phase6.2
建設途中の鉄骨造の一番上。そこを吹き抜けていく風は、地上とはまた違う肌触りに思えた。
脈がおかしい。激しく鼓動していたかと思えば静まり、また激しくなるを繰り返している。気を抜けば息が止まりそうになるので、大きく呼吸をして整え続けなくてはならない。
体はそんな状態になのに、心は妙に静かだった。雑念という雑念が一切なく、これ程までに神経が研ぎ澄まされているのは初めての経験だった。
鉄骨に座るマーキュリーを見下ろす穹の中には、一つの念しかなかった。そこに渦巻くのは、到底言語化できないような、複雑なものだった。それらの感情が行き着いた結論が、この目の前の人間を野放しにしてはおけないという思いだった。
「……それは僕のものじゃない。偽物だ。何がしたいんだ、一体」
あのノートとは長い付き合いだからわかる。けれどさすがに下から見上げていただけでは区別できなかった。それがわかっただけでも、登ってきて良かったと思う。
指を指すと、マーキュリーは種明かしでもするように、ぱっと両手を開いた。
「正解でーす! これは私の作った偽物ですよー! 何がしたかったかは……ご想像にお任せしまーす」
想像しなくてもわかることだった。自分は先程まで絶望を感じていた。崖の縁に追い詰められ、奈落の底まで落ちる寸前だった。
このノートがこの人間の手に渡ったこと、中身を覗かれ、隠していたものを全てばらされたこと。それら全て、絶望に直結していた。
ただ、今はもう絶望を感じていない。穹の心の中には、感情のある感覚が一切なかった。一つの事実を改めて認識し直していた。指の向ける先を、マーキュリーに移動させた。
「うん、よくわかった。君って、屑ですね」
マーキュリーは自分で自分の事を指さし、少しの間固まった。やがてへえ、と声を上げた。今まで知らなかったことに初めて気づいた子供のような、ある意味で無邪気さを覚える声音だった。
「あんまりそういうこと言われた経験ないので中々に新鮮ですね。私、結構人に好かれますから。至って普通にお喋りしているだけなのですがねえ」
ぶつん、と頭の中で何かが千切れた音が響き渡った。穹は一歩詰め寄った。
「君は、この宇宙からいないほうが良いんじゃないですか? 劇的にとはいかなくても、少なくとも今より多少は良くなるでしょうよ」
時間にして数秒にも満たなかったろうか。マーキュリーの口元に浮かんでいた笑みがすっと消えた。ぱきり、と氷の割れる音が聞こえた気がした。
「……あはは、そうですね、そうですねえ。全くその通りだ、いないほうがいいんだろう。でも、多少なら、別にそんなに変わらないでしょ。だから、意味が無い」
あっという間に、笑顔に戻った。あの無表情は幻覚だったのではと疑った。
「穹ーーー!! 下りてきてよ!! 一体どうしたのよ!」
「そうだよ、危ないよ! 落ちたらどうするの!」
美月と未來が大声を張り上げてきた。だがそちらに目をやることはできなかった。僅かな時間だったとしても、今マーキュリーから目を逸らしたらいけない気がしたのだ。
「呼んでますよ~? 下りなくていいんですか~?」
「下りません」
この人間に、好き勝手に自分を弄んだこの人間に、ここまで接近できたのだ。またとないチャンスだと、利き手を握る。
穹の作った拳に、じろりとした目が向けられた。
「もう、お願いだから帰ってくれないかな! 本当に! 帰って!!」
焦ったように美月が声を上げた。そこには懇願が含まれていた。それが耳に届くなり、にこりとマーキュリーは美月に笑いかけた。
「ですねー。このままここにいたら本当に殺されてしまいそうだ。洒落にならない。でも、こっちは仕事。引くわけにはいかないんですよ。馬鹿真面目の
「こんな趣味があってたまるかっ!」
「ですよねー」
