phase6.1
「アイ、ちゃんと伝えられたかなあ」
一羽の鳥が、秋の高い大空を悠々と羽ばたいていく。ベンチに腰掛けながらそれを眺めていた美月は、誰にともなくそう呟いた。
一人言だったのだが、両隣に座る穹と未來から言葉が返された。
「きっと大丈夫だと思うよ、僕は」
「私もそう思う~! だってアイちゃん、前とだいぶ変わったもん!」
だよね、と頷いた。
本心からの言葉は、人に伝わるものだと美月は思っている。アイの本心からの言葉を聞いて、心が揺れ動かない制作者などいないだろう。
そう一人で納得していたときだった。
まるで何かから逃れるように、聞くだけで切羽詰まっているとわかる、乱れた足音が美月の耳に届いた。その音は徐々に近づいてきていた。
何の気なしに音のする方向を向くと、次の瞬間絶句した。
足音を鳴らしていた人物は、アイだった。
走る姿勢は滅茶苦茶で、普段の理路整然としたアイからは想像できないほど、荒々しく乱れた足取りだった。
今にもつんのめりそうな体勢で走っていたアイは、やはりばたんと転び、地面に両手をついた。
「アイッ?!」
慌てて駆け寄ると、両肩が激しく上下しているのがわかった。息を吸うのも吐くのもばらばらで、青色の両目は大きく見開かれていた。
背に手を添えると、アイがはあ、はあと呼吸をする度に波打った。髪の桜のかんざしが揺れる。
「わたしは、わたしは」
アイは乱暴に、自分の胸の中心を掴んだ。
「誰かの代わりとして、作られた存在でした」
胸元を掴む手に、布を引き裂かんばかりの力が籠められる。衣服を通して、心臓に爪を立て引きちぎりそうな勢いに見えた。
「な、何が起こ」
「死んだ博士の娘の代わりとして、私は作られた」
声量が落ちた。あれだけ激しかった息が、前触れも無くぴたりとやんだ。直後アイは、背を丸めた。
「博士は、私を見ていなかった!! “人間のアイ”の姿しか、見ていなかったっ!!」
身体の奥底から溢れ出てきたような大声だった。それはびりびりと美月の鼓膜を揺らした。
顔を上げると、呆然とアイを見下ろす穹と未來と目が合った。
「待って、私を置いていかないで、アイッ!!!」
頭をつんざく絶叫が響き渡った。
顔を上げた美月は、思わずぎょっと身を引きそうになった。アイの後ろから、獣のように走ってくる人影が見えたからだ。
それは紛れもなく、アイが博士と呼んでいた人物だった。狂気を覚える程見開かれた両目からはとめどなく涙が零れ続け、顔中を塗らしていた。
振り返ったアイは、デイジーが目一杯伸ばしている腕を見た途端、弾かれたように立ち上がった。
「嫌だっ!!」
穹と未來を押しのけ、駆け出した。走る速度はあまりにも速く、あっという間に背中が小さくなり、そして見えなくなった。
呆気にとられていた美月達は、誰も後を追うことが出来なかった。
と、背後で足音が止まり、次いで息を切らす音が聞こえてきた。振り返ると、立ち止まったデイジーが、息を整えている最中だった。
「……アイは、アイは、あんなこと言わない……」
小さく口が動き、聞き取れるぎりぎりの範囲の声が聞こえた。
あの、と声を掛けたのと同じタイミングで、デイジーは涙のせいで赤くなった目を上げ、美月達を睨み付けてきた。
「……また、私から、アイを奪おうというのね」
間髪入れず、人差し指の先が、自分達に向けられた。
「あんた達、あんた達は、悪魔だっ!!!」
「……はっ?」
聞き返した瞬間、デイジーは更に目を見張った。彼女の怒気が一気に強まったことが、気配で伝わった。
「私の、私のアイは、あんなこと言わない。私の心を無視するようなことなんか、絶対に言わなかったのよ」
「え、アイ……?」
「アイがおかしくなったのは、あんた達のせいだ!! 原因は、あんた達にあるんだっ!!」
耳を塞ぎたくなるほど大きい声だった。実際に行動に移さなかったのは、呆気にとられすぎた体がどこも動かなかったからだ。
「あ、あの、どういう」
「アイを、アイを返せっ!!
