第四章

第四章

「よし、次は袖をつけるぞ。いいか、やり方はこうだ。まず、ここをこうしてこうやって、、、。」

杉三が、袖付けの指示を出したが、

「おい、何をやっているんだ?」

と聞くほど、禎子はうわのそらであった。

「禎子さんどうしたの?」

アリスが、心配になってそう聞くと、

「なんでもありません。大丈夫です、アリスさん。」

と、禎子は答えた。再び袖付け作業を開始したが、今度は中指に待ち針を刺してしまった。

「なにをやっているんだ?ちゃんとやれちゃんと。頑張って。」

杉三は特に、感情的に怒ることもしないけれど、不正については厳しかった。特に真剣身がないことには、ことごとく怒った。

「杉ちゃん、ごめんなさい。もう一回初めからやって。わからなくなっちゃったわ。」

禎子がそういうと、杉三は、おうといって、引き受けてくれた。でも、学校だったらこんな質問、間違いなく叱られるだろうと思った。

「禎子さんどうしたの?僕、頭ごなしに叱ったりしないからさ、隠さずに話してもらえないかな?」

ふいに杉三がそういうので、禎子は困ってしまった。

「言いにくいことなら、あたしに言ってちょうだい。もしかして、誰か身内に不幸でもあったとか?」

アリスが、心配そうにそういってくれるのが、なんだか申し訳なかった。

「それとも、体の具合でも悪いの?」

二人とも、自分の事と、腹の赤ちゃんのことを心配してくれているんだろうが、今の悩んでいることについては、何も心配してはくれないだろうなと思った。もはや、あの地位を盗られてしまった以上、私は、音楽家への道は残っていない。ソロのバイオリンで活動できるのは、本当に一握りだけだし、ほかに自分を入れてくれそうな、アマチュアの弦楽アンサンブルなんて、ありそうもない。インターネットで、アマチュアのアンサンブルを調べてみたら、驚くほど少ないということもわかった。そういうところが、東京に比べると、地方は劣っているところだなあと思った。

もう少ししたら、コンサートミンストレルとして、10年目を迎えるはずであった。でも、10年目は、こんなに嫌な形で迎えることになるなんて、、、。そんな気持ちばかりが頭をぐるぐる渦巻くのであった。

「そういえば。」

ふいにアリスがそういった。

「定期健診とかちゃんと行っている?」

ああそうか。定期健診か。でも、禎子は、堕胎することをめぐって、医者とけんかして以来、病院には全く行っていなかった。あの時、時期が時期で堕胎をすると違法になってしまうと、医者に大声で怒鳴られたのだった。でも、病院に行っていないと口にしたら、アリスたちに怒られるような気がして、

「ええ、先日行きましたが、異常はないそうです。」

とだけ言っておいた。

「あら、よかったじゃない、でも油断は禁物よ。それまで順調だったけど、いきなり早期剥離とか起こして大騒ぎってこともざらにあるんだからね。で、出産もその病院でやるの?高齢初産だし、病院に行きたい?」

「そうねえ、、、。」

禎子はちょっと考え込んでしまった。

「そうか、そんなに嫌なんだな。その気持ちわかるよ。僕もね、病院嫌い。なんか患者を商売道具にしちゃうからね。僕も、病院通っているからわかるんだけど、やっぱり患者をちゃんと人間として見ない医者は嫌だよね。特にさ、赤ちゃんはもっと神聖に扱われなきゃいけないと思うんだけどね。どうも、そこらへんが最近の病院はかけてるな。」

杉三がそんなことを言うが、別の意味で病院は嫌だった。きっとお母さんとしてもっとしっかりしろとか、うるさく言われてしまうような気がするからだ。

「もし、あれなら、自宅出産ということにすれば?特に異常はないんだし。何なら、あたしが手伝ってもかまわないわよ。そのためには、丈夫なロープを一本用意してもらう必要もあるけど。」

「ロープ?あ、あのことね。僕も何となくわかるよ。僕は経験ないけれど、お産ですごい力がかかるんだから、相当太い奴が望ましいだろうね。」

アリスの提案に杉三も付け加える。たしかにロープは、ホームセンターでも手に入るが、一般的に売られているロープでは、きれてしまうこともあった。そうなれば致命傷だ。昔であれば、藁を編んで作ってしまうことが多く、工事現場用のロープで代用するという例はほとんどない。それに何度も言うが、途中で切れてしまうと、大変なことになるから、本当に、強度がないといけないのだ。

