第58話
「あー、カホ。ちゃんと服を着てだな…ああ、髪も濡れたままじゃないか…ほら、こっちに来い」
風呂上がり、パンツ一枚で逃げ回る夏穂をつかまえて、ターナはバスタオルでごしごしと頭を拭いてやる。
初対面から一日二日は大人しかったものの、昨日辺りから夏穂はターナの手を随分焼かすようになっている。
かといって面倒だと思うこともなく、子供が苦手だと思っていた自分は一体何だったのかとも思うのだが、それも夏穂の素直な気質によるのだろうと自分を納得させていた。
「…よし、髪の毛はきれいになったな。じゃあちゃんと服を着たら、ご飯にしよう。今日は何かなー?」
「たーな、おなかすいた」
「そうだな、お母さんのご飯、美味しいからな」
一日汗をかいて帰って来る。
風呂に入って汗を流し、小さな子供の世話に追われはするが、それが済めば整った食事が用意されている。
立場を思えばなんとも恵まれた境遇にいるものだと思う。
(…といってやるべきことは忘れられるものでもないが。ただ、収穫無しとなると流石にな……)
捜索対象が二人から三人になり、多少は進展と呼べるものが得られるかと思えば全くそんなことはなかった。
シュリーズェリュスの方は手がかり皆無、というわけではないものの、その手がかりに接触するのに腰が退け、その姉のグリュームネァときたら鯛焼き屋の並びで見かけてそれきりである。
肝心要のマリャシェに至っては、東京から新潟行きの新幹線に乗った、という情報を最後に一切の消息が不明だ。竜の娘の力を我が物とせずにいるなら、シュリーズェリュスなどに比べて足取りを追いやすいであろうに。
ただ、ターナに焦りがないとすれば、マリャシェはシュリーズェリュスを追ったのではないか、という読みがあることだ。
時間が近く、行き先も同じ。となれば何らかの関連を疑って当然というもので、見つかるならおそらくは、同時。つまり、手がかりのある方を追えばどちらも見つかるはずである。
(そして問題があるとすれば…グリュームネァが何を考えているのかさっぱり分からないことか。いや、妹の方も似たようなものだが)
だがそれは当人に接触しなければ何も分からないだろう。
「……ん?どうしたカホ」
考え事をしていたせいか、箸の止まっていたターナを夏穂が見つめている。
手には子供用のフォークが握られ、その先には柔らかく煮た鶏のササミ肉が刺さっていた。
「たーな、たべる」
「あ、ああ、くれるのか。ありがとな」
勧められるままに夏穂のためのおかずを口に入れた。
「おいし?」
「……ああ、おいしいぞ」
実のところ、薄めに味を調えられた肉はターナの好みに合うとは言い難い。けれど、ターナの言葉で満面の笑みになる夏穂にそう言うわけにもいかず、だが夏穂が嬉しそうな様子であることに喜びを見出す自分を、苦笑混じりながらも嫌だとは思わないターナだ。
(そういえば音乃が電話をしてくるハズだったな)
そして、どういう心境なのかは分からないが、音乃と話をしたがっていた夏穂が自分のおかずをつついてる様子を見ながら、そんな場面を心待ちにしていた。
・・・・・
「あー…っぱり、暑いなあ…あと人が多い……」
新宿で高速バスを降り、久しぶりの喧噪に目を回しそうになる。ほんの一週間足らず実家にいただけなのに、人の歩く速さについていけなくなっている自分は根っからの田舎者だなあ、と音乃は慨嘆した。
「さて、あとは電車で…何分だったっけ?」
バイト代で買った安物の腕時計を見て時間を確認する。
これが似合うんじゃないか、とターナが勧めてくれたもので、音乃には少しゴツい感じに思えたものだが、いざ使ってみるとあちこちにぶつけたりしていたから、ターナの推薦は多少ずれた方角ながら的を射ていたわけだ。
