8話 氷剣(3)
重力によって動きが極端に鈍くなったアポストロが向かって行くのは、人間ではなく生身の精霊。
ぐっと握られた拳を腰のあたりに据えて、僅かに前傾姿勢になって。銃弾のように真っすぐに、実直に、迷いなく。突っ込んで行く。スピードは上がる。勢いは一切鈍らない。踏み出す一歩は重みを増していき、地面に靴底がめり込んだ。蹴り上げた大地は砕けて砂塵を作る。
拳に宿るのは無意識精霊の輝き。精霊が従えるエネルギーの結晶体を、アデルは直接、体に武装しているのだ。
「……ぐぅ、うううううう、アアアアアアアアア!」
歯を食いしばって重力に逆らっていたアポストロは、身に危険を感じたのか。悲鳴じみた声を上げ、全力で体を動かそうともがく。地面に縫い付けられたかのように落ちていた背中の刃が、ぎりぎりと音を立て始める。
―――アポストロの周囲を回っていた光の帯が、背中から生えている刃の一本に集まっていくのを、イライナとアデルの瞳はしっかりと捉える。
光の帯の力を得た一本の刃が、地面からふ、と離れる。ぐ、と刃に力がこもる。そして。
アデルへ向かって一直線に刃が向かって行く。貫くために刃の先は鋭く尖り、槍のようになる。回転が加わり、威力が増していく。
対し、アデルは拳を繰り出す。こちらも真っすぐな突きである。
拳の突きと刃の突き。一見すれば刃の突きの方が圧倒的に優勢なのだが―――
「邪魔、だ!」
気合の声と共にアデルが刃を殴り飛ばした。刃の先は上方へと跳ね上げられる。更にその先は奇妙な方向に捩じり曲がっている。
「あぎゃ!」
アポストロが悲鳴を上げる。視線が上を向く。
その間に。
アデルが前方へ向かって強く地面を蹴った。まるで飛ぶような跳躍で、両者の間合いは一気に縮まった。
「き、さま!精霊の、癖に!」
なぜ、とアポストロの口が動く。
「こちらとら事情があんだよ!」
アデルは拳を真っすぐに、アポストロの腹へ向かって繰り出した。拳がアポストロの腹に直撃する、その瞬間。手前側にあの、精霊術を吸収する帯が現れて、アポストロを守り、拳を受ける。
「―――む」
アデルが不審そうに顔を顰めた。帯が強く輝き始める。
「それだ!」
イライナは通信機のマイクに向かって、声を張り上げた。
「今、貴方の拳に当たっているその帯が、おそらく防護壁とやらの要だ!」
「これか!」
アデルが握った拳を開き、帯を掴む。途端、彼の掌から黒い煙が立ち上る。帯が高温を発しているのだ。
「こ……の……!」
アデルは痛みに顔を歪めながらも、帯を放さない。それどころか強く握り、力の限り引っ張り始める。すると、帯とどこかで繋がっているのか、アポストロは引きずられるように体を反らし始める。
「馬鹿め」
だが、アポストロは嗤う。
その背中にある刃がもう一本、ぐねりと蠢いて立ち上がり、アデルの頭を狙う。
「アデルさん、上……!」
危ない、とイライナが叫びそうになった時。
ぼ、と。
アポストロの刃に次は巨大な穴が空いた。刃に突如として開いた穴は、青白い燐光を零す。刃は地面へと力なく項垂れ、みるみるうちに萎れていった。
花が枯れるように。
生命力を失ったかのように。
「魔術……!?誰がっ……!」
アポストロは驚愕に目を剥き、一瞬だけ謎の攻撃が飛んできたであろう方向へと視線を向けた。
「―――ふん!」
途端、待っていたとばかりにアデルは両手で帯を強く握り込み―――渾身の力で引き千切った。
悲鳴が響き渡った。体の一部が引き千切られたかのように、アポストロは地面に倒れてのたうち回る。
「いたい、痛い痛い痛い痛い痛い痛い……この、やろおおおおおお!」
ぐわりと目を剥いた、アポストロが後方へと突如跳んだ。同時に、背中から刃が伸び、アデルを狙って真っすぐに奔る。
「うお、ら!」
そして、アデルが拳を振い、自身を狙う刃の全てを弾き飛ばしていく。弾き飛ばしながら、再び前進を始める。
あんな芸当、人間の―――精霊術士の中では一度も見たことが無い。
肉体強化?体自体が丈夫なのか、それとも無意識精霊たちの力なのか、アデル自身の能力の一つなのか。
アデルは前へ、前へと突き進む。向かって来る全ての刃は弾くが、絶え間なく襲い来る。
「ああ、くそ、邪魔だ!」
