phase4「大切の意味」

 実験中のデイジー博士に頼まれ、休憩用のお茶を淹れるために湯を沸かした。

その際、取っ手が濡れていたなど、外的要因が重なった結果、手を滑らせて熱湯を手に被った。


 アイにとってはただそれだけの事態だった。が、博士はそう思わなかったらしい。

 血相を変えてキッチンに飛び込んで来て、大丈夫かどうか矢継ぎ早に聞いてきた。怖くなかったか、痛くなかったか、熱くなかったか、と。


 温度は感知できるので熱いはわかるが、怖いや痛いはない。

なので、「心配は不要です、気遣わずご自身の作業にお戻り下さい」と伝えると、逆に博士は怒ってきた。意味がわからなかった。


 博士はそれまでの作業を中断して、アイを修理した。アイは修理と認識したが、博士は治療と言っていた。

 修理にも治療にも満たないような応急処置だったが、博士は丁寧に施した。


 終わった後、アイはずっと抱えていた疑問を投げた。


「なぜあんなに慌てたのですか」


 すると博士は何度か瞬きをした後、にっこりと微笑んだ。そして、とても重要な言葉を告げるときのように、ゆっくりと言ったのだ。


「それは、私はアイのことが、大切だからよ」


 大切。その単語の意味はデータにあった。そうですか、とアイは頷いた。


「確かに、自分を補佐する存在がいなくなるのは、好ましくない事態ですからね。

それに、時間をかけて作ったものが壊れてしまっては、それまでの時間が無意味になってしまい、勿体ないですし」


 そう言った時に変化した博士の表情の意味がよくわからなかったが、人間の感情が大体わかるようになってきた今なら理解できる。


 あんなに悲しい目を浮かべた博士の姿を見たのは、後にも先にもあれ一度きりだった。


 その時博士はアイに対して何も言わず、テーブルの上に飾られている花に視線を移動させた。


 花の隣に置かれている、博士と博士の夫の、若い頃を写した写真を、博士はずっと眺めていた。






 一日が経つと、肘から下が動けるようになっていた。動かしたい部分に意識を集中させると、ゆっくりとだが、手は動きたい方向へと動いてくれた。


 それでもよほど慎重に動かさないと思い通りにはならない。そうまでして無駄な時間を使い動かさない方がいい手を動かしたのは、顔のすぐ隣に置かれた桜のかんざしを手に取るためだった。


 人間だったら、石や鉛に例えられるであろう重い腕を上げた後、上へと倒す。

 こつんと手に当たった硬く小さな感触を確認し、それを指で摘まんで自分の視界に映るように移動させる。


 小さな桜色の花飾りがとりつけられたかんざし。伝わる木の硬い感触に、このかんざしを受け取った時のデータが想起される。


 ミライから手を出してと言われ、その通り従うと、ミヅキが手のひらの上にかんざしを乗せてきた。


 木の触感をただ覚えることしかできず、手を出した状態のまま体を停止させていると、二人はあげると伝えてきたのだ。


「青色の花のもあったから、そっちともだいぶ迷ったんだけどね」

「アイちゃん、ピンク色も似合いそうだと思ったんだ!」


 京都での一件だった。アイにはミヅキとミライを戦闘中であるソラ達のもとへ行かせないために、引き離して時間を稼ぐ役割を与えられていた。だからその時は、話を合わせておくことしか頭になかった。