「とりあえず部屋に戻って荷物を置いて…って、そういえば大家さんも先輩たちもいないんだっけか」
帰省中、旅行中と理由はいろいろあったが、明後日までは広い屋敷に音乃が一人である。お屋敷を独り占め、と言えば聞こえはいいが、古い屋敷で一人きり、というのもなかなか気後れするものがある。
いっそ同好会の誰かのところに転がり込もうか、などと迷惑を顧みないことを思いつつ、スマホのSuicaのアプリで残高を確認し、部屋までの運賃に足りていることを確認すると、よいしょ、と荷物を担ぎ直して新宿駅の改札に向かった。
帰宅ラッシュに巻き込まれ、改札をくぐっても人の波は収まらないどころかますます増えてきている気がする。
コレに埋もれながら一時間電車に乗るのかー、とうんざりしつつ、待っていたからといって状況が変わるわけでもないと、改めて中央線のホームに向かう。
その時だった。
【元気そうでなによりだよ】
「…?!」
最初は誰か知り合いに声でもかけられたのかと思った。
だが、辺りを見てもそれらしい人影はない。そして、声は明らかに、音乃の厭う響きに満ちていた。
即ち。
【忘れたわけではないと思うけど、一応は名乗っておこうか。君たちが『異世界統合の意思』と呼ぶ者だよ。ハハッ】
忘れるわけないでしょ、と毒づきながらもう一度首を巡らす。だが、その必要はないようだった。声の主は、音乃の前方にいたからだ。
それはいつか見た、子供の姿。不思議と何の印象も抱けない姿形。
そしてその顔に浮かぶ、相変わらず人を小馬鹿にしたようなニヤついた笑みには正直むかっ腹が立つ。
「…何の用?ターナならマリャシェさんを追いかけているから、一緒じゃないわよ」
【竜の娘に用は無いよ。今日は君の顔を見たくてさ】
「それは悪い知らせね。私はこんなに見たくない顔、世界で他にいないってのに」
【それはまた嫌われたものだね】
頭の中に直接届くため息、という奇妙な感覚に嫌悪が立つ。
もうこの存在が自分に興味を抱いている、というだけで我慢のならない音乃だった。
【…大丈夫だよ。別に危害を加えようってわけじゃない。君次第だけどね】
「…どーいう意味よ」
立ち止まった音乃にぶつかりかけた年配のサラリーマンが、舌打ちをしながら横を通り過ぎていく。
次々と入線しては発車していく電車の音が、やけに耳障りに響いた。
【それはまた後で。今は、さ】
音乃の睨み付けている子供の姿が、一歩、二歩と近づいてくる。
後ずさりをしようと思って足が動かなかったのはすくんでのことではなく、こいつに弱みは見せたくない、という音乃の意地だった。
【…少し話をしておきたくてね】
「………」
怖気と恐怖で震えそうになる体を、唇を噛んで堪える。
体は覚えている。あの時受けた苦痛のことを。頭が破裂したかと思ったほどの衝撃は今でも時折、音乃を苛む。
【なに、そんな難しい話じゃない。竜の娘の世界、って奴への愚痴のようなものさ】
(愚痴?)
ふと、脳裏に込められる印象に、妙に人間くさいものを覚える。
あるいはそれさえも彼の者の「演出」である可能性もあるが、恐怖とはまた違う、興味のようなものを我が身のうちに沸くように感じた。
(でも、気をつけないと。こんな人の多い中であんな真似されたら…)
あんな真似、がどれだけの範囲のどれほどの人に影響を及ぼせるのかは、それは分からないが。
ただ、ここは秒単位で電車が行ったり来たりする、世界屈指の巨大駅である。
そんなところで人事不省に陥る苦痛をのべつ幕無くばらまかれたりしたら。
(…冗談じゃないわよ。そんなことさせてたまるか!)
