phase9「おわかれ」

  それを認めてしまったら、今までの自分が崩れ去ると思った。


 「わからない」というのはきっと、建前だったのだろう。


 本当は、もうだいぶ前から……地球に潜入していたときから、わかっていたのかもしれない。知っていたのかもしれない。


 今までの自分──〈プルート〉の自分を全て捨てるなど、そんな考えが浮かぶことそのものが有り得なかった。常識でも考えられなかった。

 だから「わからない」という言葉を建前に用いて、逃れた。


 だがそんなことをせずとも、今までの自分は崩れ去った。唯一残ったものは、プルートという与えられた肩書きのみだった。


 人間のアイは、プルートではない。〈プルート〉は、ロボットがなるものであり、人間は決してなれない。


 今ここにいると、かつてこの宇宙に存在していた、


 プルートという肩書きは、オリジナルとレプリカのアイとの違いを示す、最大かつ唯一の証明だった。


 その肩書きを捨てるという事は、その証をも手放さなければならないことを意味する。


 人間のアイの亡霊が、ずっと後ろからついてまわり、一生逃れられない。


 それに自分は耐えられるかどうか。考えれば、耐えられないという予測結果が出た。


 なので以前までの日々に戻ろうと考えた。


 プルートとしての日々。自分で何かを考える事はしない日々に。以前はそれが当たり前だった。


 以前までの“日常”に戻る。そうすればもう、自分には無かった“個性”で考え続けることもなくなる。


 そう考えた。何かを考える事は、これで最後にしようと決めていた。


 それを邪魔された。

 心が無いのに心を守るという矛盾した考えを持ったロボットに。

個性はあるのかどうか、自分に考えさせる全てのきっかけとなった人間達に──。


 そんなことを考えながら、アイは歩いていた。


 宇宙船の外に通じる扉を開けた瞬間、風がなだれ込んできた。行く手を阻むように吹く風をかき分けて扉から出ると、正面で呆然とした顔で振り向くミヅキ達と目が合った。


 三人とも自分達を掴む護衛用ロボットの手によって、放り投げられる寸前といった体勢をしていた。


「全て退かせて下さい」

「……えっ?」


 これにはさすがのネプチューンも動揺を見せた。何か言われる前に、アイは相手の目を見て更に続けた。


「私の考えた計画が成功する確率を上げるためには、護衛ロボットを全て退かせるべきと言う計算結果が出ております。全機宇宙船内に戻して下さい」

「け、計画?」

「はい。この計画はダークマターの為になる結果をもたらすという、非常に高い確率が算出されております。ただ、申し訳ありませんが、この距離では小さな声量でも相手に聞こえてしまいますので、概要をお伝えすることは出来ません」


