phase3.1
夜の帳が下りた空きビルの一室でアイが取ったのは、報告しないという選択肢だった。
ダークマターに連絡したのは、科学館に向かってからのやりとりだけだ。そこは嘘偽り無く全て報告した。予想しなかった形で、次に会う約束を取り付けられたことも。
ただ、ハルに会ったことは、言わなかった。外で見かけた事も込みで言わなかった。かけられた言葉も、一緒に行った行動も、伝えなかった。
成果に繋がるものが何も得られなかったのに、報告するのはいたずらに混乱を極めさせるだけ。
そう下された自分の判断に、誤りの可能性が高いことは承知の上だった。だからこそだ。
今日は自分の調子がおかしい。不具合が多発している。そんな状態で最重要とも言える件の報告をしても、何か間違いが起きている可能性が高いのだ。
報告の後、自身の製造の中心に携わったデイジー博士に連絡を入れた。世間話から始めようとするデイジーを制して、本題に入ろうとしたときだった。
『……ねえ、アイ。最近、調子はどう?』
デイジーはアイの目よりも更に濃い青色の目を、こちらに向けてきた。窺うような視線だった。
「……調子、とは」
『何か、こう。例えば』
そこで一旦言葉は切られ、軽く咳払いをしてきた。言うか言わないか、逡巡していることが伝わってきた。
『……わくわくするとか、どきどきしたとか。そういうのを感じるようなことはあった?』
やや声が落とされていた。小さく語られた台詞に、アイは両目を見開いていた。
「何か。何か知っているのですか」
『えっ?』
怪訝そうに首を傾げるデイジーが言ったのは、間違いなく今日起きた自分の不具合と繋がるものだった。
アイは今日の出来事を説明した。ハルの話は抜いて、考えた事と違う行動ばかり取ってしまったこと。そして、悲鳴が口から出てきたことなど。
説明の最中、話を聞いているデイジーの顔に、見る間に赤みが差していくのがわかった。
普段どこかやつれて元気のない彼女だったが、「以上です」と話を締めくくった時には、その面影はどこにもなかった。むしろ、両方の瞳を輝かせるまでに至っていた。
『そう。そうなの。本当なのね、アイ!』
「……はい。本当です」
その言葉を聞くと、デイジーは心臓の辺りを両手で覆い、目を伏せた。
口は小さく絶え間なく動き続けており、隙間から「まさか本当に」「ついに」などの単語が聞き取れた。保持している興奮の度合いが、どんどんと高まっていた。
「博士。私は、どこかおかしいのでしょうか。全体メンテナンスを行うべきなのでは無いでしょうか」
申し出たときだった。それまでそわそわと所在なさげだった様子から一変、きっぱりと博士は首を横に振った。
『いいえ。その必要はありません』
「ですがこれでは業務に支障が」
『メンテナンスは必要ありません。なぜなら、それは故障ではないから。はっきり言えます。作った私が言い切っているのですから、心配は不必要です』
珍しいことに、自分に対して敬語で声を掛けていた。業務的な台詞に、「はい」と言わざるを得なくなる。
「……わかりました。故障では、ないのですね」
『ええ。大丈夫よ。今は不安かもしれないけれど、すぐに慣れてくるわ』
毅然とした態度を見せていた顔がふっと緩む。優しげな笑みを浮かべる博士に、アイは頭を下げた。
『アイ、疲れているみたいね』
頭を下げたままのアイを覗き込むように、デイジーは顔を移動させてきた。そこには、アイに対する心配の感情しかなかった。
『必要な事項は、私の方からセプテットスターさんに報告しておくからね。今日はゆっくり休んで』
「……はい。ありがとうございます」
お辞儀の後で通信が切られ、ホログラム映像の明かりが消えて更に暗くなった室内の中、アイは頭を上げた。
そのまま振り返り、部屋を出る。隅に埃の溜まる階段を上り、向かった先は屋上だった。
錆び付いたフェンスに両手を掛け、下を覗き込む。建物や車の明かりが下の方に貯まっていた。空は暗いのに、下は明るい。溢れる電光を見下ろしながら、フェンスを握る手に力を入れた。
初めて、失敗を隠した。虚偽の報告をし、過ちを隠蔽した。むろん、こんなことは初めての経験だった。
そもそも失敗をしたことがなかった。その為のプログラムがなされているから事務作業などは迅速に片付けることが出来ていたし、どんな指示もこなせてきていた。
なのに、今日は失敗をした。
潜入の目的のためにプルートというロボットが作られる前提はないのだから、複雑すぎる目標を達成できなかった故の失敗と考えられることもできる。
だが性能的に見て、不可能ではないはずだった。アイの判断ではなく、周囲の判断に基づくものだから、より客観性がある。こんな失敗を犯すはずがないと。
アイは目線を頭上に向けた。暗い空に浮かぶ星は、一等星の明かりがちらほらと見えるだけだった。昼間に見たプラネタリウムの星空と比べると、その差は歴然だった。
そもそも全てが間違いだったのだろうか。自分がここに来たこと、そこからして間違いだったのか。その可能性も出てきた。
初夏の時点から、潜入計画の話は上がっていた。形が固まり、いざ乗り出そうとしたとき、誰を潜入させるかという問題が浮かびあがった。
人間の起用はリスクがあった。相手に絆されるというリスクだ。最大にして最悪のケース。
だから感情も心も無く、よって絆されるリスクがないロボットを起用することで話が纏まった。
だが今度は別の問題が出てきた。潜入調査という役目を背負えるほどの高性能のロボットを、今から開発できるのか、という問題だ。