無力なのは承知の上で、自分の力でこの場を収めないといけない。これまで音乃を守ってくれたターナはこの場にいないのだから…と思うと音乃は却って、震えの止まる心持ちがした。
(直感でしかないけど、あいつはわたしに何か話したいことがあって、それは…恐らく、ターナの問題とは直接関係ない気がする)
そして今、自分がしなければならないことを、思う。
(どういう意図で私一人に接触してきたかは分からないけど、今は大人しく帰ってもらう…しか出来ないよなあ。ほんっと私って何も出来ないんだ)
ぺろ、と唇をひと舐めする。せいぜい滑らかに口を動かして、退散願おうか。どーせ樫宮音乃に出来ることなんか、それくらいしか無いのだから。
「…おかしなことを言うのね。あなたの愚痴だかなんだか知らないけど…私に言うことでもないと思うんだけど」
【そうでもないよ。竜の娘は、聞く耳を持たない。僕の話なんかはね。その点君は…ま、望む望まぬに関わらず、聞かざるを得ないからさ】
「………」
音乃の脳髄を侵食するような、気色の悪い触覚があった。背骨の中を直接触られるような、おぞましい感覚だ。
これが、異世界統合の意思の意志によるものなのだとしたら、とても音乃に話を聞かせる態度には思えない。
【恨み辛み、って言葉があるのだろう?今の僕の不興は正にこの言葉に表されるね。いいかい、人間。僕は生まれ落ちた時よりずっと考えてきたんだ。何故世界は、こうも不完全なのか。言葉を分かたれた国々が、互いに相通じ合うことなく争う歴史を、君は知っているはずだろう?言葉どころか存在すら知られずにいた世界を、その住人が渡り歩けることで得るものの大きさを、何故世界は認めようとしないのか】
「………」
【僕の力と思想に抗し得る存在まで生み出したに至っては…憤りを越えて憐れみすら覚えるよ。ま、それに一度は追いやられた僕が言っても負け惜しみにしかならないのだけどね…さあ、笑えよ。無様な僕の来し方を笑えよ、人間】
(…こんな状況で笑えるほど神経太くないわよ!)
相変わらず脊髄を舐められるような不快感は続いている。話の流れによってはそのまま背骨をへし折られかねない、というプレッシャーの中、音乃は必死に抗う。
そしてこめかみを垂れ落ちてきた冷や汗の感覚を苦々しく思っていると、幾分固い調子の声が横から聞こえてきた。
「ちょっと君、そこで立っていると危ないよ。子供連れなら気をつけて…大丈夫ですか?」
鉄道警察らしき男性は、音乃の顔を見て心配そうな顔になる。
よほど顔色が悪かったのだろうか。
「気分が悪いようなら…ああ君は弟さんかい?急いでないなら一緒に…」
【うるさいな】
「…!やめ……」
音乃が静止する間も無かった。
異世界統合の意思の、微かに苛立った波動が音乃の頭に届くと同時に男性の体は痙攣するように伸び上がり、そのまま声も無く横に倒れた。
「なに…?」
「え、なんか急に倒れて…」
「ちょっと…大丈夫なの…?」
人混みの中、急に倒れた警察の姿に周囲がざわめく。だが誰一人として手を貸そうともせず、あまつさえ早速スマホを取りだして写真を撮ろうとする不届き者すらいる中、音乃は異世界統合の意思の姿を呆然と見送るしか出来なかった。
・・・・・
音乃にしては珍しい、と思うのは、約束したことを違えたことだ。
今日は音乃から電話をする、と言ってスマホを前に待つうちに時間は経ち、九時どころか十時近くになっている。
「………」
「…ほら、カホ。今日はもう寝ろと言っただろ?音乃ならまた明日話は出来るさ」
「…うー」
胡座をかいたターナの足の上、がすっかり定位置になった夏穂が、ゆっくりと船を漕いでいる。
小さな子供に夜更かしなどさせるものじゃないと常識的に考えて、何度も寝床に連れて行こうとしたのだが、その度に夏穂は目を覚ましてむずがり、ターナの手を煩わせるのだった。
「…十時になるか。カホ、お部屋にいこう?寝るまで側にいてやるから」
