亜王院の角①

 

 ナナカさんを両腕に抱えて、僕は走り出す。

 扉を開けて外に出るのも煩わしい。頭から窓に突っ込む。


 散乱するガラス片、飛び散る木片。


 だがその全てを僕の『鬼気きき』で燃やし、ナナカさんには一切の傷も許してない。


 僕の首に両腕を回して目をギュッと閉じているナナカさん。


 その姿を一度確認し、僕は踏み込んだ右足に全力を込めた。


 地面を踏み抜く跳躍の一歩。


 大量の土砂と共に僕の身体は宙を舞う。


「––––––っ!」


 その衝撃で彼女の身体が一度強張るが、僕の腕の力がしっかりと身体を保持している。

 だから大丈夫。


 空を悠々と飛ぶ大きな鳥を追い越した。

 鷲に似た黄色い鳥は突然現れた僕に驚き、バランスを崩して地面へと落ちていった。

 よかった。直前でなんとか姿勢を正すことができたようだ。

 ごめんね。気持ちよく飛んでいるのに邪魔しちゃって。


 急いでいるんだ。

 事は一刻一秒を争う。

 今は何を置いても、ヤチカちゃんの無事が最優先。


「た、たお……さま」


 震える身体にムチを打ち、ナナカさんは僕に一層しがみつく。


「舌を噛みますから、今は––––––」


 風の壁をまた一つ超える。

 その衝撃は僕なら耐えられるけれど、なんの鍛錬もしていない彼女にとってとんでもない負担となる。


 だからあらかじめ、彼女の周りには僕の『鬼気』を纏わせている。

 これでなんとか、耐えられるだろう。


「––––––ヤチカは、泣かないんです」


 青白い顔をしたナナカさんが薄く目を開き、僕の胸の中で小さく零した。

 僕のよく出来た耳は、けたたましい風の音の中でもその声を聞き分ける。


「––––––あの子は、まだ四歳なのに。泣かないのです。泣けばまた私がいじめられる事を知っていて、どんなに痛くても、どんなに怖くても、どんなに心細くても、あの子は絶対泣かないんです」


「––––––うん」


 跳躍の切り返し。再び地面を蹴った僕の左足の振動で、ナナカさんの身体がまた大きく揺れる。

 その度に彼女は僕の胸に深く顔を埋め、耐える。


「スカートの端をギュッと握って、小さな唇を痛々しいまでに噛み締めて。あの子はあんなに小さいのに、我慢してくれているんです」


「––––––うん」


 どんなに焦っていても、どんなに急いでいても、僕は彼女の言葉に返事を返す。


 きっと今、怖くて怖くてたまらないはずの彼女が求めているものだから。


「あの子はっ、お母様の顔もおぼろげにしか覚えてないのにっ、私にすら満足に甘えられないんですっ! 隙を見せればまた痛めつけられるってっ! 知ってるから!」


 とめどない涙は、自身の不甲斐なさの表れ。


 僕にすがりつくその手が、ギリギリと強く握られている。

 弱々しい彼女の身体の、その全ての力が姉として不甲斐ない自分を呪う。


 僕はまた強く彼女を抱きしめ、その金色の頭に顔を埋めた。


「大丈夫。大丈夫です」


 言葉だけじゃ足りないかもしれない。


 だけど、言葉すらかけられない男になりたくない。


「これからは、僕が守ります。貴女も、貴女の大切な物も。誰にも傷つけさせません」


 耳元で優しく、だけど確かに強い言葉で誓う。


「タオ……ジロウ……さまぁ」


 これは、僕とナナカさんの一生涯の契り。


 婚姻でも契約でもないただの口約束だけど、魂に誓う僕の覚悟。


 僕の覚悟はとうに決まっている。

 儚く、脆く、そしてこれほどまでに健気なこの女性ひとの涙など、金輪際見たくないから。


 だから僕が守るんだ。


 守りたいと、思ったんだ!


 その華奢な身体を強くかいなに抱き、僕は風すらも置き去りにして駆ける。


 妖蛇の森は、もうすぐそこまで迫っていた。

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