のんびり言うと、マーキュリーは目を伏せた。こちらに全く警戒している様子を見せていない、無防備な態度。だが穹はこれ以上近寄ることができないでいた。不意打ちは通用しないという確信が、足を止めていた。それは微かな恐れを生み出していた。
「実を言うと。まさか怒り出すとは思ってなかった。でもやることは変わらない。……ねえ、穹さん」
おもむろに穹を見た。純粋な期待が宿っている目と、視線がかち合った。持っていた槍の柄を強くわしづかんだ。
「まだ、楽しませてくれますよね?」
言った直後だった。マーキュリーは手にしていたノートを、真上へと空高く放り投げた。間髪入れず、落ちてくる前に、槍をノートへ突き立てた。
はっと身構えた。その間に、槍が抜き取られた。支えを失ったノートは落下しなかった。ぱっと開かれると、ぱたぱたと、鳥のように飛んでいった。
「はーい! 今日ご紹介する戦闘ロボットはこちらー! サイズは小さいまま! なのに性能は文句なしの一品! 攻撃手段は至ってシンプル。風です!」
ノートは開いた格好のまま、上空で静止した。ジャンプの駆使では届かなさそうな距離。ノートの内側が、観音開きのようにぱかりと開かれた。そこから出てきたのは、換気扇を思わせるような噴出口だった。大きさは、ノート自身の体を遙かに凌ぐものだった。
「飛行型で、かつ小さいので、あまり痕跡を残さずに攻撃可能! 高ーいところから、一方的に相手を攻撃できます! 敵を寄せ付けません!」
ごおおという音が耳に届いた刹那だった。穹の体が大きくよろめいた。次いで、体全体に風を受ける感覚があった。巨人に強く押されているような感覚。気体の風が、固体となっている。飛ばされる、と勘が言った。
「ほら! こうやって、相手を強風で近づかせないのです! さて、どうやって倒せばいいものか!」
指先一つも動けなかった。風に、全ての体の自由を奪われていた。目を開ける事も出来ず、音も風音以外ろくに聞こえなかった。視覚も聴覚も防がれていた。風がここまで猛威をふるうものだとは、全然想像していなかった。
「今ならお買い得ですよ~! お値打ち価格にしておきます! お求めは、是非ダークマターまでどうぞ!」
「物凄くいらないんだけど!!」
地上から美月の怒鳴り声が聞こえてきた。その声が、途中で荒れ狂う風にかき消された。
「っ……!」
軽く座り、鉄骨に捕まっていないと今にも飛ばされそうだった。噴出口は穹に向けられているが、マーキュリーも多少は風を受けているはずだ。だが彼は片手で頭を押さえながら、平然としていた。恐らく体勢や力の抜き方などで、風の影響をあまり受けない方法を知っているのかもしれなかった。
「あーやっぱりここがちょっと嫌だな、髪が乱れる。改善ポイントですかねー。あれ、穹さん割と耐えてますね、台風レベルなのに。案外頑丈なんですね。人って見かけによらないものだ」
優雅に腰掛けた状態のまま変わらないマーキュリーに対し、穹はがくんと完全にしゃがみ込んだ。
身長は大人であるマーキュリーのほうが圧倒的に高いため、どちらも座った状態なら再び向こうから見下ろされる形になる。
強風の狭間から感じる冷たい視線を受けながら、穹は顔を上げた。それすらも重労働だった。風が、頭を強い力で押さえつけているのだ。
「……わかった。望み通り、楽しませてあげます」
少しでも口を開けたら、凄まじい勢いで風が体内に入り込む。小さく口を開けることしか、それに比例して小さな声を発することしか叶わなかった。びゅうびゅうという風音に遮られ、相手に届いたかは不明だ。確認する前に、穹は屋上から飛び降りた。風に煽られたというべきか。
どん、となんとか両足で着地した。衝撃を覚えたが、体は無事だった。美月と未來が駆け寄ってきたが、相手をしている猶予は無かった。穹は顔を上げた。噴出口が、穹達のほうに向けられた。