人間に絶対にばれない中身、見た目。そして潜入の任務を完璧に請け負える性能。それらをものにしたロボットを作るには、今から作るとしたら、最低でも数年の月日を要する。
いつハルがパルサーを手にして地球を旅立ち、宇宙のどこかに隠れるかもわからないというのに。そしてその日が明日である可能性は充分にある。悠長なことは言ってられなかった。
アイが申し出たのはそんな時だった。夏頃のこと。海にて戦ったネプチューンを迎えに行った後のことだ。
「私が行きます」
自分から申し出た。今回の潜入計画に、自分を送り込んでほしいと。
もともとセプテット・スターという最高幹部社員集団を補佐するために作られたのだ。性能としての文句はつけられない。
何よりも特筆すべき点は、見た目が非常に人間そっくりというところだ。どんなに近づいて見ても、機械の硬質さが感じられない。皮膚の細かい皺一つに至るまで、完璧に再現されている。
よって、あまりにも人間と瓜二つだから、中身のロボットらしい無機質さも相殺されることとなる。ここまで人間にそっくりでは、アンドロイドだと誰も気づかない。
実際、プルートのことを知らない星で行われた実験でも、そこに住まう人間達は誰もアイをアンドロイドだと気づけなかった。他の星でも同様の結果を得た。
とはいえ、すぐに許可が下りたわけではなかった。
だが、デイジー博士も一緒になって説得をしたのだ。
「表に出て知らない世界を知れば、この子の性能も更に向上するだろう」と。
他に適任者がおらず、また時間も無かったため、結局その後許可は下りた。そうして、この潜入計画が動き出した。
アイはその場に膝を抱えて座った。コンクリートは冷たかった。しばらく自分の両膝を見た後、また上を向き、ほとんど星の見えない星空を眺める。遠くのほうで、車のクラクションが聞こえた。
博士はああ言ったけれど、知らない世界を知る事に興味は無かった。自分にとって必要ないことだと考えていた。
自分が行くことを申し出たのは、性能のある自分が行ったほうが手っ取り早いだろうと考えたためだ。
セプテット・スターの、ダークマターの更なる力になれるだろうと。ひいては企業理念である、永遠の秩序と平安が保たれた宇宙に近づくだろうと。
プルートの望みはダークマターの望みで、ダークマターの望みはプルートの望み。言ってしまえば、最終的に全てそこに行き着く。
新しく得た知識がダークマターの望みに繋がるのならそれは必要なもの。望みに繋がらなければ不必要なもの。
そうやって頭脳は選別されるし、選別してきた。ダークマターの為にならない知識は知るだけ無駄な事。だから積極的に得ようという思考にならない。
だが。アイは、頭の側面を抑えた。
もともと、ミヅキ達のことを食わし食え知っておいたほうが良いのでは、という考えはあった。
居場所がわかっているのにハルを捕らえられないのは、そのハルを守っているミヅキ達に何か理由や原因となるものがあるのではと。
だから夏、海までネプチューンを迎えに行った時、初めて直接、ミヅキ達の姿を見た。宇宙船越しに姿を収めたとき、あの時確かに、それまでに考えた事の無い考えが、突として出現した。
もっと知らなくては。この人間達を、もっと知らなくてはと。
彼女達に関するデータを調べ尽くした、だが、どれだけ漁っても、この考えは解消されなかった。むしろどんどん増大していった。
考えを鎮める為、申し出たのだ。「私が行きます」と。
そうして自分はここにいる。いるわけだが。
服のポケットに手を入れた。偽物の皮膚に当たった硬いものを取り出し、手のひらの上に置いた。
ミヅキとミライから貰った桜のかんざしを、じっと見つめる。
かんざしは髪に挿すもの。だから挿して使わないと無駄になる。なのに、この桜のかんざしを、今まで一度も髪に挿したことはなかった。
かんざしに使われている桜はもちろん本物でなく、よってずっと花を咲かせた姿を見せ続けることが可能。
今日見たプラネタリウムの星もそうだ。現実では満天の星空などなかなか見えない。しかしあそこに行けば見ることができる。
本物そっくりに作られたものは、本物とどう違うのだろうか。
今日会った三人は、三人とも、笑った顔を見せていた。楽しそうだったし嬉しそうだった。
本物の人間の中で自分だけ、笑っていなかったし楽しいも嬉しいもなかった。
自分は本物そっくりに作られた存在。どんなに似ていても、本物の人間ではない。
そう考えると、手に取ったかんざしを、髪に持っていくことができなかった。でも、これをくれた時のミヅキ達の笑顔を考えると、手放すこともできなかった。
なぜなんだろう。
天を見上げる。明るい地上の光に遮られて、控えめに輝く星が一つだけ目に映る。
知り続けたら、新しい道が開ける。出現し得なかった選択肢が現れる──。
ハルの声が蘇る。ぶんぶんと首を振る。必要無い。自分自身の道も、自分自身の選択肢も、必要無い。
けれど、あの台詞がずっと聞こえてくる。ずっと聞こえている。
博士は故障ではないと言っていた。しかし本当にそうなのだろうか。このまま感情を知り続けて良いのだろうか。放っておいて良いのだろうか。何か自分の身に、良くないことが起きているのではないか。
自分を構成している歯車が、あらぬ方向に向かって回り出しているのではないだろうか。
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