 狼狽えるネプチューンの目線が、ふとアイの手元に移る。ネプチューンはそこに指を指した。


「もしかして、を使うのですこと?」


 アイは頷いた。ネプチューンは附に落ちていないようだったが、護衛用ロボットに向かって、上から下へさっと手を振った。


 瞬間、ロボット達は掴んでいたミヅキ達の腕を離し、突然拘束を解かれた三人はその勢いで、ばたりと船体に倒れ伏した。


 船内に戻る護衛用ロボットと入れ替わってアイは、一歩一歩を踏みしめるように、ゆっくりと距離を寄せていった。


「アイ……」


 ミヅキが上半身を起こした。戸惑いで揺れているのにどこまでも真っ直ぐな瞳を、上から見下ろす。


「話がしたい。それだけの理由で襲撃するなど、ミヅキさんの行動は私には理解不能です」

「しゅ、襲撃って……!」


 心外を訴える目が、ふっと伏せられた。


「……ごめんなさい、アイ。傷つけるようなこと、言っちゃって」

「謝罪は不要です。ミヅキさんがミヅキさんの心に従って言った台詞ですから」


 突き放すような口調を意識して抑揚無く告げると、ミヅキは両肩をぴくりと震わせた。耐えかねたように下がっていく頭が途中で止まり、勢いよく上がる。


「でも、さっき伝えた言葉は本当だから!」

「さっき……。今ここにいる私以外知らない、という台詞ですか。ですが、そもそも私の何を知っているというのです?」


 ミヅキの中を流れる時間が停止したのか、揺れていた瞳がぴたりと停止した。三人との間を阻むように、冷たく強い風が絶えず吹く。


「そもそも私には、“誰かに知ってもらうような自分”が存在しません」


 アイが更に歩いてミヅキの隣を通り過ぎ、背後に回った。だが体が動かないのか、ミヅキは反応を示すことはおろか目で追うことすらしなかった。


 立ち上がりかけたミライを一瞥すると、ミライは表情ごと体を硬直させ、力を抜かしたように再び座り込んだ。

 後ろから感じるソラからの視線に、怯えが含まれていることが伝わる。


 恐らく今の自分の目は、誰にも有無を言わせぬ程の、冷たい目になっている。


「ミヅキさんに教えます。私は模造品レプリカ。それ以上でも以下でもなく、私の中にはこの事実以外存在しません。

もしミヅキさんがそれ以外のを知っていると仰るのなら、それはいわゆる、幻覚と例えることが出来ます」

「だけどアイ!」

「私と話をしたいと言っていた割には、あなたが私よりも多く話すのですか?」


 ミヅキの振り返りかけていた首がびくっと止まり、ポニーテールが跳ねた。一呼吸の後、首が前へと向かれる。


「……私、難しいことはわからない。だからアイの考えてる事も、難しすぎてわからないよ。私はただ、ずっとアイと友達でいたいって、そう思ってるだけだよ……」

「確かにミヅキさんの性質を考えれば、理解しがたいでしょうね」


 アイはミヅキのポニーテールから視線を下げ、後ろ手に組まれた両手へと移した。


 後ろ手に組まされた手首同士が重なる箇所に、太い鈍色の輪っかが嵌められている。


 この手枷の素材はただの金属では無く、ちょっとやそっとのことでは傷一つつかない、特殊な素材で出来ている。


 この手枷を外すのに一番簡単な方法がロックを外すことであり、それが唯一の手段と言っても過言では無い。

 ロックと言っても錠と鍵があるわけではなく、電子回路の埋め込まれた枷に指を置き、決められた動きを取らなくてはいけない仕組みとなっている。


 つまり、ミヅキ達が変身をしていて身体能力が上がっていても、力任せに外すことは不可能だった。


「私もあなた方の事が、理解しがたいです」


 アイがしゃがむと、瞬間、ミヅキから強い緊張が発された。ミヅキからだけでなく、ソラからもミライからも。


という存在は、いないも同然なのに」


 伸ばした手は、手枷に当たって止まった。指先で枷をなぞると、硬質さと冷たさが伝わり、体内に滲んでいく。


「そんな私を、それでもあなた方は、大切などと言うのですね」


 立ち上がり、移動する。ソラとミライの後ろにも回り込み、同じように手枷をなぞる。


「私もです」


 声は小さかった。だが見計らったようにそれまで吹き抜けていた風がやんだおかげで、自分の発した声は、どこまでも広がっていくように聞こえた。


 ミヅキの正面に戻って顔を覗くと、彼女は大きく目を見開かせ、前を見ていた。視線は依然として真っ直ぐなのに、焦点が定まっていない。


