僕らの恋はここから始まる

百川 凛

前編


「──危ない!」


 その声が聞こえた瞬間だった。


 ドンッ! という鈍い音と共にふわりと感じた浮遊感。


 気付けば私はアスファルトの上に倒れ込んでいた。今までに感じたことのない、壮絶な痛みに全身が襲われる。……痛い。痛い。身体が痛くて動けない。


 耳に残る急激なブレーキ音と、衝撃。



 ……ああそっか。私、轢かれたんだ。車に。



 自分の状況を静かに把握する。口からはヒューヒューという変な音がして、まともに呼吸が出来なかった。まるで心臓がそこにあるかのようなどくどくとした頭の痛みに、思考がうまく働かない。


 これ、結構ヤバイんじゃないのかな。


 薄れていく意識の中、脳裏にはっきりと浮かんだのはずっとずっと大好きだった彼の横顔だった。


 ……あーあ。どうせ最期ならもう一度だけ会いたかったなぁ。今でも大好きな、私の初恋の人に。



「……ひ…………い……くん」



 小さくその名を呟いて、私は意識を手放した。




 *




「は? 西谷にしがや?」

「そうだよ。お前高校の時隣の席だっただろ? 覚えてないの?」

「いや……覚えてるけど」


 信号がぱっと青に変わる。周りの車は一斉に停車し、歩行者のために嫌々ながらも道を開けた。

 消え去った騒音のせいで、四角い機械を通した奴の声がはっきり聞こえてくる。


「あいつ、今度結婚するらしいぞ」


 輪郭に沿ってツーと流れ落ちた汗がやけに不快だ。まだ七月のはじめ、それも夜の九時過ぎだっていうのにこの暑さ。地球温暖化の問題は随分と深刻らしい。


「ふーん」

「反応うっす!」

「別に興味ねぇし」

「昔は興味深々だったくせに?」

「…………うっせーよ」


 信号の青が点滅を始める。立ち止まっていた俺は慌てて歩みを進めた。あと少し気付くのが遅かったら渡り損ねるところだった。危ない危ない。


「でも本人は乗り気じゃないっぽいよ。親に無理やりお見合いさせられたらしい。おいおい、ここはお前の出番なんじゃないの〜?」

「……つーかさ、なんでお前がそんな事知ってんだよ」

「母親が女子会で聞いたんだって」

「じ、女子会……?」

「ご近所さんとか友達同士の集まりなんだけどさ、女子会って言わないと怒られるんだ」

「……へぇ」


 女性というのはいくつになっても若いようだ。……心が。


 築三十年、木造二階建てのボロアパート。そろそろ引っ越すか、なんて考えてはみるものの、物件探しやら準備やらがめんどうで結局いつもやめてしまい、気付けばもう七年もここに住んでいる。ま、安月給の独り身のサラリーマンだしな。雨風凌げて寝られさえすれば、それでいい。あー……。なんてさみしい二十五才。


 薄い鉄板の階段をカンカンと鳴らしながら上っていくと、どこかの部屋からがやがやと騒がしい声が聞こえてきた。……このアパートは学生が多いからな。宅飲みでもしてんのか? それにしたって近所迷惑レベルのうるささだ。誰だよ、まったく。


 文句を頭に浮かべながら歩みを進めると、信じられないことにこの騒音の元凶は俺の部屋だった。


 え?  な、なんで?


 さっきも言った通り、俺はこの部屋にさみしく一人暮らしをしていて、残念な事に合鍵を持って部屋で待っててくれる可愛い彼女なんてものは存在しない。かと言って、勝手に部屋に入って我が物顔で冷蔵庫を荒らしているような素行の悪い友人もいない。ってことは泥棒!? 侵入者!? いや、泥棒がこんなに騒ぐなんてありえないよな。捕まえてくれって言ってるようなもんだし。じゃあ何だ? まさか、テレビの消し忘れ?