次の瞬間、突風が三人に襲いかかってきた。
「ち、ちょっと待ってちょっと待って!!」
「えええ、どうしようどうしよう、これ本当にどうしよう!!」
美月も未來、風の強さに戸惑いを隠し切れていない様子だった。だがパニックになりながらも、懸命に暴風の影響を受けないよう、構えを取っている。
しかし、飛ばされないように姿勢を低くしても、ずるずると後ろに下がっていく。いずれ限界が訪れ、吹き飛ばされることだろう。
猛烈な風が刃と化し、目に入ってくる。顔を伏せ、地面を睨みながら、穹は頭を巡らせた。
「……」
コスモパッドと、胸元のブローチを重ね合わせた。瞬間、両手に光が集まっていった。その手を目一杯開き、上空へと向けた。
手の向こう側に、半透明の水色をした、円形の壁が出現した。穹にのみ使えるシールド技。風はぶつかって反射され、シールドの下は無風の空間になった。
「防いできましたね。でもそれからどうするんです? あなた方は、ロボットに一歩も近づけませんよ」
ばたばたと、シールドの外にある雑草や物体が、風に激しく煽られている。シールドから一歩でも外に出れば、また乱気流に飲まれる。
両手でシールドを支えていた両手のうち、ふと片方の手を離した。
こういう使い方は有りなのだろうか。頭に浮かんだ方法に、疑問を覚える。だが上手く行かなかったら、別の方法を考えればいいのだ。穹は、シールドから離した手を、拳に変えた。
「ふっっっ!!!」
音が生じるまで力を込めた拳を、思い切りシールドに叩きつけた。
円形の壁は穹の手の上から消えた。それは形を変えないまま、真っ直ぐ上昇していった。勢いを止めないまま、ノートの元まで飛んでいく。鈍い音を残して、壁は噴出口にぶつかった。
瞬間、シールドは消え失せた。噴出口の形はひしゃげ、その意味を成さないものとなっていた。それは間違いなく、シールドの残した痕跡だった。
未來が目を輝かせた。「わあ、凄い……!」
一方、美月は呆然と空を見上げていた。呆然とした様子で口を開く。「で、でも、これからどうするの……?」
ロボットは依然としてジャンプではとても届かないほど空高くを飛行しており、こちらからの攻撃が届くとは思えない。
穹は答えを口に出す代わりに、軽く屈み込んだ。
「こうする」
美月と未來が穹を見た。穹はブーツについてある歯車に指をかけた。くるくると、回りきらなくなるまで回す。その回す速度は、自分でもわかるほど、早かった。
かち。歯車が止まる。ブーツの底から薄い青色の煙が漏れ出す。顔を上げたのと、指を離したのは、ほぼ同時だった。
大地を割る勢いで踏み込んだが、予想以上に力が入っていたようだ。両隣にいた美月と未來が、穹が跳び上がった瞬間にその勢いで転倒した。
少し申し訳なく思う心を伴いながらも、体は上昇をやめない。見る間にノートとの距離が詰まっていく。段々と近づいていくノートの体を目に収めながら、穹はジェット噴射を続ける足に力を入れた。
狙いを定められるだろうか。近づいてみたら、思ってた以上に標的は小さかった。パルサー捕獲に失敗した経験が、脳裏にちらつく。
それをかき消す、今だ、という自分の声がした。一切疑いをかけず、従った。穹は片足を、思い切り高く上げた。
振動が伝わった。びりびりいう震えが全身に伝わった。鼓膜が割れるような轟音も、衝撃を顕著に示していた。
穹の蹴りは、狙いを外さず、見事にロボットにヒットしていた。
衝撃波を残し、ロボットは空高く舞い上がった。しかしそれは自らの意思ではなかった。穹に蹴り上げられた機体は、もはやその姿を僅かにも捉えられないくらいまで、上っていった。
ここでジェット噴射が止まった。体が下降を始める前に、穹は自身の足下に向かって、両手を広げた。瞬間、水色のシールドが生み出され、そこに体を下ろした。