一目で半狂乱になっているとわかるデイジーが、一際大きな金切り声を上げた瞬間だった。
ばきい、と何かが強い力でへし折られる音が、デイジーの声を分断した。
草木の掻き分けられる音が、ベンチのすぐ後ろに生える茂みから鳴った。
「……てめえ、もういっぺん言ってみろ」
地を這うような低い声と共に、茂みからクラーレが現れた。
この場に現れたもう一人の人間を見たデイジーは、半狂乱の形相を一転、恐怖に染めていった。
デイジーはがたがたと痙攣する手で口元を覆い、後ずさった。
「ベ、ベイズム星人っ……!」
クラーレは手に持っていた、無残にへし折られた長い木の枝を地面に叩きつけた。
「こっちの台詞だそれは。とっとと消え失せろ」
ペストマスク越しでもわかる、怒りで爛々と光る黄色い瞳に睨まれたデイジーは、置き土産のように憎悪の籠もった眼差しを美月達に向けると、アイの去っていった方角へと走っていった。
「ちょっとクラーレ、クリアカプセル!」
「耐えられなかったんだよ」
博士の去って行った方角へ向けて舌打ちを放ったクラーレは、カプセルを身につけた。
「来といて良かった、本当に」
アイは気づかなかったようだが、クラーレも実はこっそりとこの人形展に訪れ、外で待機していた。
アイと出かけることに対して、「やっぱり気になる」と、自分達もついて行くと言って聞かなかったからだ。
何も起きなければ少しはクラーレもアイへの警戒心を弱めるだろうと渋々ついて行くことを承諾したのだが、まさかこんな事態になろうとは。
「……大丈夫か?」
「え、えーと、状況が一個もわからなくて」
クラーレが気遣うように短く聞いたが、穹はきょとんとした様子で答えた。
美月も、頭が全く追いついていなかった。正直立て続けに様々な事が起こったせいで、今自分達が罵倒された現実を、他人事のように感じていた。
「ううん。一つだけ、わかることがある」
未來が静かに言った。
「今のアイちゃんが、深く傷ついてるってことだ」
美月は走ってきたアイと、走り去ったアイ、そして転んだときのアイの姿を思い出した。
あんなアイは、見たことがなかった。状況が何もわからなくても、わかる。
アイが、助けを求めていることに。
「どうする、姉ちゃん」
穹が聞く。だが目を見れば、美月がこれから何を言おうとしているか全てお見通しということが伝わってきて、苦笑しそうになった。
「決まってるじゃない。アイを、追いかける!」
「……いや、どこ行ったかわからないだろ?」
クラーレに冷静に事実を突き付けられては、うっと言葉を詰まらせるしかなくなった。冷や汗が滲んだ直後、草木の揺らめく音がした。
美月達についてきていたのは、クラーレだけではない。
クラーレが現れた茂みから、今度は赤ちゃんを抱いたテレビの異形頭が現れた。頭のてっぺんにはシロが乗っかっていた。
ハルは片手に、薄いパネル状の端末を手にしていた。しばらくの間何も言わずに端末を凝視していたが、ふいに「うん」と動いた。
「どうやらバスに乗ったようだ。移動している」
「え?」
「行き先はわからないが……恐らく統計的に判断しても、すぐには下りないだろう」
「あの、ハルさん、さっきから一体何を……?」
穹が聞くと、ハルは端末の画像をこちらに見せた。小さな赤い点が、明滅しながら移動する映像が、そこに表示されていた。
「アイの位置情報だ」
「わ、わかるのっ?!」
ハルは頷くと、コートのポケットから何かを取り出した。それは、桜のかんざしだった。ちょうど、アイの身につけている物と、全く同じだった。
だが、そこで違和感が生じた。今日アイは、この桜のかんざしをちゃんと髪に挿している。つい先程も、髪に挿されていたこの桜のかんざしを、しっかりこの目で見ていた。
ハルはさらりと言った。
「アイが身につけていたかんざしは、私の作った偽物だ」
「……え?!」
「こちらのかんざしを型に全く同じものを製作した。さすがに材料は違うが、アイが気づいていない辺り、質感は本物と全く同じにまで再現できたようだ」
美月は頭に手をやった。
「な、なんでそんなことを?」
「私が作ったかんざしには、内部に位置情報を把握出来るパッチを埋め込んである」
端末を見ながら、ハルは淡泊に言い放った。
「予防策だった。だが、まさかこういう使い方をすることになるとは、予測していなかったな」
と。呆然としている美月の肩が、ふいに叩かれた。見ると、クラーレがいつの間にか傍に立っていた。
クラーレはアイが去って行った方角へ顎をやった。
「……追いかけるぞ」
美月は瞬きの後、大きく頷いた。