 あの頃はまだ、何かを考えることはなく、わからないことも存在していなかった。


 ただ、と考える。ただあの時、どうしてミヅキとミライはかんざしを自分にあげようと考えたのか、「わからない」が生じた。

 優先して考えるべき事項ではないと処理したため、その時はそれ以上深く考えることはなかった。


 この時の疑問は、今もまだわからない。


 博士がよく自分に与えてくれたピンク色の衣服類。ミヅキとミライも、同じように、ピンク色が似合うと言ったのだ。


 博士がアイに接するときと、ミヅキ達がアイに接するときの態度はよく似ている。人間と接する時の態度と、全く同じに接してくる。


 なぜなのだろうか。自分は人間では無いのに。「作り物」の人間なのに。


 そう考えると、勝手にかんざしを強く握りしめていた。これも感情から来る動作なのかと考えた所で、「思う」という表現の方が正しいかと考え直す。


 昨日、感情を作り上げるプログラムがあると聞かされた時、正常に作動してあると言っていたのに、とてもそうは考えられないほど、自分は衝撃を受けなかった。


 ああそうか、としか思わなかった。自分は作り物だった。外だけでなく、中も作られた存在であったのだと。


 感情があること、その感情が作り物であった衝撃よりも、博士に対する疑問の方が大きかった。


 制作が禁止されているプログラムを埋め込んでまで、博士は自分に何を望んだのだろうか。

 中途半端なにしかならないのに、人間に近づけようとして、何がしたかったのだろうか。


 ハルの手によって直されたかんざしにつく、作り物の桜の花を眺めていたときだった。


 作り物の桜の花の向こうに、白いシルエットが突如として現れた。


「え」

「ピュッ!」


 ぱたぱたと小さな翼を羽ばたかせ、宙を浮遊するシロが、口に何かを咥えていた。丁寧に顔の隣に置かれたものに、アイは何度か瞬きを行った。


「……花?」

「ピュイピュイピュヤ、ピッ、ピイ!」


 それはいくつかの種類の、山に生える野草とわかる花だった。


 花をここに起きたかったのか、目的を達成できて満足したらしく、シロは尻尾を振った。振り方からして、今の気分が上々であると判断できる。


 そのまま退室するのかと考えたが、シロはなかなか出て行こうとしなかった。むしろ逆に置いた花の隣に着地し、そのまま座り込んだ。


「私に、何かご用ですか」

「ピ? ピー、ピー!」


 尋ねると、シロは鼻先で野草を押し、アイの元へ近づけた。その行動から、一つの可能性に至る。


「……お見舞いの品、というものですか?」


 ちょうどそのタイミングで、シロの頭が深く上下した。


 ゆっくりと手を伸ばして、持ってきた植物に触れてみた。茎、葉、花弁、それらの感触を覚える。


 なぜ。


「どうして、これを、私に」


 緑の目を輝かせ首を傾げる姿は、「意味は特にない」と言ってるようなものだった。


 特に用がないのに話しかけてきたりなんだったり、人間は、というより心ある生き物はつくづく非効率的な行動ばかり取る。

 それが心の特徴だと学習しても、どうしても共感することが出来なかった。


 そうだったのに今の自分は、その非効率的な行動ばかり取っている。答えの出ない問いについて延々と考え続けるという行動だ。


 シロはずっと緑色の目をアイに注いでいた。


 自分のことを敵かそうでないのか分析しているのかと考えたが、どう解釈してもシロの目からはそういう策略の類いが窺えない。

 きらきらと輝く、「生き物」の目をしている。


 じっと座って尻尾を振り続けるシロが、緑色の目をこちらに向けてくる。何かを言いたいのは察することが出来るが、何を言いたいのかさっぱりわからない。


 けれど、この瞳の奥の光の根源は多分、心なんだろう。


 この生き物の目は何を伝えようとしているのか。こういうとき、心のある生き物はどう動くんだろうか。お礼を伝えるのが適切なのだろうか。


