすると相当クレイジーであるらしいことも知った。
そうか、わたしたちみんなクレイジーなのか。そんな視点を得ると、ちょっと楽しい。
そしてわたしは今日も小説を書いている。
これからもきっと、言葉を綴ることはやめられないだろう。やめるときは死ぬときなのだろう。
一生の付き合いだからこそ、日本語の不便さやバグはどんどん発見してゆきたい。
結婚相手の人間くさい瑕疵のように、不完全で愛しいな、と笑いたい。
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