苛立ったようにアデルが怒鳴った直後、彼の周辺で無意識精霊が強く煌めいた。風はないのに、砂塵が舞う。互いに強く結びついて、強固な鉄の不格好な鎖へと変化していき、アデルへ向かう全ての刃を雁字搦めにして動きを止める。
「あんなことも、できるのか……精霊術は」
精霊術士の一人が呟いた。
人間が使う精霊術は、炎、水、など元素をそのまま敵にぶつけたり、空中に留まらせて壁として扱う事しかできない。それ以上、どうすれば精霊術を工夫すればよいのか、誰も分からないし、知らないからだ。
―――無意識精霊に指示を出す。
アデルが言っていたことを、イライナは思い出した。
精霊自身の意識があることの最大のポテンシャル。それは、精霊術を実質行使している無意識精霊たちに、綿密な指示を出せること。
少なくとも「的確で綿密な指示を出す」ことは、精霊術士が所持している精霊たちでは無理な話だ。
痛みに悲鳴を上げている状態で、思考を巡らせることなど、余程のいかれた生き物でもない限り、不可能なのだから。
アデルは堂々とした前進を続ける。
「いい加減!」
すう、と息を吸い、アデルは拳を強く握る。
そうして。
「往生、しやがれ!」
怒鳴り声と共に、アポストロに拳を思い切り振り抜いた。見た目が女性であろうとあまり気にしない性格であるらしい。アポストロの頬は瞬時に拳の一撃によって歪み、勢いのままに体が吹き飛んでいった。面白いほどくるくると宙を舞いながら壁に激突。派手に罅割れた。
「ぎ、あ……」
薄く声を吐き出して、アポストロは壁から剥がれ落ち、地面に倒れ伏した。ぴくりとも動かない。アポストロの周囲に展開していた光の帯が消え去っていくのを、イライナは視認する。
「……気絶、した?」
イライナが小さく呟いた直後。辺りで歓声が起こる。それは、勝利を確信した歓声だった。
「実体の持った精霊、案外強いじゃねぇか!」
「よくやった!」
称賛の声に、アデルは手首を解しながら舌打ちをする。
「調子のいい奴らだ……」
今にも人を殺しそうな目をしている。ていうか、実際に人間を圧倒し、殺す力を持っているのだ。
(あ、とにかくお礼を……)
はたと思い出し、イライナはアデルの元へと駆け寄ろうとしたが、
「いやあ、見事だな!」
手を打ちながら、サフィールがいつの間にかアデルの元へと歩み寄っていた。かなりの上機嫌で、笑顔を浮かべている。
「実に見事だった。精霊術とは、ああいう使い方もできるのか」
「なんだ、仮にも自称精霊術を使っているのに、そんなことも知らなかったのか?」
対するアデルの言葉がとても刺々しい。
「不本意ながら、教わっていないからね」
返すサフィールの言葉はどこか白々しい。
笑顔を貼り付けたまま、アデルにすっと手を差しだした。
「どうだろうか。君のその素晴らしく正しい精霊術を、我々に教えてくれないだろうか」
戦力増強のために。
新しい力を身に付けるために。
「勿論、君の身の安全を保障しよう。今後は契約術をこちらから持ち掛けることも絶対にしないと約束する」
アデルの眉根がぴくりと動いた。不快そうに、である。
何が目的であるかは、誰が聞いても分かり切った事だった。
「――――」
アデルは何かを言おうと口を開き。
「一回約束を破った奴の言う事を、どうやったら信じたらいいのか、僕、分かんないなぁ!」
わざと、皆に聞こえるほどの聞き覚えがある大声。
振り返れば、いつ到着をしたのやら、精霊術士の軍人(確か双子の上のほう)に背負われて、悠々と笑っている桜江雪路がいた。
「きさ……」
サフィールが口を開くよりも早く。
「この状況をどうしてくれるんだ、とか言うなよ。サフィール・ノイシェ。これはお前が招いた惨劇だ」
雪路は今までとは打って変わった、感情も全て冷え切ったような、まるで血の通っていないモノのような声色でサフィールを睨みつけた。
「お前らは僕の言葉を信じることよりも、自身の利益を優先した。僕が責められる謂れは何もない。それとも、アポストロの言う言葉など信じられるか、などとほざくつもりか?それはどうぞご勝手に。思想の違いや恨み言までお前らに合わせるつもりはない。だがな、一つ言えることがある」
口早にまくしたてながら、アデルは指を指す。