「ごめんなさい。家にはロープなんてかけられる場所がないわ。」

禎子がそういうと、

「あ、そうか。今の家では天井に梁がないからな。昔はこういう場合、家の敷地内に産屋という、新しい棟を作って、産んだ後は物置とか、子どもの部屋として使ってしまうのが通例だったんだよね。でも、いまは、そんな家ないかあ。」

と、杉三が言ったので、また馬鹿にされているのではないかと思ってしまった。杉三の発言は、明治から大正の初めまでならの話である。

「ほんじゃあ、うちのあき部屋を貸してやるよ。うちの家では天井に梁もあるし、ロープもかけられるし、変な看護師もいないし、安全だよ。」

ふいに、杉三がそういうことを言い出した。

「え、本当?杉ちゃん。」

アリスが、思わずそういうと、

「いいよ、どうせあの部屋使う人、誰もおらんもん。使ってちょうだいな。」

杉三が快く承諾した。皮下に選択肢もなかったから、そこに決定した。

「でも、ロープをどこで用意したらいいのかしら?先ほど、言ったようにホームセンターで売っているロープでは、強度が心配だわ。お正月の、お飾りのロープくらい太いものがあればよいんだけど、、、。通販では、間に合わないかもしれないしねえ。」

「間に合わないって?来月まで待ってられるじゃないか?」

アリスの話に、杉三が質問した。

「杉ちゃん、予定日とかそういうものはあてにしちゃだめ、大体の人は、早く生まれちゃうことがほとんどなの。一月近く早く生まれてしまう人だってざらにいるわ。」

「そうなのか。そういうのは、不思議なもんだなあ。いくら予想してもあてにならんのか。」

杉三は腕組みをした。

「そうなのよ。で、禎子さん、赤ちゃんも活発に動いてるでしょ?」

「まあね、でも、最近は、おとなしくなってきて、さほど蹴らなくなってきているけどね。」

禎子がそう言うと、アリスはなるほどという顔をした。

「あそう。じゃあ、もうそろそろかしらねえ。陣痛はみんな、ものすごく痛いって口をそろえて言うけれど、生理痛よりちょっと痛いかな程度に考えてね。でないと、余計に痛くなるからね。不安とか恐怖が痛みを強めちゃうのよ。」

と、いうことは、出産ももうすぐなんだなあ、と、禎子は嫌そうな顔をした。


一方そのころ。

「あーあ、結局これですかあ。久しぶりにこっちへこれたから、もう少し寛大になれたかなと思いましたが、これじゃあ、怒りますよ。もう、どうしたらよいんだろう?」

ブッチャーは、腕組みをして、咳き込んでいる水穂を見つめた。

「俺、広上さんとちがって、変なものはだしませんから、食べてくれませんかね。肉も魚も全部だめで、おかゆとたくあんと蕎麦だけなんて、ほんと、六貫は脱出できませんよ。たんぱく質が取れなくなっちゃいますよ!ほら、もう一回、チャレンジして下さい!」

水穂はもう一回ジャガイモを口元へ持って行ったが、入れようとすると、激しくせき込んでしまうのだった。何度やっても同じことである。

「仕方ありませんね。」

ブッチャーは水穂の背を、そっと撫でてやった。

「これ以上はやめておきます。でないと、また、畳屋さんのお世話になることになりますし。」

ブッチャーは姉の看病経験により、限度を超えないということも学んできていたのだった。ある程度やって、できなかったらあきらめろというのも、ある意味では必要不可欠なことである。

と、思ったらそこへ、水穂、元気でいるか、とでかい声で言いながら、広上さんがやってきた。

「あ、広上先生。どうもお世話になります、元気どころか、この有様です。」

ブッチャーは座礼して、広上さんに丁重にあいさつした。

「具合、どう?」

広上さんは、ブッチャーの隣に正座した。お邪魔虫は消えますとブッチャーは、部屋から出ていく。

「また、何も食べられないのか?」

水穂は力なく頷いた。

「おいおい、お前、このままだと、本当にだめになるよ。体を何とかしてもらわないと、リストの協奏曲は実現できなくなる。」

困った顔をして広上さんはそういった。

「そうじゃなくて広上さん、来年の音楽祭りは僕ではなく、澤村さんに出演してもらったらどうでしょうか?ほら、ブラームスのバイオリン協奏曲とか、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲とか、そういう、華やかな曲はありますよ。」

