雨上がりのサヨナラ

名取 雨霧

笑顔の準備

 ──ああ、全くもう。


 卒業なんてずっと先のことだと油断していた私が馬鹿だった。


 おかげで無防備な心臓にぐさりと一刺し入れられてしまったような気分だ。こんな土砂降りの後のグラウンドみたいな顔じゃとても皆と話せない。


 腕時計をちらりと見ると七時半を指していた。卒業式が始まるのは十時からで、教室にはもちろん誰もいない。


 早く来すぎたことは分かっている。

 けれど、涙脆い私にはこれくらいの時間が必要だった。笑顔で皆と卒業できるように、このどうしようもない哀しみに慣れる時間が。


 ぼーっと教室の窓の景色を見ていると、突然廊下から荒々しい足音が聞こえた。まずい、見られてしまう。私は急いで鼻をかみ、乱雑に袖で涙を拭おうとしたが、どうやら間に合わなかったらしい。教室の入り口で足を止め、教卓に顔を埋める私に気づいたのは、いつも隣の席に座っていた彼だった。


「ツッキーもう来てたんだ。おはよう......って大丈夫!?」

「わ、私なら全然大丈夫だけど......?」

「いやいや、強がんなくていいから。目腫れてるし声掠れてるし、おまけにまた鼻水出そうになってる」


 彼がポケットティッシュを私に差し出してきた瞬間、私の中で何かが決壊した。堰き止めていた感情が一気に溢れ出し、涙と嗚咽が止め処なく流れ出る。彼の優しさに触れられたからだろうか。皮肉にも、これから手に入れるものはこれから失うものと同義なのだ。どうせ一時的な喜びは倍の切なさに変換されてしまうのだから、決して手放しで受け取れるものではない。


 そんな私の心中を意にも介さず彼は続けた。


「もしかして泣いてるところ他の人に見られたくなかったの?」


 私は無言でこくりと頷く。


「はは、ツッキーってやっぱり見栄っ張りだったんだな。意外な一面が最後に見れて満足だわ」

「......馬鹿にしないの。私にとっては重要なことなんだから」

「はいはい。そんで、もう俺は見ちゃったんだから、我慢しなくていいからな」


 その言葉には3割の遊び心と7割の優しさが含まれていた。彼の前向きで気遣いの見え隠れした言い方は少しずるい。おかげで、今この瞬間の優しさは深い悲しみと背中合わせだというのに、私はどうしようもなくその温もりを甘受したいと思ってしまう。彼がよっこらしょと荷物を置き、私の隣に椅子を持って来て腰を下ろした。ややあって、私の口は自然と開く。


「三年間、色んなことがあったね」



 それから私と彼は高校の三年間で起こった出来事を、事細かに回想していった。


 入学最初のクラスにはなんだかぎこちない雰囲気が漂っていたこと。クラスの皆が徐々に打ち解けられるよう、色々な人と会話するようにしたこと。六月の合唱祭に向けて、まとめ役だった私と彼と実行委員達でクラスを引っ張っていったこと。夏休みを迎えるのが嬉しくて、同時に寂しかったこと。


 一年の一学期だけでこんなにあった。しかしそれ以上の密度で私達の思い出は秋を過ぎ、冬をまたいで、春を迎え、再び夏に差し掛かっていった。


 私が一方的に語り、共通の思い出には時折彼から合いの手が入る。もっと彼の話も聞きたかったけれど、彼視点の回想も合わせれば、とても集合時間までに終わらない。彼もそのことを分かっていたのか、ひたすら私の話に耳を傾けてくれていた。


「二年の夏は楽しかったなぁ」


 私の瞼の裏には、文化祭準備の光景が写し出されていた。彼の頰が少し緩み、同時に目が明後日の方向に泳ぎ始めた。


「ああ......あれね」

「誰だったっけ。ジェットコースター作りたいだなんて意見に、率先して賛成したの」

「お、俺だよ! たしかに色々めんどくさいことになっちゃったけど、成功したんだから良いだろ!?」

「ふふ、誰も悪いとは言ってないわよ」


 例年並一通りの文化祭にインパクトが欲しいというクラス大勢の意見と、来た人が驚くようなものを作ろうというクラスの(主に男子の)ノリが、ジェットコースター製作というとんでもないアイデアを召喚してしまったのだ。今思えば、私含めクラスの半分くらいの人がその決定に困惑していたが、成り行きというのは恐ろしく、男子中心にすいすいと事が進んでいった。まあ、男子が楽しく試運転を繰り返しながらも、私率いる安全班が隅から隅まで点検させられ、他の係よりもずっと神経をすり減らすことになった頂けなかったけれど。他にも──