 綺麗に手入れされている毛並みに、ゆっくりと手を伸ばした時だった。


 シロが突然視界から消えた。


「……シロに何するつもりだ」

「別に何も」


 今日もマスクを被って素顔を隠しているが、敵意までは隠せていない。


 シロを深く抱きしめたクラーレが、後退してアイから距離を取った。シロを守っているような仕草だった。


「私は身動きを取りたくても取れないのですし、過度な警戒は非効率的だと考えられますがね」

「……冗談だよな?」


 声から検知できる敵意が一層強くなった。殺意を抱く手前の状態かもしれない。


 自分を壊したければ壊せば良い、と考えた。そうする権利が、彼らにはある。

 けれどもクラーレがしてきたことは、ただアイに向かって指を指しただけだった。


「あんたは、血も涙もないようなセプテット・スター達の補佐をしてたんだ」

「人間なので体内で血液は流れていますし、涙も作られるはずですが」

「屁理屈をこねるな。とにかく、そんな奴らの行おうとしている計画……ミヅキ達の心を消し去る計画が上手く行くよう、ずっと動いていたんだろ」

「それが私の役割ですので。自分の与えられた役割を全うすることが悪いことなのでしょうか」

「……ミヅキ達の心なんか、どうだっていいっていうのか?」


 その通りだった。人間などどうでも良かった。心など興味が無かった。

 この宇宙から心が消えても、もともと心の持っていない自分には何も関係ない以上、どうでも良かった。


 けれども。


「心なんて、わけがわからないものですので」


 心の本質は、自分には到底理解の及ばないもので構成されていた。


 人間がよく行う機械には理解できない行動の数々、それらは全て心の作用。

複雑怪奇な心を持った人間達と直に接し続けたことにより、わからないを無視できなくなっていった。


「そうか。じゃあ尚更だな」


 クラーレは壁により掛かると、何度か頷いた。


「ミヅキ達をまた騙そうとしているか、更に疑いが強くなったよ」

「演技ですか。ロボットにそんな高尚な真似が出来ますかね」

「出来るだろ、自分の性能を下げるな」


 出来ない。実際潜入計画でも、一言に潜入と言っても、自分は演技をしていない。中身を人間に近づけ、人間として振る舞おうと考えたことはない。


 なのに姿形が人間と同じである理由だけで、ミヅキ達は自分のことを全く疑わず、人間として接してきた。


 そしてなぜか正体が判明している今も、それは変わる素振りがない。


「私がここにこうしていること、それが演技であり罠であると考えてるのですか?」

「その通りだ。そう考えるのが普通だ。ミヅキ達が信じるのなら、俺は疑う」


 クラーレは言っていた。ミヅキ達のことが大切だとはっきり言っていた。大切なら、疑ってかかるべきだ。それが一般的な行動だ。


 先程クラーレが口にしたのはものの例えだが、アイは正真正銘、血も涙もない存在だ。


 血液は体のどこにも一切流れておらず、瞳から洗浄用の冷却水を出すことは出来るが、それは涙ではない。


 ここでアイが必要だと判断したら、血も涙もない冷酷無慈悲な行動をいくらでも取ることができる。


 そういう危険性を秘めているのに、ミヅキ達は何も警戒していない。こちらが心配や疑いを抱くほどには何も警戒してこない。


 クラーレが顔を上げる。マスク越しなのでよく見えないはずなのに、鋭い視線が伝わってくる。


「あんたの言ってる台詞、全部嘘だと捉えられても何もおかしくないからな」

「こらーーーーー!!!!!」


 ばーんとドアが開け放ち足音を立てて入室してきたのはミヅキだった。


 声の勢いで誰が入ってきたのかすぐ分析出来たが、クラーレは突然の訪問者に呆然とし度肝を抜かされていることが、表情が見えなくてもわかった。


「二人とも喧嘩しないでよ!!!」

「け、喧嘩……?」


 クラーレに詰め寄ったミヅキは明らかに怒り心頭状態だった。体を固まらせるクラーレがかろうじてそれだけ返すと、その通り、とミヅキは深く頷いた。