「今、お前たちは僕の僅かながらの善意を踏みにじったことで、信頼を失った。よって、僕はもう、善意でお前らを助けることはしない。どうせ善意は全て踏みにじられるのだからね。アデルのように常識の欠片もない殺人者たちに手を貸すほど、僕は優しくないし、慈悲深くもないからね」
指さした先で。
アポストロが立ち上がっていた。
首の骨が折れた状態で。生きているのが不思議な状態で。虚ろな赤い瞳がこちらを見ている。
人間ではあり得ないアポストロの様子を見て、その場の全員が凍り付く。
「あ、アポストロというのは、首を折れても生きていられるものなのか!」
思わずイライナは雪路に尋ねる。
「さぁてね」
雪路の返事は素っ気ない。答える気がないのだ。
「あついよ、あつい、あつい、あつい……」
アポストロの口から、声が漏れ出る。
それは先ほどの自信に満ちた声とは異なって、苦しそうで、今にも泣き出しそうな呻き声だった。それなのに、アポストロには顔には表情がない。肌は死人のように蒼白で、とても“熱さ”に苦しんでいるようには見えない。
「ああ、あつい……あつい……襲って来る……」
頭を抱え、蹲り、怯えるように震え始める。
アポストロの背中に、小さな裂け目が入った。
「今がチャンスだ。攻撃!」
サフィールの指示が辺りに轟いた。声に喝を入れられた精霊術士や戦闘員たちは、各々の武器を構えて、
「止めとけって」
雪路の小さな声を耳にして、イライナは慌てて叫ぶ。
「ま、待て……!」
当然のことながら、叫び声だけでは、彼らを助けるには足りなかった。
剣が、槍が、精霊術が一斉に苦しみ続けているアポストロへと襲い掛かり―――黒い巨大な手にひょいと顔を掴まれ、宙に浮きあがる。
「は―――?」
誰かが思わず間抜けた声を出す。
黒い巨大な手は、アポストロの破れた背中から生えていた。毒々しく輝く黒い腕は、アポストロの背中を裂きながら、まるで蝶の羽化のように、内側から這い出て来る。
形だけは人間に似た化け物だった。ただ、人間でいう首から上は何者か引きちぎられたかのように存在していない。何十本もの腕を持っており、腕の先についている手が、今まさに、人間たちの顔を掴んでいるらしい。
ゆっくりとアポストロの中から這い出たそれは地面に足をつけるが、骨がないのか、ぐにょりと足が傾ぐ。何とか持ち直して、立ち上がったその全長は二メートル超か。足元には、力尽きたかのようにアポストロの体が転がっている。
先ほどまでアポストロが背中に生やしていた無数の刃とはまた違う。命の気配が全く感じられない、黒い何かで構成された化け物が、全身に力を込める。
「い」
顔を掴まれた人間たちが、悲鳴を上げ始めた直後。無惨に人間の頭は全て、黒い手によって握りつぶされた。体だけが地面に落ちる。首から先がない、人間の体が。
また。
数瞬の後。
恐慌が辺りを支配する。
二度目の仲間たちの悲惨な死に、怒りと憎しみが辺りを満たしていく。精霊術が放たれ、それらは全て化け物の手に飲み込まれてしまう。よく見れば、化け物の体の中にまるで地脈のように帯が流れている。それは先ほど、アデルが破壊した光の帯と似て非なるもの。帯に刻まれた文様は、どこか禍々しい。
「精霊術が効かないぞ!」
「距離を取れ!」
「銃を!」
まだ何とか統制が取れている。だが、手に捕まった仲間を助けることほど、人間は化け物を倒す力を持っていなかった。故に、見殺しにするしかない。地面が血に染まっていく。
「……この……」
アデルが全身に力を込めながら前に進み出ようとしたが、
「止めとけよ。どんな精霊術も物理攻撃も、あれには効かないからさ」
雪路が制止した。
「……あれはなんだ?」
アデルが苦虫を噛み締めたような表情で尋ねる。対して、雪路は薄く笑う。
「見た通り―――死人。ゾンビ。“死”の概念が消失し、怨念を原動力に動き続ける、汚染された魂。宿主の体を捨てたから、実体を持たない。よって、物理攻撃は通らないし、精霊術もこの世の理に則った術だから、通用しないんだ」
「は……?魂、怨念って……は?」
雪路の言っている意味が分からず、イライナは口をぽかんと開く。
「……あれが、魂、だと……?」
アデルの方は、雪路の言葉の意味を理解したのか、驚愕の表情で化け物を睨んだ。
「そう。ああやって人間の魂を汚染して作られるのが低級のアポストロ。元になった人間の魂は余程、君達人間に恨みがあるのだろうねぇ」