変なことを言うな、と広上さんは水穂を困った顔で見た。

「澤村禎子?」

「ええ、澤村禎子さんです。彼女なら、演奏技術はあると思います。コンクールで優勝している実績もありますし。」

「お前もなあ。」

広上さんはあきれたという顔でそういいだした。そんなことも知らないのかと言いたげな顔だった。

「知らないのか?澤村禎子の事。」

「なんですか?僕は何も知りません。知らないから教えてください。」

広上さんは一つため息をついて、こう言い出す。

「あんなだらしない女性を、うちの楽団と協演させるわけにはいかないよ。いくら、アマチュアと言っても、メンバーさんはプライドの高い人たちだから。すぐに、別の先生を呼べってうるさく怒るだろう。」

「だらしない?どういうことですか?」

「そうだなあ。お前はここでずっと寝ていたわけだから、澤村のことは知らないよなあ。お前、おかしいと思わないか?もう子どもができかけているっていうのにさ、苗字が変わってないじゃか?」

「でも、僕が改姓したように、婿養子をもらって、相手の男性が澤村と名乗っているだけなのではないですか?最近では、多いようですし、、、。」

「いや、一般的には、結婚すると、女が苗字を変えるのが当たり前さ。実はな、あの女の腹の子の父親は誰なのか、まったくわかっていないんだ。澤村禎子は、音楽コンクールで五連敗したのをきっかけに、売春に走ったんだよ。去年まで東京都内のピンサロに、潜伏していたと聞いたことがある。いずれにしてもピンサロは、本番ということはしてはいけないはずだ。でも、中にはこっそりやってしまうことも少なくないようで。」

「はあ、、、。」

水穂は怒るよりも呆然としてしまった。

「これは大事な話だから、汚い話だけど、ちゃんと聞いてくれよ。海外ではよくある話だけど、日本でも、こういうことが平気で行われていて、梅毒の感染者が急増しているとか、問題になっているんだからな。そういうことをした女を、こっちも受け入れるわけにはいかん。お前は何も知らないんだろうが、すでにこのことは俺たちの学年でも話題になっていて、大変問題になっているよ。ほら、何しろ、美人だっただろ?だから昔からうわさになっていたんだよ。もちろん、禎子のほうは、友人なんてほとんど作らなかったけどな。それに禎子が音楽業界で頭角を現してきたのは、音大を出た後だったし。」

確かにそうだった。澤村禎子が、音楽雑誌などに顔を出すようになったのは、卒業した後だ。何度もコンクールで優勝し、オーケストラとも協演しているが、それはすべて社会人のためのコンクールで、音大生のためのものではない。

しかし、五年ほど前に、日本音楽コンクールで、敗北した後は、ぱったり姿を消していた。

そしてその結果が、彼女の腹の中にいるというわけである。

「それじゃあ、生まれてくる子は、決して幸せにはなりませんね。きっとこちらにいたら、本当につらいことばかりで、生きていても仕方ないという結論にたどり着いてしまうでしょうから、生まれて来ないほうがいいのでは?」

水穂がそういうと、広上さんもため息をついた。

「うん、結論から言えばそうなるよな。でも、もう取り返しはつかないよ。堕胎だって、日本ではいけないことになっているんだし。特別養子縁組とか、施設送りということに、、、。」

ずいぶんかわいそうなことを平気でするんだなと、水穂は思った。

「ですよねえ。間引きだって、合法ではないですし。僕も生まれてこないほうがよかったと思われるできごとは、数えきれないほどたくさんありました。もしかしたら、僕の故郷であれば、現在でも間引きしていたかもしれないですしね。昔はその罪悪感に耐えられなくて、木の人形を作って、その子の代わりにしたりしていましたよね。」

確かに、こけしの発祥として、そのような説もある。でも、現在そのようなことをする家庭はなく、こけしはただの飾り物としか認識されていない。

「まあな。それに今は子を捨てても、平気な顔して遊んでいる女ばっかりだからな。だから、お前みたいなやつは、そういう捨てられた子たちにとっては、うんと役に立つ人材であると、俺は思うんだけどさ。ほら、今よくやっているじゃない。ホロコーストを経験した爺さんばあさんが、事情がある子供たちを励ましてやったりするやつ。」