篠田しのだ悪い!  あとでかけ直す!」


 俺は電話を切ると、急いで鍵を開けて部屋の中に入った。まさか、一日中こんな大音量が外に漏れていたのだろうか。だとしたら苦情は殺到だっただろう。やべー、大家さんに怒られる。出てけとか言われたらどうしよう。


 暗闇の中、煌々と浮かぶ光と部屋中に響く笑い声。……間違いない、テレビだ。でも俺、テレビなんて付けてたっけ? しばらく見てないような気がするんだけど。……変だな。


 疑問に思いながら、俺は部屋の電気をパチリと付けた。


 ぱっと明るくなった視界に飛び込んできたのは、なんとも衝撃的な光景だった。



「あはははははは!」



 真っ白いワンピースを着た見知らぬ女の人が、部屋の真ん中に座って笑いながらテレビを見ている。



 ……え。



 え?  あれ?  いやちょっと待てこれどういう状況?  なんで俺の部屋に女の子が? しかもテレビ見てるってどういうこと? え?  なんで? なにこれ? 夢?


 いきなりすぎて何がなんだかわからない。俺は固まってその場に立ち尽くすことしか出来なかった。額から冷や汗のようなものがだらだらと出てくる。


 いや落ち着け。落ち着くんだ翔太しょうた。こういう時こそ焦らず冷静な判断が必要だ。そうだ深呼吸。深呼吸しよう、深呼吸。はい吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、吸ってー…………。


「おい!  お前誰だよ!? 勝手に人の部屋に入って何してんだ!!  立派な不法侵入だぞ!! 警察呼ぶぞ警察!!」


 落ち着いている余裕なんてなかった。俺はテレビの音量に負けないくらいの大声で叫び出す。


「えっ?」


 くるり。


 長い黒髪を揺らして、女が振り返った。ぱっちりと開かれた大きな瞳とばっちり視線が交わる。こんな時に言うのもあれだが、中々の美人だった。美人は俺を見て何故かパッと顔を輝かせると、満面の笑みを浮かべて言った。


「おかえり平井ひらいくん! 久しぶり!!」

「…………は?」

「あれ? もしかして覚えてない? 高校の時同じクラスだった西谷! 西谷にしがや亜希あき!」


 その名前は聞き覚えがある。っていうかさっき聞いたばっかりだ。俺は不法侵入者をまじまじと観察する。


 髪は胸まで伸びた黒いストレート。ぱっちりとした大きな二重瞼に、左目の下には小さな泣き黒子がひとつ。お嬢様タイプの清楚系美人だった。スラリと伸びた手足は着ているワンピースに負けないくらい白い。



〝平井くん、教科書忘れたの?〟



 記憶の中の笑顔が、目の前の彼女の笑顔と重なった。


「えっ……ええええーーっ!?」

「懐かしいなぁ。何年ぶり? 平井くん、全然変わってないねぇ」


 嘘だろ!? 西谷ってあの西谷か!? 高校時代、俺の隣に座ってた!? 教科書忘れたって言ったら「じゃあ私の一緒に見よっか」って言って机くっつけて見せてくれてたあの西谷か!? つーかその教科書、実は毎回わざと忘れてたんだけどな!! ああそうだよ、話すきっかけがほしかったんだよ悪いかバカヤロウ!!


 さっき篠田からの電話で久しぶりに名前を聞いたばっかりだってのに、こんなタイミングで再会するなんて。つーか西谷、昔から美人だったけどますます美人になってやがる。結婚……かぁ。そりゃあ男が放っとくわけないよなぁ……。


「って!! なんで西谷が俺の部屋にいるんだよ!?」


 感傷と懐かしさに浸っている場合ではない。侵入者の正体が判明したところで問題はまったく解決していないのだ。西谷はえへへと照れたように笑いながら「説明するとちょっと面倒くさくなっちゃうんだけどね」と細い人差し指で頬を掻く。


