第39話

 ターナの部屋からはそう離れていない場所だった。

 下北沢の住宅街の真ん中で、夏の日差しを避けるような日陰のある、ビルとビルの狹間。


 「…ここから聞こえてきたの?」

 「わたしにはそう思えたが、な」


 街中を早足で歩きながらターナが音乃に話したのは、『お前は、世界にいらない』という声が恐らくはターナの頭にだけ届いたこと、それは「異世界統合の意思」と対面した時に感じた感覚と似ていたこと。

 それだけだ。

 だが、「異世界統合の意思」に直接苦しめられた音乃にはそれだけでターナの緊張する理由が分かった。

 それだけに、日の傾き始めた街に生じた暗がりをのぞき込む姿にも、どこか怯む様子はある。


 「行ってみるが。どうする?」

 「…正直言って怖いけど。行く」


 ターナの唇の端に笑みが浮かぶ。

 強がりではあるだろうが、それでも自分の側にいたいと思ってくれるのは嬉しかった。


 「今度こそ、引き返せと言ったら言うことを聞けよ?」

 「うん。ターナを信じる」

 「よし…足下に気をつけろよ…」


 他に人通りもいる中で、若い娘が二人でそんなことをしていれば気になる者もいるだろうが、呼び止められることもなく人一人が身体を横にしてやっと通れる隙間に入り込んだ。



 渋谷で似たような真似をしたなあ、と音乃が思った頃、ターナが立ち止まる。


 「…?」


 声をかけるべきではないか、と黙ったまま先をゆくターナの後ろ頭を見つめた。


 「……音乃、少し目をつむっててくれ」

 「え?あの、…っ?!」


 それがどうしてなのかは、ターナの向こうに見えたものに教えられる。


 「…見ない方がいいかもしれないな」


 仕方ない、と音乃をその場に留めてターナは一人それに近付く。

 そこにあったのは、倒れ伏した人影だった。


 「…生きてるの?」

 「さあな…おい、大丈夫か?」


 狭隘さは相変わらずだったから、屈むのも一苦労な姿勢でターナは、人影に腕を伸ばして声をかける。

 見ると、着衣は洋服とも和服とも異なる見慣れぬものだ。

 ただ、皮革製と思われる平たいものが幾重にも身体を覆い、音乃にはふとターナが身につける鎧と似た印象を与えていた。


 「……おい」


 それはターナにしても同様なのか、声の調子が倒れた人の無事を確かめるというよりも、警告を発するような具合になる。


 「……ウ」


 呻き声がした。

 身体を揺さぶるターナに示した反応は、その人影が生きていることを知らせるが、二人ともホッとするよりも、より一層警戒を深める。


 「…長い黒髪、この世界の言葉とは異なる言語を話す……まさか…いや、どうしてあなたがここに、いる……」


 そんな固い声で呟くターナに、音乃は息を呑んでそれを見守るしかなかった。




 「先に部屋に戻っている。音乃も来てくれ」

 「分かった。何か持っていった方がいいものとか、ある?」


 隘路を出る時に、ターナはそう音乃に言った。

 助け出した女性はまだ意識が戻っていない。ターナが背負っていくことにしたが、その格好をあまり人目にさらすのもうまくない、と自分の部屋に先に跳んでいくことにして、音乃に後事を託した。