広上さんは、感慨深く言うが、水穂は、返答する前にせき込んでしまったのであった。

「ほらほら、よしてくれよ。お前はもうちょっと頑張ってもらわないと。仮にだよ、澤村禎子に赤ちゃんが生まれた場合、あの女のことだから、すぐにどっかへ捨ててしまうとか、施設に預けてしまうとか、そういうことをするだろう。その子はどう思うだろう?自分の母親が、自分を捨てたってことを知ったら。それをな、癒してあげられるのはな、お前みたいな全否定され続けたやつが一番いいんだよ。お前はこういう風に、役に立つこともあるんだ。そいつの話をよく聞いてやって、本当に心から分かってあげられるのは、お前みたいなやつじゃなきゃできないんだ!」

とにかく広上さんは、一生懸命言ったが、そこへ冷たい風がピーっと吹いてきた。水穂は返答できなくて、さらにせき込んだ。

「しっかりしてくれよ!お前にはもうちょっと頑張ってもらわなきゃ!」

とはいっても、最終的には口に当てた手が赤く染まるまで止まらないのだった。

「あーあ、これではもうだめだ、、、。」

改めて、もう持たないという言葉の意味が思い出されるのだった。


一方そのころ、蘭は、アリスと一緒に、澤村禎子から相談を受けていた。

「あの、一方的で申し訳ないことはわかっています。それに、こんな悩みは贅沢で、やってはいけないことは十分わかっていますけれども。」

口ごもりながらそういう澤村禎子を、アリスは、厳しい顔で見つめている。

「あたし、どうしても産もうという気になれないんです。産んだらどうしても、損ばかりしてしまう気がして、どうしてもだめなんです。どうしたらいいのでしょうか?」

「だけど、私は、養子に出すとか、そういうことは反対。ちゃんと、責任もって育てなきゃダメ!たとえ望まなかったとしても、赤ちゃんができるということは、神様が何か言いたがっていると、解釈しなきゃいけないと思うの。」

禎子の話に、アリスはお咎めするようにいった。出産を介助する立場のアリスから見れば、こんな発言、わがままにもほどがあるというに違いなかった。

「だって、赤ちゃんを育てるのに、経済的に困るということもないんですよね?それならある程度大きくなれば、子供さんのほうが助けてくれるようになりますよ。その前に名一杯の愛情を確認させることが、条件としてありますけどね。」

蘭は、大きなため息をついて、成功の条件をいった。基本のきの字はまずそこだ。つまり、それさえ確認できれば、どんな人間でも成功するということだ。

「ほら、よく言うじゃありませんか。有名人の中でも、すごく貧しかったけれど、愛情はたくさんもらったから生きていくことができたといっている人。それに、昔の芸人は、それがあったから生きてこられたと、口をそろえていうでしょう?」

「蘭、昔の話をしても仕方ないわよ。今の人は、そういう基盤はなくなっているんだから。それが当たり前なのよ。今は、家族のためになにかしている姿なんてほどんど見られないじゃないの。」

蘭の発言に、アリスはいかにも時代遅れだと、注意した。

「そうですねえ。確かに、五十年前の日本と、今の日本では全然違いますよ。十年前だって全然違うといっても過言ではない。うーん、僕もどう助言したらいいか、わからなくなってしまいましたよ。ただ一つ言えることは、僕のところに来るお客さんたちは、著しく愛情が不足しています。あなたはこれでいいのよ!と大きな声で言ってくれる人が一人でもいれば、刺青に頼らなくてもよいのではないかと思います。」

「そうそう。本来は、お母さんがそういうことをしてくれる一番の存在だったのよね。だけど今は、そうじゃなくて、家族以外の人だったり、時には、天理教の親さまのようなそういう人に頼らないと、何もできない時代になっているんだから!そんな時代だから、子どもが自分の仕事の邪魔をするなんて言う、わがままがまかり通っちゃうんだから。本来、そんな馬鹿な話、子どもを育てるお母さんは、一言も口にしなかったわ!」

と、アリスが言うように、もしかしたら天理教のおやさまのほうが、実の親よりも、はるかに優れているのではないかと、蘭は思ってしまうのであった。このようなわがままな親では、とても、献身的に子どもに接することなんて、とてもできないだろうな、とはっきりわかる。だから、刺青という蘭の商売も、なくなることはないのである。

現代は、変なほうに変わってしまったなあ、と蘭は思った。

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