「実は……ちょっと交通事故にあってさぁ。なんだよね、私」

「は?」

「だからね、死んじゃったみたいなの。私。交通事故で」

「……はぁ!?」

「いやぁ、平井くんが私のことえて良かったぁ。他の人には視えないみたいでさ。ほら、幽霊だから?」

「ち、ちょっと待てよ。死んだって……幽霊って……お前何言ってんの?」

「私もよく分かんないんだけどね、気付いたらこの部屋に居たんだぁ。平井くんの部屋って分かった時はびっくりしたけど、逆に好都合だったかも。昔馴染みのよしみでさ、私の未練晴らすの手伝ってくれない?」

「は、はぁ? ……さっきからなんなんだよ。冗談やめろって。笑えないぞ?」

「んー、やっぱり信じられないかぁ。そりゃそうだよねぇ……うん」


 西谷は俺をじっと見つめると、一歩一歩こっちに近付いてきた。


「は!? お、お前突然どうしたんだよ? え? ……ちょ、ちょっと待て!  落ち着け!  落ち着いて戻れって!  なっ!?」


 西谷は何も言わず、どんどんこちらに近付いてくる。いやいやいやいや、これはさすがにマズイって! 西谷ってば会わない間に随分積極的になったもんだなオイ!! ……なんてバカなことを考えているうちに、その距離は数十センチになり、数センチになった。待て待て待て待てヤバいだろ!! 西谷の顔はもう本当に目の前だ。微笑んだ彼女の顔を見た瞬間、その距離はついにゼロになり、


 そして──


 二人の距離は、になった。



「………………へ?」



 俺の口からは間抜けな声が出た。だって、ゼロ距離でピタリと肌がくっついたはずなのに、そこには生物特有の温かさも柔らかさも、冷たさも硬さも、感触という感触の何ひとつさえ感じられなかったのだ。それどころかマイナスの距離になったというか……簡単に言ってしまえば、西谷はのだ。


 全身の血がザァーっと下がった。


「ね?  これで信じてくれた?」


 満面の笑みを浮かべる西谷を最後に、俺の視界は真っ暗闇に包まれた。







 目がさめると、見慣れた天井がそこにあった。


「あ、起きた?」

「うおっ!?」


 ぬっと俺の顔を覗き込んで来た影に驚いて声を上げる。おかげでぼんやりとしていた思考は一気に覚醒した。


 ……そうだ。家に帰ったら西谷がいて……自分のこと死んだって言ってて……それで、俺の体を……あとは思い出したくもない。カーテンの隙間からは太陽の光が差し込んでいて、結構な時間気絶していたんだなと自分が情けなくなった。


「……西谷って死んだの?」

「ん? うん。たぶんね。やっと信じてくれたんだ?」


 そう言った西谷の体は確かに透けていて、向こう側のテレビが丸見えだった。こんなの、信じたくなくても信じるしかないじゃないか。


「……悪い。俺、気失ってたみたいで」

「ううん、突然あんなことされたら誰だって驚くよ。昨日は本当にごめんなさい」


 西谷はぺこりと頭を下げた。


「それでね、昨日も言ったんだけど、平井くんには私の未練を晴らす手伝いをしてほしいの」

「手伝うって……何すればいいんだよ」

「んー、ちょっとね。今日一日、私の行きたいところに付き合ってほしいんだ。ただそれだけ」

「そんなんでいいのか?」

「うん。ダメかな?」

「……別にいいけど」

「ホント? ありがとう!」


 西谷は笑顔で立ち上がる。


「あ、そうだ。私も皆みたいに平井くんのこと翔ちゃんって呼んでいい?」

「はぁ!?」

「高校の頃そう呼ばれてたじゃん。実は私も呼んでみたかったんだよね。ダメ?」

「別にダメってことはないけど……」

「やった! じゃあ呼ぶね! あ、私のことも亜希って呼んでいいからね!」

「よ、呼ばねーよ!」

「えー!? ……まぁいいや。早く行こう、翔ちゃん!」


 そう言うと、西谷は音もなく玄関をすり抜けて行った。俺は赤くなった頬を隠すように口元を片手で覆う。……下の名前なんて呼べるわけないだろ。そんな気軽にさぁ。俺は溜息をついてボロアパートを後にした。


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