 「…任せる。わたしがそういう細かいことを考えても分からないしな」

 「うん。気をつけて」


 何から気をつけるのか見当も付かないが、音乃はそう言うしか無い。

 それでもターナは、少し心細そうではあったが頷いて、女性を背負ったまま跳び上がった。

 それが目に入った人には、特にどうという光景とも思われてはいないのだろう。

 そして音乃も同じようにそう思うようにしてから、ドラッグストアを探して街並みに混ざろうと通りに出て行った。



 「…大丈夫?」

 「ああ。遅かったな」


 通い慣れたターナの部屋に戻ると、助け出した女性は鎧の印象のあった着衣ではなく、どこかの民族衣装のような、見慣れない衣装になってターナのベッドに横たえられていた。


 「タオルとか傷薬買ってきた。ケガしているの?」

 「いや、大丈夫だとは思う。意識が無いだけで命に別状は無いと思う」


 そっか、と安堵する。

 靴を脱いで上がり込み、女性を見守るようにベッドの側にいたターナの隣に座った。


 「…知り合い?」

 「知り合い…というか、どうしてこんなところにいるのか分からん」

 「ってことは、その…ターナの故郷の人なの?」


 ターナの横顔をじっと見ている音乃にさえ、ようやくそれと分かる程度の首肯。


 「…わたしと同じ、竜の娘の一人だ。といっても代替わりして力を失いつつあるところだったはずだが…」


 厳しい顔つきだった。その向こうで何を考えているのかは分からないが、音乃は立ち上がって努めて明るい声を出す。


 「ターナ、ちょっと台所借りるね。お茶煎れるから…あ、カルピスの方がいい?ホットの」

 「…お前こんな時に呑気だな」

 「ターナが難しい顔してたって状況が変わるわけじゃないでしょ?それに美味しそうな香りでもすれば、その人も目を覚ますかもしれないじゃない。私が朝食作ってる時のターナみたいに、さ」

 「そんなにひとを食いしん坊みたいに言わなくてもいいじゃないか」


 言いながらもターナは、それが音乃の気遣いだと知って苦笑する。

 そういえば、お腹も空いていた。窓の外は夕暮れの朱から紺に染まっている。夏のことだから確かに、夕食の心配をする頃合いになっていた。


 「食べ物は買ってこなかったから、あるもの使うよ?…って、あー、何も無いなあ…今日買ってくるつもりだったからなあ…」


 音乃にしては珍しい失策に、それなりに気が急いていたのだろうとターナも思う。


 「…出前でも頼むか?」

 「出来るの?…でも普段なら大歓迎するとこだけど、その人いるところ見られたら拙いとか、ない?」

 「それもそうか…仕方ない、カップラーメンで…」

 「ダメ。栄養が偏る。私がいる時にそんなもの食べるのは許さない…っていうか、カップラーメンなんか常備してたの?」


 うっ、と黙り込むターナ。

 音乃の来ない時は面倒になって、結構多食しているのだった。

 目を逸らして静かになったターナをひと睨みし、音乃は普段は開け閉めしない台所下のスペースを漁り始めると、これが出るわ出るわ。

 定番のものからカップ焼きそばにうどん、そば。音乃が食べたことどころか見るのも初めてなインスタントスパゲティなどというものまであった。


 「…カップヌードルを箱で買ってるとは思わなかった」

 「買ったわけじゃない!その…事務所が礼としてもらったものを押しつけられただけだ」


 嘘である。事務所でもらったのは事実だったが、押しつけられたどころか急遽開催された腕相撲大会で男連中をなぎ倒して、優勝賞品として奪い取ってきたものだ。


 「はあ…そんなにこの味が好きなの?」

 「…いや、そういうわけでは…」


 単に簡単に済ませられるからであって、流石にターナもカップラーメンの類を好んで食しているわけではなかった。


 「…音乃の料理に比べたら月と何とか、だ」

 「カップラーメンと比べられてもなあ…」


 最近はすっかり自炊にも慣れて腕も上がってきたという自負がある音乃は、そう言われたところで相好を崩して大喜び、というわけにもいかないようで、ターナのご機嫌取りは失敗したかのようだったが…。