 アイは膝を折り、ミヅキと目を合わせた。やんでいた風が吹いて、ミヅキの背中の白いマントがはためいた。


 直後に高く響き渡ったのは、外れた手枷が、三つ同時に転げ落ちた音だった。


 もうその感覚は無いはずなのに、ミヅキ達は気づいていないのか、まだ両手を後ろに回していた。


 律儀に拘束されたままの格好でいるミヅキの口が動く。


「……いま、なんて」

「聞こえなかったのですか?」


 ちゃんと聞こえていたのは明らかだ。しかしミヅキは、ゆっくり頷いた。アイは嘆息し、口を動かした。


「私は、あなた方の事が“大切”だと。そう言いました」


 たった一言。それだけなのに、言った途端体がずしりと重くなった。

 今、確かに自分は真実を言ったという重み。


「気づきたくなかったです。でも、気づけて、良かったです」


 を認めてしまったら、今までの自分が崩れ去ると思った。


 今までの自分だけでなく、自分を構築しているもの、全てが消えると思った。


 立場も、肩書きも、自分がオリジナルのアイと違うという証も、全部無くした状態にしたら、果たして自分は、自分という形を保っていられるのだろうか、と。


 自信は全く無かった。だから何も考えないようにした。考えないでいると、楽になった。


 けれどもそんなアイのことを、この人間達は、“大切”だと言った。

 今までこの人間達が取っていた不可解な態度の数々の理由を、“大切”の一言で片付けた。


 博士も同じことを言った。ミヅキ達も同じことを言った。違いは何か。


 それについて“考えた”時、ある光景が目の前に浮かび上がった。それは、ミヅキ達と見た、あの星空の光景だった。


 同時に気がついた。自分はもう一つ、オリジナルのアイとは違うという証明を持っていた。


 ミヅキ達と過ごした時間。それは、レプリカのアイにしか持たないものだ。


 “時間”は、プルートという肩書きよりも更に「個性」としての形を伴っていない。

 オリジナルとの違いとして、どちらを取るか。考えるまでも無かった。だから逃げ続けていたを認めた。


 今ここにいる自分は、ミヅキ達と敵対したくないと思っている。ミヅキと、ソラと、ミライが、大切だと思っているのだ。


「ちょっと、さっきからどうなさったんですの?! 大丈夫ですこと?!」


 声が聞こえてくると同時に、後ろから肩を掴まれた。ミヅキがびくっと少しだけ後ずさった。


「一連の潜入計画で、私は地球に訪れ、標的に接触致しました」


 アイは立ち上がった。崩れると思っていた体は、予想外なことに、形を保ち続けていた。


 振り返って、ネプチューンを真正面から見る。相手は怪訝そうな表情をしているが、アイに対する嫌疑を全くかけていないことは伝わった。


「それまでとは大きく異なる新しい環境に、長期間身を置いていた影響でしょう。私の中に、ある考えが生じました。今までの私には生じることの無かった、全く新しい考えです。……申し上げても、よろしいでしょうか」

「えっ……?」


 微かに泳いだ視線から、困惑がはっきり伝わる。だが結局、それを表だって見せる事は無かった。


 「珍しいですわね」と頷いたのを確認したアイは、「ありがとうございます」と一礼した。


 風が吹いている。轟音が渦巻いているように聞こえる。風が体を刺すようだ。


「それでは僭越ながら、申し上げます」


 今にも体中のギアが止まり、全ての機能が停止しそうだった。


 いっそそうなってしまえばいいのかもしれない。全部壊れて、考えたくても考えられないようになってしまうのが、自分にとって最善なのかもしれない。


 だが壊れるのは、「この考え」を伝えてからでないといけない。背後にいるミヅキ達に、「この考え」を聞かなくてはいけない。


「ミヅキさん達と接して、私はよくわかりました。

心は、この宇宙に、必要不可欠なものです。心の自由は、不可侵のもの。絶対に、奪ってはならないものです。

AMC計画──正式名称AllMindControlオールマインドコントロール計画は、決して遂行されてはならないものです。速やかなる計画の中止を、要請致します」


 背後から妙な音が聞こえてきた。振り向くと立ち上がりかけていたと見られるミヅキが、横向きになって転がっていた。体勢を崩したようだが、本人は転んだことに気づいていないのか、愕然とアイを見上げ続けている。