「当たり前じゃない!」
「緊急度レベル5ノ連絡ガ入リマシタ。プルート様発見ノ報セデス」
「なんですってっ?!」
宇宙空間の遊泳中、一人お茶会を楽しんでいたネプチューンは、危うくティーカップを落としそうになった。
報告しに来た人形型ロボットを、慌ただしく抱きかかえる。
「報告者カラ直接ノ通話ノ要望ガ来テオリマス」
「すぐ通してくださいまし!」
ワカリマシタの無機質な声と共に、人形型ロボットは通話を許可する指令を飛ばした。瞬間、ネプチューンの席の前に、四角いホログラム映像が浮かび上がった。
画面に映る人間にはどこか覚えがあった。その青い目を見ているうち、答えに行き着いた。長期休暇を取っているはずの、アイの製造者であるデイジー博士だった。
白いものが混じる髪は乱れ、息は整っておらず、先程まで泣いていたのか目の縁は赤く腫れていた。
一目でただならぬ状態だとわかったが、セプテット・スターたるものとして、ネプチューンは毅然とした態度で応じた。
「どうされたんですの?」
刹那、デイジーは懇願するように叫んだ。
「ネプチューン様、お願い致しますっ!! アイを取り戻して下さい! アイを、私に、返して下さいっ……!」
糸が切れたようにして、話している途中からデイジーの両目から涙が溢れ出た。
言葉を一気に捲し立ててくる気配を察知したネプチューンは、片手を少し上げてそれを制した。
「落ち着いて下さいまし。何があったか、一から説明して下さりますこと? ……大丈夫。セプテット・スターは、あなたの味方ですわ」
するとデイジーの瞳に、それまで欠かれていた冷静さが、取り戻されていくのがわかった。
はい、とデイジーは頷き、申し訳ありませんでしたと深く頭を下げると、丁寧かつ的確かつ簡潔に、状況の説明を始めた。
優秀なバルジ研究者と聞いていたこともあって、説明は非常にわかりやすく、すぐに把握することができた。
「なるほど。理解しましたわ」
話を聞く傍ら、ネプチューンは控えていた人形型ロボットに、ここから地球までワープにどれくらいの時間がかかるか調べるよう指示した。
まさかプルートが地球にいたままだったとは、予想外もいいところだった。
詳細はまるでわからないが、これはプルートを回収してから尋ねればよい話だった。
「情報の提供、感謝致しますわ」
「そんな、とんでもないことでございます。ダークマター社員として、バルジ研究員として、当然の義務です」
デイジーは頭を垂れた。その状態のまま、しばらく顔を上げなかった。
不審に感じた直後、デイジーが何やら呟いているのが聞こえてきた。
「……あの人達は、あの人達は、悪魔です!!」
瞬間、堰が切られたように、デイジーは声を荒らげた。
「一度ならず二度までも、私からアイはいなくなった! ……その二度目は、奪われたのです!」
ふるふると体が震えている。声も震えている。表情を窺うと、目から再び涙が零れていた。
それらは全て、強い怒りと憎しみから来ていると理解できた。
「mindを盗んだロボットに味方しているだけあります! mindがこの宇宙でどれほど重要でどれほど大切なものか何もわかっていないのですよ、絶対に!
あげく、mindだけじゃない。あいつらは私の大切なアイまで奪った! アイを変えてしまった! あいつらは悪魔だ、人の心を持っていない!!」
ですから、と縋り付くような目を、真っ直ぐ向けてくる。
「どうかアイを、取り返して下さいっ……!!」
「……ええ。大丈夫ですわよ」
ネプチューンは堂々とした雰囲気を身に纏わせ、ゆっくりと頷いた。
「ネプチューンに──このわたくしに、全て任せておきなさい」
デイジーからの何度も告げられる礼を耳にしながら、ネプチューンは通話を終えた。そしてすぐ、早速ワープの準備に入るよう指示を入れた。
通話の合間に先程の人形から、この位置から地球までワープすると、30分弱でつくとの報せを受けていた。
ネプチューンは、ふーと息を吐き出しながら、椅子に深く背を預けた。
デイジーの話では、走り去ったプルートはそのまま
だがデイジーがプルートを見失った場所と乗り物の特徴から判断すれば、場所はかなり絞り込める。位置情報を把握出来ずとも、金属探知機をかければ見つかるだろう。
それにしても、プルートはどうして地球に居たのか。帰還の報告も嘘だったというのか。
なぜと考えれば、考えつくことは一つしかない。「そうされていたのでは」。その仮説に辿り着く。
例えば、偽の情報を流すように無理矢理脅されていたとか。
逆らうはずのないプルートが博士に対し逆らい拒絶を示したところを見るに、何か改造を施されているのではないか。