 「………ウ、ン…」


 ベッドの方から聞こえた声に、つまらない諍いは中断される。


 「マリャシェ?!目が覚めたのか!」


 ターナは慌ててベッドの隣に戻り、身動ぎする女性に声をかけた。

 女性は目が覚めていたとみえて、覆い被さるように様子を見るターナの姿を認めると、そのまま声をあげる。


 「…?ターナ?ビュリベッツェーテ、ヴァリュディェ?」

 「あ、ああ…こっちの言葉は分からなかったか。ビューリェレェテ、アブヌン、モルレェテーリェ。アブゥ?」

 「え?え?…あの、何て?」

 「…あー、面倒だな。ちょっと待て、ええと…」


 音乃の知らない言葉で話し始めた二人だったが、ターナはしばし額に指を当てて考え込んでから、口を開いた。


 ”これで分かるか?こう入り組んだのは久しぶりだから勝手を思い出しにくいが…”

 「お、おー…なんかすごい。頭ではターナが私の知らない言葉で話してるって理解してるハズなのに、話の内容だけは分かる…」

 ”そうか。上手くいってるようで助かった。ええと、マリャシェ、体は大事ないか?”

 ”ありがとう。問題ないわ。ここは…あなたの?”


 そして、ターナがマリャシェと呼んだ女性の話す言葉も、音乃には日本語としてきちんと認識出来ていた。

 よくは分からないが、ターナを介して同時通訳のようなことをしているのだろうか。


 ”ああ。「異界の門」の向こう側だ、ここは。どうしてマリャシェが門をくぐったのだ”

 ”…ラリィに聞かされていた通りなのね。本当に自分から門を越える娘がいたとは驚きだけれど”

 ”姉様に?どういうことだ?…ああ、いやそれは後でもいい。とりあえず紹介しておく。音乃?”

 「あ、うん。こんにちは。樫宮音乃といいます。ターナの…その、友だち…です」


 横になったまま見上げる視線に幾分たじろぎながら、音乃は促されて自己紹介をする。

 見たところ、音乃よりもそこそこ年上のように見える。二十代半ばといったところか。

 黒い髪が艶やかな健康的な女性で、瞳も黒く、一見すると日本人のようには見えた。

 ただターナのように活動的というよりはどこか陰のある雰囲気で、またターナとは髪や瞳の色が正反対といってもいい程に違うので、同じように異世界からやってきた、と言われても俄には信じがたかった。


 ”初めまして。わたしは…”


 と、そこは礼儀だと思ったのか、女性は体を起こし、僅かに音乃に上半身を向けて名乗る。


 ”マリャッスェールス・アリェシトゥアといいます。ターナの言った通り、マリャシェと呼んでくれて構いません”

 「はい、マリャシェさん。私も音乃と呼んでください」

 ”ありがとう、ネノ。ターナが世話になっているようですね。竜の娘の先代として礼を言います”


 (先代?)


 ターナもさっき似たようなことを言ってなかったっけか、と思いつつ、音乃はターナの隣に腰を下ろした。


 ”…それでマリャシェ。何があった。わたしは確かに自分の意志で門をくぐったが、向こうにそれと知る者はいないはずだったが”


 その音乃をちらりと見て、ターナは話し始める。先程の緩い空気はとっくに霧散していた。


 ”わたしは門を通して放逐されました。その前に、ラリィに聞かされたのです。門の向こうにターナがいるはずだから、それを探せと”

 ”姉様、何を考えて…ああいや今はそれはいい。それで放逐とはどういうことなのだ?”


 意志としてターナの焦りのようなものが、音乃にも直接的に感じ取れる。

 不思議な感覚だった。

 言葉を介してのやりとりでも、その単語のもつニュアンスや声の調子で相手の考えや感情を捉えることは可能なものだが、それらがダイレクトに理解出来るという感じか。


 ”…ターナ、あなたは『狂戦士』のことを知っていますか?”


 そして、その「単語」の意味を音乃が理解したと同時に流れ込んできたターナの感情といえば。


 「…知ってはいる。聞きたくもない言葉だが」


 吐き捨てるように言った言葉が日本語になっていることに気がつかないほどに、戸惑いと嫌悪と、それから苦悶に満ちたものだった。

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