「たーな、ねるの?」
「お前が寝付くまでな。ほら、おかあさん帰ってきたら、いい子ね、って言ってもらうんだろう?」
「……うん」
しかたなく、という様子は幼児のものでも見当がついてしまう。
ただ、隣にターナがいるということに納得して、ターナの膝から降りると襖にぶつかりそうなふらついた足取りで自分の布団に向かう夏穗だった。
「いい子だぞ、カホ。ほら、足下気をつけろ」
そんな背中に頬を緩ませつつ、ターナもその後を追う。
お手洗いを済ませて子供用の布団に横になった夏穂は、隣で同じように横になり団扇を扇いでいるターナにすっかり安心してか、すぐに寝付いてしまった。
その顔を見ながらターナは、音乃からの電話がまだかかってこないことに、彼女の身を案じてしまう。
といって何が出来るのか…自分からかけようか?と思って起き上がると、夜のこととて、やけに大きく聞こえる振動音がした。
ターナは夏穂が起きないよう、慌ててスマホを握り、足音のしないよう気をつけながら玄関の方に向かった。
「…遅かったな。今部屋についたか?」
『………………』
「…音乃?どうした?」
電話の向こうは静かで、息づかいからもそれは音乃の存在を確かにさせる。
だが、ターナにはそこにあるはずの音乃の顔が、想像出来なかった。いや、存在を忘れた、などという話なのではない。常に無い緊張感…にも似たものが、彼女の息にあったのだ。
(………どうする)
ターナが逡巡したのは、力を使って音乃の認識を探ろうかどうか、ということだった。
だが、止めた。音乃と自分の間にそれは、相応しくない。少なくとも音乃の言葉で確かめる前からしていいこととも思えない。
「音乃?大分遅かったようだが…心配してたんだぞ。カホももう寝てしまったし…」
『うん、ごめん…ちょっと…新宿で…』
「新宿で?」
『…ええっと、ちょっと、ゴタゴタに巻き込まれて。なんか私の目の前で警察のひとが急に倒れてね。事情聴取とかいうので、足止めされてた』
「そうか。ならいいが…だが、お前も関係ないのなら知らぬ顔をしれてばいいだろうに。足が速いくせに逃げ足は遅いヤツだな、音乃は」
『あはは…面目ない』
そこでようやく、音乃の笑う気配。きっと苦笑いに近いものだったろうが、ほっとした様子ではあったから、ターナも気を緩める。
「…今日はもういいのか?」
『うん。部屋に戻ってきた。でも、明後日まで誰もいなくて一人きり』
「その屋敷で一人はちょっと寂しいだろうな。大丈夫か?」
『子供扱いすんな、ばかターナ。私、あなたより年上なんだから』
「だったら普段からそう振る舞ってくれ。時々どっちが年上か分からなくなる」
『ふん、だ。私がいなかったらちゃんとご飯も作れないくせに』
今度はターナが苦笑する番だった。
それを言われては返す言葉も無い、と謝ると、音乃も、ごめんね言い過ぎた、と返す。
「もう遅いな。音乃も疲れただろ?早く、寝ろ」
『…そうだね。でも、なんだか寝るのが怖いよ』
「どういう意味だ?」
『………』
息を呑む音。それに続いた音乃の言葉は。
『朝起きたら、隣にターナがいないことが、怖い。それだけ。私も眠いから、寝るね』
「…ああ。おやすみ、音乃」
『おやすみ、ターナ』
いつもの一言は、互いに無かった。
そのことに不満や不安があるわけではないが。
「………」
ターナは画面の消えたスマホを睨みながら、考え込む。
「ただいま……ターナ?こんなところでどうしたの?」
いつも通り、夏穂を起こさないよう静かに帰ってくる有夏は、立ち尽くしていたターナを見て怪訝な顔をする。
「いえ、電話を少し……アリカ殿。ちょっとお願いがあるのですが」
「改まってどうしたの?あなたのことなら大抵のことは聞いてあげたいけど」
厳しい顔をしたターナに、有夏は首を傾げて、そう言った。
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