「いやごめんてば、ツッキー眉がビミョーに引きつってる!またあのこと思い出してたの?」

「ええ、一生忘れないわ。文化祭最終日にふざけて遊んでた男子諸君のせいで台座が崩れて、いろーーーんな人に謝ったことは」

「くっ......わかった、今度ラーメンかなんか奢る」

「ふふふ、冗談よ。あれは予想外だったし、文化祭通して楽しかったから気にしてない。奢ってはもらうけど」

「いやそこは見逃してくれよ!?」


 彼にこんな軽口を叩くことももう簡単にはできなくなるのか。私はその寂しさに、また目頭を熱くした。でも、他の人達ももうそろそろ来るだろうし、いい加減慣れなきゃいけない。私は静かに上を向いて、どうにか涙が溢れないよう努めた。代わりに悲しみの雫が、胸の内側に降り積もるような心地がして、余計に辛さが増した。


 そんな私の想いを察することもなく彼は尋ねる。


「ねえ、それ以降の話は?」

「ごめんなさい。今ちょっとそれどころじゃない」

「じゃ、今度は俺の番かね」


 話の舵を再び切ったのは彼だった。文化祭が終わり、台湾への修学旅行を経て、冬には恐怖の勉強合宿を切り抜け、また春が来る──以降の話は速度を増す。受験勉強が中心となる高校三年生の思い出は、これまでと比べてどうしても少なくなる。皆が自分の将来のために頑張った経験は、共有できるものじゃない。他でもない自分自身の糧なのだからその形が正しいと思うが、内心はやっぱり寂しくて、またもや悲しみは降り積もる。


 やがて思い出話は現在に戻ってきた。


 教室に沈黙は流れる。その静けさが私だけの新たな回想を促し、その空想旅行の末降り積もった悲しみはもうじき限界に達するだろう。それでもなお天井を仰ぐ私に、彼はいつになくもどかしそうに告げた。


「あのさツッキー」

「どうしたの?口籠っちゃって」

「今まで、ツッキーを助けなきゃいけない立場なのに、色々と迷惑掛けてごめんな」

「私も楽しかった。だからあなたが気にする必要はないわ」

「それとさ、ツッキー」


そして、彼はいつものように不意打ちを与える。




「──いや、月吉つきよし。三年間、本当にありがとう。人生で一番楽しかった」


 私は思わず彼の顔を見る。目線の行き先は遠く向こう。いつもおちゃらけた彼もまた、この三年間を思い返して寂しさを感じているのだろうか。


 もう上を向いていない私の瞳に、涙を貯蓄する機能はなかった。一粒、また一粒と心に降り積もった悲しみが私の外へ出ていく。とても悲しいし、寂しいし、やり切れないし、恋しいけれど、担任として笑顔でみんなを見送るために、今は涙を流してるんだ。


 きっとそのことは、隣にいる副担任かれも分かっているはずだ。今更だけど、何も分かってないようで、実は全部解ってるのが彼の本当の姿だと気付いたから。


「私も。一緒にクラスを引っ張ってくれたのがあなたで良かったわ。転勤しても、元気でね」

「おう......やばい、俺も泣きそうだ」

「ふふ、クラスの生徒達が来るまでに絞り出しちゃいましょう!」

「いや、ツッキーと違って本当に泣いたりはしないぞ」

「う......裏切ったわね」


 そんな会話をしながら、私は涙を出し切った。雨上がりの晴天のような爽やかさが胸一杯に広がる。


 さあ、これで笑顔の準備は万端だ。






 






「うう......ツッキー先生今までありがとう......」

「ええ、私もすごくすごく楽しかったわ」

「先生! 今度飲み行きましょう!! もちろん先生の奢りで」

「仕方ないわね。二年後君が大人になったらまた誘いなさいね」

「先生......!」


 卒業式が終わり、続々と職員席の周囲に生徒が群がる。普段冷静な子が号泣していたり、寡黙な子が饒舌に感謝を伝えてくれたり、門出を前にした生徒達の表情は新鮮だった。新任の身でクラス担任を任されたときは不安しかなかったけれど、今はみんなが愛おしくてたまらない。


「うぐっ......ツッキー先生はどうして泣かないの?」


 一緒に安全班をやっていた子だ。聡明で、話しやすい彼女には特別に教えてあげよう。


「私が泣いてたら、あなたたちが気持ち良く泣けないもの。だから......私の仕事は、笑って......見送ることだわ」


 今、上手に笑えているだろうか。

 声は震えていないだろうか。

 自然に瞳を向けられているだろうか。


 分からない。

 ──でも、私は負けない。


 どうしようもなく溢れる寂しさを噛み締め、私は今日一番の笑顔で、最もふさわしい台詞を彼女に送ってあげた。




「卒業おめでとう」

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