 と、今頃になってミヅキは手枷を外されたことに気づいたのか、片手を顔の前に持っていき、ぎょっと目を見張った。


「……それは、誰かに言わされた台詞、ですこと?」


 その声が流れた瞬間、転んだミヅキも、彼女を起こそうと駆け寄っていたソラとミライも、皆一様に顔を青ざめさせた。


 怯えと恐怖が生まれた場の空気に、無理もないと他人事のように考える。


 それ程までにネプチューンの声は冷たかった。その声を聞いたもの、全ての体が凍り付くのではと感じる程。


 実際アイも、体を構成するギアなど全てが凍りそうだと感じていた。


 けれどもアイは自分が、ミヅキ達のような、恐れの感情が出てていないことを自覚していた。


「違います。私自身が導き出した、正真正銘、私自身による考えです」


 いつからかはわからない。だが決定打となったのは、あの星空を見たときだと確信できる。


 あの時確かに自分は、それまでの「自分」とは違っていた。違うものになったのだ。


「仰いましたでしょう? ダークマターの為になる、と。心という概念の消失は、ダークマターの為にはなりません」

「……どういう、意味です」


 ネプチューンは非常に人形にそっくりな容姿をしていると、今日人形展を回ってよくわかった。


 着こなしの難易度が非常に高そうなアンティークドレスと縦ロールという髪型を難なく着用し、自身の雰囲気とこれ以外には考えられないというほど合わせている。

 衣装だけで無く、普段彼女が浮かべる笑みも、人形のように愛らしく、人を惹きつけるものだと分析出来る。


 今のネプチューンも、人形そのものなのは変わらずだった。


 無表情で、何の感情も宿っておらず、これからも宿ることはないと感じる佇まい。


 確かに人間なのに、無機物で構成されているのではと感じるような雰囲気。特に緑色の瞳は、もはや作り物にしか見えない。


 睨まれるでもなんでもなく、ただ空っぽの瞳に見られるアイは、ぐっと片手を握りしめた。そこにあったものが、手に食い込む。


「銃って、悪者の持つ武器のイメージらしいです」


 片腕を上げる。腕が上がるにつれ、ネプチューンの視線も同時に上がっていく。アイが握っているものを、目で追っているからだ。


「私、決めました」


 腕の動きを止める。

 握っているもの──水鉄砲の銃口が、自身の上司であるネプチューンを見ている。


「悪者になります。あなた方にとっての」


 引き金部分を、深く、強く押し込んだ。そこから水が出てくるまで、たいして時間はかからなかった。


 何の殺傷能力も持たない水は真っ直ぐ飛んでいき、ネプチューンの衣服を濡らした。


 しかし黒色のドレスのせいで、濡れてもあまりわからなかった。胸元辺りの面積が、やや濃くなっただけだ。


「……え……」


 ネプチューンは首を下げ、水がかかった部分をじっと見下ろした。同時に、彼女の輪郭が揺らめいたように映った。


「寝返ったの、ですか……?」

「私の考える責任を、果たそうと決めただけです

「どういう……」


 体を震わすネプチューンに、アイは一言述べた。


「外にいると、危ないですよ」


 がくん、と足下が傾いた。ずるずると、体がゆっくり、下へと下がっていく。


 それはアイだけでなく、今この場にいる者全てに訪れている変化だった。


 後ろから元気にミヅキとミライの悲鳴が聞こえてくるが、地面の傾斜がどんどん急になっている状況にあるのに、ネプチューンはずっと下を向き、固まっていた。

そこからは動揺が一切伝わってこなかった。


 だがそれはネプチューンだけの話で、ソラがすっかり動じた声で聞いてきた。


「アイ、何を?!」

「宇宙船を操作しました。プルートとして当たり前に出来る業務のうちの一つです。

あとわずかで宇宙船の端のほうに乗っているものは全て下に落下する傾斜まで傾き、それと同時に宇宙船が宇宙空間に発射されます。

既にエネルギー充填は完了しているため、発射準備を取り消すことは不可能です」


 船体操作と発射準備、それらの時間設定。外に出てくる前に、全てやっておいた。

 時間通りだった。計算通りに進んだ。すべきことは全て終わった。伝えたいことも、したいことも、全部終えることが出来た。


「よろしいのですか? このままここにいたら、生身で宇宙空間に飛び立つことになりますが」