「そんな話はどうでもいい!このままだとどうなる!」
声を荒げて、サフィールが雪路に銃口を向ける。顔には明らかな焦燥が浮かび上がり、汗が額を流れている。
普段の冷静な立ち振る舞いとは打って変わった表情に、イライナは驚いた。
この人も、こんな顔をするのか、と。
一方の雪路は、相変わらず落ち着きすぎた口調で、淡々と答える。
「どうなるもこうも。攻撃が通用しないんじゃ、お前らはどうしようもないだろう。あれは自分の怨念が昇華されるまで人間を殺し続けるだろうさ。つまりは、満足いくまで人間を殺させればいいだけの話だよ」
あっさりと。冷酷に。
雪路は宣告した。
ここで人間を生贄にしろ、と。
「そ、そんな……!嘘だろう……!」」
打つ手なし、という現実。イライナは受け入れられずに息を呑む。
「貴様の仲間だろう!貴様、なんとかしろ!」
冷静さを失ったサフィールが喚き散らす。引き金に掛かる指に力がこもっていくのをイライナは見た。
「うーん、できるけど……」
さらりと雪路は答えつつ、けれど、と指を三つ立てる。
「条件があるよ」
「人の命が懸かっているというのにか!」
「うん。だって僕にはお前たちを助けても、今のところ、利益がないし」
先ほどから無表情に、雪路は言葉を紡ぐ。怖いほどに。口調は軽いが、まるで怒っているかのようだ。
「一つ目。今後、僕とアデルに“人権”を認めること。つまりは人として認めること」
最初から、なんともまあ、難しい。
「二つ目。僕とアデルの旅に今後協力すること。軍部の物資の調達や、関所とかがあるならば、優先して通してくれるとか、宿泊施設の提供とか。そんなトコかな」
資金面の援助。割と堅実だ。
「で、三つ目。以上、二つの約束を必ず守ること」
条件、というのだろうか。まるで念押しのようだが―――イライナは、雪路の気持ちは少しだけ理解できた気がした。
イライナはサフィールの顔を見た。彼女は努めて表情を殺しているが、それでも。僅かに口元が吊り上がっている。
「なんだ、そんな事ならば約束を―――」
「因みに」
少し安堵したような声で答えようとしたサフィールの言葉を遮り、雪路は最終確認するかのように、はっきりと告げる。
「約束を違えた場合、君は死ぬ。確実に。惨めったらしく、長々と苦しんだ上に、ね。これは僕が殺すなどではなく、呪いだよ。僕という存在と対等に約束をする上で、かならず付いて回る呪い。それでもお前は引き受けるか?」
何か、とてつもなく不吉な事を告げられているのは、はっきりと分かった。
けれど、呪いなど。どこかの昔話や神話ではあるまいし。ある筈の無いものを脅迫に使われても、それは脅迫にはなり得ない。
案の定、サフィールは鼻で笑って返す。
「なんだ、そんな事、当然―――約束するさ」
「そう」
雪路は小さく頷き、肩を回し始める。
「そんじゃ、契約成立ということで。全員下がらせてよ。邪魔だから」
「―――全員、下がれ!下がれ!」
サフィールが落ち着きを取り戻した声で指示を出す。その中で。
「ああ、ところで。呪いってのは、重さがあってね。簡単に言えば人を殺した数と、その人物が騙したり、嵌めたり、裏切ったり、相手を絶望に陥れた数。その数が多いほど、呪いが重くなるんだ」
「は?まだその話を……」
笑うサフィールに、
「サフィール・ノイシェ。お前には該当者が千人以上いる。よって、呪いは相当重い。私を裏切るならば、覚悟を以て裏切りなさい」
雪路が薄く嗤う。サフィールの表情は凍る。
千人。サフィールが人を騙したり、裏切ったり、殺したりした数。イライナの中のサフィールは高潔で正義感が強い人だ。幼馴染の夢を継いで精霊術士になりたいと言ったイライナを、一から育て上げてくれた、師匠である。
けれど、イライナの瞳には映っている。サフィールの背後で蠢く、薄く黒い靄のような者たち。それが魂であることを知っている。彼らがなぜ、サフィールの背後で泣きながら控えているのか。
それは、想像したくはない現実だった。
「―――さて」
雪路は人が引いた支部の中庭で、少しだけ上機嫌な表情で“敵”を睨む。
「お前には恨みはないけど、とっとと消えて貰おうか。もちろん、後腐れなく、さっぱりとね」
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