 一緒になってミライが、軽くクラーレの肩を叩いた。


「クラーレさん~。肩の力抜きましょうよ~」

「いや何言ってんだ!」

「え~……」


 警戒心とは真逆の間延びした声を上げたミライの隣から、控えめに人影が現れた。


「心配してくれてありがとう。でも僕達は、だよ」


 ソラが穏やかでありつつも真っ直ぐな視線を、正面からクラーレへと向ける。


 何も大丈夫ではない、とアイは言いたくなった。だがクラーレはしばらくの間黙っていると、浅く頷き、静かに部屋から出て行った。


 特段、ソラの目に有無を言わせぬ圧力など生じていなかった故に、意外な顛末だった。


「……それで、今日はなんの用です」

「これだよ」


 ソラが紙袋を二つ台の上に置いた。置いた時の音からして、重いものが多く入っていると推測できた。


「本を持ってきたんだ。ずっと寝たままだと退屈かなと思って」

「ミヅキさんとミライさんは?」

「え、特に用はない!」

「私もだよ~」

「……」


 この三人の理屈がわからない行動。紙袋と、隣に置かれている花を交互に見て、ある考えに至る。


「……もしかして、お見舞いなのですか」

「そうだよ、当然でしょう」


 ミヅキがあっさりと言い放った。なぜ、とわからないが生まれる。


「よほど暇を持て余していても、のお見舞いに来るなんて、考えにくい行動ですよ」


 お見舞いなど、病気や怪我などで治療中の人間に対し行うことだろう。修理中のロボットに対して行うことではない。


 元通りに直るとわかっているロボットに対して、どうしてわざわざ貴重な時間を使用してお見舞いに来るのだろう。

 しかも、元通りに直ればまた何をしでかすかわからない敵に対して。


「私が人間だったら、同じ敵であったとしても、助けるという行動にはまだ納得がいきます。同種族を助けたいと感じるのは本能でしょうからね」


 ミヅキ達はアイの台詞が解せないとばかりに眉根を寄せた。そんなミヅキ達のことが、アイは尚更よくわからない。


「私が機械であることは知っているでしょう。ですがあなた方は、人間と接するように私と接しますよね。それはなぜです。なぜロボットを気遣えるのか、よくわかりません」


 人間とロボットは本質的な部分が全然違う。根幹から異なる、全く別物の存在同士だ。向こうが心を持って気遣ってきても、こちらが心を持って返すことはできない。


「……私の博士もそうでした。人間に対するそれと全く同じ態度を取り続けてました。よく私を気遣ってました」


 博士はどんな時でもアイを機械とは見ていなかったし、ましてや一度も道具として扱ったことはなかった。

一つの命があり、一つの心ある人間に接するのと同じように、接してきていた。


 例えばアイスを食べた後は、お腹を冷やさないようにと温かいお茶を出した。ロボットがお腹を冷やすことはないのに、だ。


 風邪を引くことはないのに、寒い時期は風邪に注意してしっかり予防するよう提言した。


 暑い時期は、バテないようにと言って、人間基準の栄養だが、滋養にきく食事を普段よりも作っていた。


 博士はいつも、そんな風にして、人間に対する態度と同じように気遣っていた。


 アイが外傷を負うと、大袈裟なまでに心配した。下手をすれば故障したときよりもショックを受けている様子だった。涙目になりながら、何度も大丈夫か聞く姿に、疑問以外覚えなかった。


「よく、博士は私のことを、大切だと言っておりました。私のことが大切だから、気遣えるのだと。人間と同じように接するのだと。

……ですが、人間相手ならまだわかりますが、どうしてロボットを大切だと思えるのか。大切が、わかりません」


 話を聞き終わった途端、ミヅキがうろたえ始めた。「そんなのそうしたいからだけど」「でも具体的にだよね」「なんて言えば良いんだろう」などと呟きながら、目と両手が一緒になって宙をさ迷っている。