 アイがそう言っても、ネプチューンは動く気配を見せなかった。


 だらりと両腕が下がっている姿は、電池の切れたロボットというより、その容姿から、ぜんまいが切れた人形に近かった。


 すると地面の一部分がスライドして開き、中から大きなプロペラを背負った何体かの人形が出てきた。

 宇宙船がもうすぐ発射されるというのに表にいる主の危険を察したのだろう。


 人形は背中に小さな箱のようなものを背負っており、そこから腕のようにして、細く長いアームが伸ばした。


 アームでネプチューンの両腕を掴むと、そのまま飛び立ち、宇宙船に繋ぐ扉へと向かっていった。


 その間もネプチューンはぴくりとも動かず、意思のない人形のように、されるがままになっていた。一体どうしたのかと、その姿に違和感を覚えたときだ。


「正体を偽って騙し続け。戦闘を行い相手を傷つけ。果てには先程、怒鳴って酷い事を言って」


 人形に運ばれ、人形が開けた扉に吸い込まれていく寸前。地を這うように低く、氷よりも遙かに冷たい抑揚のない声が、アイの耳に流れ込んできた。


「そこまでしたあなたが、今更向こう側の主張に同意したところで、居場所が与えられるとお思いですの?」


 ネプチューンが話す間も、間も船体は傾き続けている。


 宇宙船に繋がる扉がある場所は傾斜の上方にあるため、アイから見て上に位置していた。なので必然的にアイは、ネプチューンを見上げる形となっている。


 ふっとネプチューンが顔を上げた。確かに瞳が存在しているその両目は、底なしの穴が空いている様子を連想させた。


「あなたはどこにも行けない。賢いあなたならちゃんと理解できるでしょう?」


 呪いを呟くように。その言葉を最後にネプチューンも人形も中に入り、ばたんと扉がしまった。


 その音が、ネプチューンの台詞が、いつまでも場に残り続けているようだった。


 わかっている、と思った。よく理解している。言われるまでも無い。


 ミヅキ達の悲鳴が聞こえてきた。アイは振り返り、傾斜の下、宇宙船の端へと向かった。


 見るとミヅキ達は宇宙船についている出っ張りや凹んだ部分などにしがみつき、落下を防いでいた。


 アイはその場に座ると、傍にあった手すりのような形に似た取っ手を掴み、自身の落下を防いだ。


「何をしているのですか、あなた方は」

「それはこっちの台詞!!」


 宇宙船の縁を両手で掴むミヅキが怒鳴った横で、出っ張った部分を抱きしめるように両手で掴んでいたソラが、目線を上に向けた。


「アイ、さっき言ったことは」

「嘘ではありません。私の本音です。ずっとずっと前から、考えていた事です」


 ぱちぱちと音が聞こえてきそうな程、ミヅキとソラとミライの三人分の瞬きが重なった。

 二度三度の瞬きの後、ソラは一人、ふっと穏やかに笑った。「良かった」


 瞬間、また傾斜が傾き、その一言は「うわあっ!」という悲鳴にすぐ置き換えられた。


「ア、アイちゃん、本当に良かったけど、な、なんでこんな風に傾いているのかなあ?」


 ミヅキの隣で、両手で凹んだ部分を掴んでいるミライが、この状況なのに笑顔のまま聞く。とはいえ余裕が無くなってきてるのは、額に滲んでいる汗からして明白だった。


 角度を計算すれば、もう下に落下していてもいいはずだった。取っ手という支えがあるアイに対して、ミヅキ達が掴んでいる支えは心許なく、力を抜けばすぐに落ちる。


「むろん、あなた方を強制的に下ろすためです。早く手を離しなさい。もうすぐ宇宙に行きますよ、この宇宙船は」

「アイちゃんは?」

「私は、このままここにいます」


 言うと、全員表情が固まった。予測していた反応だったので、特に何も感じなかった。


「なんで」ぶら下がるミヅキが問う。「だってそれって」


「助けて頂いた借りは、これで返しました」

「誤魔化さないで!!」


 ミヅキが怒鳴った。


「だって、このままここにいるって」


 ミヅキの性格は、どちらかといえば鈍感なほうだ。だが今この時は、その鈍さが消えていた。


 恐らくこの場にいる全員、気づいているだろう。


 このままここにいたら、間違いなくアイは大気圏で燃え尽きること。

 もし船内に入れてもらえて回避できたとしても、寝返ったとしみられるだけの行動をとった。廃棄処分されるか、良くて改造を施され、今の自分とは全然別物に作り替えられるか。