何か危険な目に遭わせられていないだろうかと思うと、この場にいない加害者に対し怒りで頭が沸騰しそうになってくる。
拳に入れる力を強めたところで、先程のデイジーの顔が浮かんだ。
怒りと憎しみと悲しみと絶望に染まった顔。
娘も同然のプルートを奪われ、おかしくさせられたデイジーのそれらの感情は、ネプチューンを遙かに凌ぐものだろう。
「やはり早く……」
AMC計画は遂行されるべきだ。博士のように、民衆が誰かによって傷つけられ、苦しめられることのない宇宙を実現させるために。
そして、自分の思い描く、理想の世界のために。
飛び乗ったバスはしばらく走るうち市街地を離れ、人通りのない町外れに出た。適当に下りた停留所の先で見えたものが、大きな川と川原だった。
土手を下りていくと、土茂みに紛れて、随分と多くのゴミが散乱しているのを発見した。
空き缶やビニール、プラスチックゴミ、果てには週刊誌のような本まで捨てられている。
土手から川辺まで、ここはゴミ捨て場なのだろうかという可能性が出たほどには、ゴミを発見した。
すると辿り着いた先の川辺の近くに、それらとは雰囲気の異なるものが落ちているのが見えた。
拾い上げたそれは水鉄砲だった。汚れていたが、川で洗うと汚れは落ち、いくらか見栄えはよくなった。
「水鉄砲……」
ふと数日前の出来事を、回路が導き出した。
宇宙船の廊下を伝って歩行の練習をしている最中、外からミヅキの大声が聞こえてきた。
棒読みの悲鳴に何事かと窓から外を窺うと、なぜか黒い布でぐるぐる巻きにされ頭を隠したハルが、明らかに水鉄砲とわかるおもちゃをミヅキに向けていた。
ハルに手首を掴まれ何やら喚いているミヅキの傍で、クラーレが呆れ一辺倒の目を、二人に向けていた。
ミヅキは悪者に捕まったと言っていたが、なんのことかさっぱりわからなかった。なのでスルーすると、ミヅキの嘆きが聞こえてきた。ますますわけがわからなかった。
すぐ目の前に水が存在していたので、容器の中に川の水を入れた。
軽く引き金部分を押すと、銃口から弱い勢いの水飛沫が飛び出て、川辺の草や砂利に向かっていった。飛沫がかかった場所が、陽光を反射して輝いた。
武器にも何にもならなそうな水鉄砲で襲ってくる悪者などいるのだろうか。あの時のミヅキの行動の真意を、機会があれば聞くつもりでいたことを思い出した。
だが。
水鉄砲が手から滑り落ち、がちゃんと音を立てた。
水面を見ると、そこには自分の姿が反射されていた。その映り込む自分が、左右に首を振った。
この姿は“自分”ではない。この声も“自分”ではない。ぽっかりと開いた穴のような、無機質極まりない瞳も、“自分”のものではない。
博士の見せてきた写真に写っていたアイと全く同じ姿をした自分が目の前にいる。
唯一違うのは、このアイには表情が無いということだけ。写真のアイは、どんな時でも、花のような可憐で眩しい笑顔を浮かべていた。
アイは水面に、顔を近づけた。
「──あなたは、誰?」
自分のものであって自分のものではない声が、ばらばらと空しく散っていく。
「あなたは誰」など。そんなこと、知っていた。
自分はアイだ。
かつていた人間のアイの代わりとして作られたアイ。
人間のアイのレプリカ。
それが自分の存在意義であり、自分の個性だった。
だとしたら、自分は今まで、何をしてきたというのか。何を考え、何を探し、何を求めてきたのか。
「……なんと、愚かな……」
こんな意味のないことを、ずっと長い間考え続けていただなんて。まさか自分のスペックが、ここまで低かったとは予想していなかった。
ふと自分の中から、「わからない」が消失していることに気づいた。
思考が動かない。何も考えられなくなっている。だがそれがなんだというのか。自分が何かを考える事に、意味はあるのか。
水面の“アイ”を、ただ見つめ続けていた時だった。“アイ”の体が、大きな影の下に隠れたせいで、薄暗くなった。
その、突然発生した雲にしてはあまりにも不自然な影の正体は、見上げた瞬間にわかった。
青空を背景に、明らかに地球のものではない乗り物が、ゆっくりとした速度で下降してくる。
白い外装に薄い青色の格子窓がつけられた外観の宇宙船。
本来なら立ち上がって一礼し、敬意を表すべき相手であるのに、川に映る“アイ”は、全く動かなかった。
“アイ”は、ぼんやりとした目で、その宇宙船を見上げるばかりだった。
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