 ミライもミライで、目を閉じ腕を組んでいるが、何も考えていないのは明らかだった。


「ですが全然わからないというわけではないですよ。自分で言うのもなんですが、私は制作期間が長く、完成までに時間がかかったそうです。

そんな風に時間を掛けて作ったものを、ないがしろにしたり適当に扱うのには抵抗が生じるでしょう。

物持ちをよくするために粗末に扱ったり使いすぎたりしないようにするのは、理解できる行動です」

「そ、そういうことじゃないと思うけどなあ……」


 ソラが困ったような笑顔のまま、頷いた。


「違うのですか? では、一体なぜ?」

「……難しいことを聞いてくるね、アイは」

「難しいことですか」


 道具として大切ではないのなら、何として大切だと思えるのだろうか。道具として大切以外に、どういう心が生まれるのだろうか。


 見返りが生じないのに、ミヅキ達はどうして気遣えるのだろう。博士も、どうして大切だと言っていたのだろう。


「博士がアイを大切に思う理由に納得しないと、僕達がアイを助けたり、気遣う理由もわからないんじゃないかな」

「どうして大切な理由と助けた理由が繋がるのです?」


 え、とソラはふいをつかれたように目を丸くした。だがそれは一瞬のことで、すぐまた笑いかけた。「難しいね」と一人言のような台詞を口にしながら。


 そんなに難しいことなのだろうか。ミライは何かを言いたそうに視線を這わせ、ミヅキは珍しく、固い表情で俯いていた。


「……そうだ、アイちゃん。これも持ってきたんだよ」


 ミライが鞄の中から、一冊の本を取り出して見せた。まず最初に見えたものが、星空の写真だった。


「もともとお父さんのものだから、貸すって形になっちゃうけど。良ければどうぞ~!」


 差し出されるがまま両手で受け取り、今一度本の表紙をよく見てみる。鮮明に撮影された星空に、一つの光景が蘇った。


 ここにいる人間達と、天文台の広場で見た、あの星空だった。


 表紙には写真の他に、世界各地で見える、あらゆる星空の写真が載っている謳い文句が記されていた。


 色々な場所で色々なものを見た。その中には絶景と評される場所もあった。そういう光景を見ても、何も感じなかった。なのに星空だけは違った。


 旅の間、夜も移動を続けており、その時は空を見上げながら歩いていた。


 どの国の、どの星空を見ても、星の輝きが視界に届く度、記憶から起こされるのが、ミヅキ達と見た星空だった。


 ただ蘇るだけだ。蘇って、あの星空をもう一度見たいと、考える。それだけだった。







 「大切がわからない、かあ……」


 改めて口にしてみると、なんという難問かと思う。姿形は見えているのに、その外見を言葉で説明することが、ここまで難しいものはないかもしれない。


 うーんと美月は腕を組んで唸った。穹もテーブルの上に頬杖をつき考えに耽る中、向かいに座っている未來だけが、洋梨のタルトを食べていた。


 ミーティアの片隅で繰り広げられている光景は、店内に来ている数名の客から見たら、恐らく異様に映っていることだろう。


 宇宙船から出た後、そのまま帰るかと思った未來がなぜだか美月と穹についてきた。

 お腹が空いてしまったからミーティアでおやつを食べていく、と言い、二人よりも先に入店した姿は、まさに自由そのものだった。


 美月と穹は自宅に戻らず、未來と席を共にした。この三人で考えたいことがあったからだ。


 今日アイは言っていた。大切がわからないと。どうして自分が大切と思われるのかわからないと。


 これに対し、美月はアイが求めるような、アイの納得がいく答えを返すことが出来なかった。


 敵なのに助けた理由もわからないと言っていたし、機械なのに人間と同じように接してくることもわからないと言っていた。


 アイの抱く疑問は全て理屈で説明できないものばかりだった。そんな問いかけに、どうやれば納得のいく説明を用意できるのか。


「私は穹が大切だけど」

「えっ、き、急にどうしたの」

「いや照れないでよ、真面目な話だよ。でもそこに理由なんてないよ」


 未來も、ハルも、クラーレも、ココロも、シロも、美月にとって何にも代えがたい大切なものだ。父も母も祖父も美味しいご飯も、他にも大切に思うものがたくさんある。


 だが、どうして大切に思うのだろう。


 その理由を深く考えてみても、答えは濃い霧の奥に隠されているように、手で掴むことができない。


「明確な理由があるほうが珍しいんじゃないかなあ」