 どんな形であれ、こうしてミヅキ達の傍で、ミヅキ達の知るアイとしていられる時間は、残り僅かだった。


「それで、いいんです」


 ミヅキが両手を動かし這い上がろうとした。上ったことにより前へ進んだ両手は、傾き続けすっかり急になった傾斜により、戻される。


「駄目、絶対に駄目!!」

「だからこんな手を使ったのですよ。普通に伝えたら、あなた方が素直に下りてくれる可能性が大変低いと計算できたので。早く下りなさい、捕まっているのも辛いでしょう」

「何言ってるのよっ!!」


 怒鳴ったミヅキに、アイはため息を零してみせた。

 どう説得したものかと考えあぐねていると、視界の端で、ミライが凹凸から離した片手をアイに伸ばす姿が映り込んだ。


「私ね、アイちゃんとしたいこといっぱいあるの! 一緒に写真撮りたいし、好きな写真家さんの写真を紹介したいし、あと私の絵の、自信作も見てほしいし!」


 アイが答える前に、ミヅキが何度も首を縦に振った。


「私も! アイと一緒に美味しいものいっぱい食べたいし、作りたいし、あとミーティアのごはん、改めてご馳走したい! ……穹はっ?!」

「数え切れないくらいあるよ! 色々な本を教えたいし一緒に読みたい。それに、新しい料理のレシピの、アドバイスを教えてほしい」


 おもむろにソラの片手が、アイに向かって伸びていく。


 ミライとソラに挟まれ間にいるミヅキは両手で縁を掴み体を支えているため手を伸ばすことは出来ないが、その代わりだと言わんばかりに、ずっとアイのことを見つめ続けている。


「行こうよ、アイ! 私達と一緒に!!」


 張り上げられた声で紡がれた台詞は、きっと言うだろうと予測していたものだった。アイはミヅキの目と、伸ばされたミライとソラの手を順番に目に焼き付けた。


「魅力的なお誘いですね。私には勿体ないくらいの……」


 ぽつりと言った後で、はっきりと首を振った。


「私は、あなた方に味方することは、できません」


 えっ、という声が重なり合う。混乱、動揺、困惑。それらが混ざり合って、ミヅキ達の顔に広がっていく。


「どうして。だってさっき」

「はい。計画には反対です。だって私は、あなた方の“心”が大切ですから。

その人の個性は宇宙に一つだけのもの。あなた方の個性も、宇宙に一つだけのもの。そんなあなた方の個性が、私は大切です」


 見下ろすミヅキの目が、だったら、と訴えている。納得していないミライの目、困惑しているソラの目。


 それらの目を見て、この人間達はある意味で、何もわかっていないのだなと思った。

 だからなんの躊躇いも無く手を伸ばし、一緒に行こうなどと言うことが出来るのだ。


 そんなミヅキ達のことを、やっぱり最後まで理解することが出来なかった。


「だからこそ、行けないのです。私は、あなた方に、酷い事をした。ずっと、騙していた。痛い思いだってさせた。そんな私が、あなた方の傍にいるなど、常識的に考えても有り得ない。道徳的に考えて許されないです」

「そんなの関係な」

「私が嫌なのです。こんな私が、あなた方の傍で何もなかったようにしてのうのうと振る舞っている姿。今まで通りにあなた方と接している姿。考えただけで、嫌悪が湧いてくる」


 ミヅキ達を傷つけた自分が、ミヅキ達と行く。その可能性は既に考えていた。


 だが少し予測を試みると、全身を得体の知れない虫が這うような気持ち悪さに襲われた。

 体中を掻きむしりたくなって、これが虫酸が走るという感覚かと学んだ。


 自分は、どこにも行けないのだと知った。これで良いのだと、思った。恐れることは無い、と考えることができた。


 アイは一つ息を吐くと、心臓コアの収まる部分に手を置いた。


「従わせて下さい。私の、に」


 ここにあるのは、ただのコア。心でもなんでもない。それは人間だけに、生き物だけに与えられた、特別なものである。


 それでも、自分の考えと、それに基づく作り物の感情によって編み出された自分の“こころの声”は、確かに聞こえてきていた。


 今までずっとアイを見上げていたミヅキの目が伏せられた。


 冷たい風が吹き抜けていく音と、それによってはためく三人分のマントの音で、辺りはそれなりの騒音が生まれていた。

 その合間に、ミヅキかソラかミライか判別できないが、息づかいが聞こえてくる。


「アイが嫌だからとか、そんなのどうでもいいよ」


 ぼそりとした呟きは、正面から聞こえてきたことによって、ミヅキの発したものだと判断できた。

 けれども、ミヅキとは思えない程低く冷たい声で、信じられなかった。


 刹那。ミヅキの片手が、縁から離れた。

 あっという間に伸びてきたそれは、アイの手首を、捕らえるように掴んだ。


「大切だとかなんだとか、そんなこと聞いちゃったら、もう無理! 何があっても、離さないからっ!!」


 顔を上げたミヅキの瞳に、かっと光が差す。その眩さを表しているように、ミヅキの力はとても強く、振りほどこうとしてもびくともしなかった。


「そうだ、どうでもいい! 今は、アイちゃんの考えなんて、どうだっていい!!」

「心のままにって言ったけど、こればかりは、受け入れるわけにはいかない!!」


 伸びたミライとソラの手が掴んだ先にあったのは、アイの手首を掴むミヅキの手だった。


 三人分の重みが、ずしりと伝わってくる。実際の重量はそこまであるはずがないのに、手だけで無く体も少しも動かせられないほど、重いと感じる。


 だが、どこも動けない中で、ミヅキが掴んでいる手とは反対の、背中に回していたもう片方の手は、ちゃんと動いてくれた。


「私が敵という立場でも……人間オリジナルだったら、きっと違っていたのでしょうね」


 どういう意味かと。怪訝そうに細められたミヅキの両目目掛けて、隠していた片方の手に握りしめていたものを、突き付けた。


 はっと、目が見開かれる。そこに向かって、銃口から飛び出た水が、真っ直ぐ向かっていく。


 水はミヅキの顔に、特に目に、しっかりとかかった。


 開いていたミヅキの目が、その瞬間、閉じられた。

 瞬間、船体が傾いた。美月の手から、力が抜けた。重なり合ったそのタイミングを、アイは見逃さなかった。


 アイは、手に力を込めて、振りほどいた。


 ミヅキも、その手に自身の手を置いていた、ソラもミライも。

 一緒になって、宇宙船から落下していく。再びどこか掴もうと仰ぐ手は、ただ虚空を切る。


 アイは覗き込んでその光景を眺めた。全ての動きが、スローモーションのように非常に遅く再生されていた。


 何が起きているのか、まだわかっていなさそうに呆然とした目をしていて、それでも手を伸ばし続けている三人を見下ろして、声を投げかける。


「あなた方は、確かに私を変えた。一生変わるはずのなかった私を変えた。その事実だけ覚えていて下さったら、うれしい、です」


 動きはこんなにゆっくりに映るのに、発された台詞の速度は、いつも通りだった。だからちゃんと言葉として、三人の耳に届いたはずだ。


 その証拠に、三人の目が見開いていく。その瞳に、膜で覆われるように、水が張っていく。


「約束、守ったでしょう? ちゃんとお別れするという、約束」


 こういうお別れ方なら、及第点は取れるだろうか。そんな風に考え、目を閉じる。


 ミヅキ達の姿を目に焼き付けたいのに、なぜかもう、これ以上目を開け続けていることが出来なかった。


 両目から、何かが溢れ出てきそうだった。その「何か」の正体がなんなのか、アイは知っていた。


 自分がその「何か」を零す日が来るとは、想像もしていなかった。そう思うと、ふっと口角が上がった。


 その直後。


 自分の後頭部を、何かが物凄い勢いで、掠め去って行った。


 直前に弓弦の音が微かに聞こえてきたから、恐らく掠めていったのは、弓矢だろう。


 それにより反射的に、ほんの少しだけ体を前へ傾けた。


 瞬間、宇宙船が一際大きく傾いた。


 握っていた取っ手の感覚と、膝をついていた宇宙船の外壁の感覚が無くなった。


 風の音が突然強くなったことが気になって、瞼を開けた。口も開けた。声は出てこなかった。


 地面が見える。下に川が広がっている。太陽光を反射する川面が見える。


 気がついたらその光に、腕を伸ばしていた。指先に、こつんと何かが当たった。


 川から目線をほんの少しずらし、正体を確かめた。


 それは、伸ばされ続けていた、ミヅキの手だった。二人の指先が、確かに触れあっている。


 ミヅキが更に手を伸ばし、アイの手を掴んだ。


 強い力だった。間違いなく跡が残る。確信した瞬間、アイはミヅキ達と共に、川に叩きつけられた。


 どぼんと音がして、辺りが水で包まれて、音が消失しても、それでも手は、ずっと繋がれたままだった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る