 未來が一人言のように言い、切り分けたタルトを口に運んだ。「美味しい~!」と微笑む未來に、うん、と頷く。


 大切に思うことに理由など生じない。それが美月にとっての常識だった。

 けれどその常識は、アイに対して通用しないのだ。アイは大切に思われる、はっきりとした理由を欲している。


「だからこそ、難しいね……」


 穹が肩を落とした。美月は何度もその言葉に頷いた。


 はっきりとした理由を求めているのなら、応えてあげたい。だからこうして話し合っているのだが、一向に良い答えは浮かばない。


 でも、と両手を握りしめる。


「難しくても、諦めたくない!」


 大声が出そうになったが、店内なのでなんとか声を控えめにした。

 食べている最中だったためか未來は何も言わずにただ頷き、穹は「僕もだよ」と笑った。


「ちなみに姉ちゃん、諦めたくないはっきりとした理由は?」

「無い!」

「あはは、だよね。でも強いて言うなら友達だから、かな?」


 美月は少し間を置いた後、「その通り」と深く頭を上下に振り、姿勢を正した。同じように穹も背筋を伸ばし、指を立てる。


「まず、機械なのに人間と同じように接する理由を考えたほうが良いと思う。アイが、人間じゃない自分を大切に思う理由がわからないって言う以上は」

「じゃあ穹君の言ってたように、アイちゃんの博士さんが、どうしてアイちゃんを大切に思ってたかを探さないといけないわけかな?」

「だと思います」


 理由か、と美月はぼやいた。話を聞く限りだが、アイを作った博士がアイをどうして大切に思っていたか、話を聞いただけの美月でもなんとなく伝わってくる。


 その「なんとなく伝わること」を、アイは理解できない。どうしたものか、とテーブルを指で叩き始めた時だった。


 じっと未來の目が、ある一点を見つめていることに気づいた。視線を辿ると、レジ横の雑誌や本などが置かれている棚を見ているとわかった。


 すると未來はおもむろに立ち上がって本棚まで向かうと、一冊の雑誌を手にして戻ってきた。


「これ、読んだんだよね。お母さんも制作に手がけてるから、興味があってね」


 未來の母は編集者だと言っていた。相槌を打つ前に、未來は「中身も知ってるんだよね、読んだから」と言い、ページを捲り始めた。

 それは、どこか引っかかる物言いだった。


「美月、穹君」


 ページを捲る手がある部分で止まった。未來は雑誌をこちらに向けてきた。


「これは、どう、かな」


 普段ののんびりした声とはまた違う、歯切れの悪い調子で、未來が言った。


 雑誌を覗き込むと、目立つ位置で大きく書かれた一文に一番最初に目が行き、視線を外すことが出来なくなった。


「……人形展?」

「そう。もうすぐ開催されるみたいなんだ。芸術の秋って感じだね~」


 ざっと見た限りだが、記事には創作人形の展示会が開催されることと、制作者達の思いがいかほど作られた人形に籠められているかなどが書かれていた。


「未來……どうしてこれを……」


 ここ、と未來が記事の人形展と大きく書かれたタイトルの横を指す。


 そこには目立つフォントで、「制作者が人形に籠めた心が一堂に集う」というキャッチコピーがくっついていた。


「大切がわからないって聞いた時、この言葉が浮かんだんだ。ここに行けば、機械を人間と同じように接する理由が、なんとなくでも、少しだけでも、納得してくれるんじゃないかな」


 言った後で、未來は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「それに本音言っちゃうなら、行ってみたいじゃない。アイちゃんとお出かけ」


 それはもちろん、という意味を込めて頷く。頷いてから、今一度記事を見る。人形の二文字が、目に届く。その文字に、わずかに抵抗を抱く。


 美月はアイを人形とは見ていない。ロボットとも見ていない。機械という概念も、接している時は頭から抜け落ちている。実はこれはハルに対しても同じことが言える。


 けれど、それだとアイは納得しない。アイの疑問は一切解決しない。


 美月よりも前に、穹が動いた。


「良い考えだと思います。是非、行ってみましょう」


 顔をこちらに向け、姉ちゃんは、と視線で問うてくる。

 思うところがないわけではない。が、美月は、すぐに頷いて返した。

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