依然として、視線は上に向けていた。目を細め、空の一点を睨む。目星を付けていた場所に、非常に小さな黒点を発見した。それは見る間に大きくなっていった。蹴り上げられたノートが、落ちていくシーンだった。
再び歯車に手をかける。先程よりも更に勢いを乗せて回す。ある程度ロボットの影が大きく見えるくらいの距離になった直後、指を離し、跳び上がった。
ノートへ距離を詰める。今度はロボットよりも、自身のほうがわずかに高い位置まで飛んでいた。
こうしてみると、自分の持っているものとよく似ている。コードが張り巡らされている姿は、一時的に戦闘用のロボットに変化させられているとわかるが、本当に自分のノートとよく似ている。
再び片足を高く上げる。閉じた瞼の裏に、あの大人の姿が浮かぶ。なんという人間なんだろうか。こんな姿になってる自分を見て高みの見物をしていたのか。
だが自分は透明人間ではないが、喜劇の登場人物でもない。
かっと胸が熱くなった。熱は見る間に全身に回っていった。体の内側だけに留めておくことはできなかった。
「はあああああっっっ!!!!!」
振り上げた足の踵を、ロボットにぶつけた。全ての力が、一点に凝縮されていた。
音が鳴った。轟音などという生易しいものではなかった。その音は、空気全てを震わせた。
ロボットが消えた。地面に落下していく様は、まさに音速に相応しいスピードを出していた。
時間が止まっているような感覚で満ちていた。下にいる美月と未來は無事だったろうか。そう考えた頭が、ふいに違和感を告げた。
体に、衝撃が伝わっていない。
ぴし。
これが違和感の正体だと答えるように、高く小さな音が、耳に届いた。音の発生源を探す。
それはブーツからだった。ロボットへ踵落としを決めた部分に、小さなヒビが入っていた。
ぴしぴしぴし。
ヒビが、瞬きする間もなく、範囲を広げていく。ブーツ全てだけでなく、ズボンに、ベストに、ジャケットに、ヒビが走っていく。
びしいっ。
一際大きな音が、最後に残った。ヒビの隙間から、淡い光が漏れ出した。
自分の来ている衣装にヒビが入っている。その光景を目撃したのは、それが最後となった。
ぱっと光が消えると同時に、見覚えのある布製品が目に飛び込んだ。
ブーツは穿いておらず、スニーカーになっている。両手を見ると、変身時に付けられる青いグローブが消え、素手に戻っている。背中のマントの感覚が消え失せている。
それは確かに、今日自分が来ている服だった。
変身を、していない。
頭が理解した直後だった。穹の体が、急降下を始めた。青空が、白い雲が、遠ざかっていく。
風を切る音とはこんなにうるさいものだったかと、初めて気づいた。ごおごおという音は、生き物の唸り声に聞こえた。
少し開いた口から、肺を掻き切るような風が飛び込んでくる。
あ、と思った。落ちている、と。なのに、空を飛んでいる錯覚を見た。青空以外、視界を覆うものは何もなかった。
だん、と全身にショックが届いた。それは、あまり大きなものではなかった。
視界の中。青空以外に、美月の姿があった。その顔は、恐怖で埋め尽くされていた。
「何を、何をっ……!!」
美月の体は、穹を受け止めた両腕を中心に、がたがたと小刻みに震えていた。下を見て、地面までの距離を確認し、やっと頭が、何が起こったかという処理を冷静に開始した。
地面に叩きつけられるところだった。変身していない状態で。生身で。何も出来ない子供の姿の状態で。
美月の体が、膝から崩れ落ちていった。ぶるぶる震える両腕は、頑なに穹を抱いていた。
美月が座り込んだ直後、穹は腕から零れ落ち、軽く地面に転がった。
脳全体が痙攣しているようだった。その震えが体に伝わり、それが力を奪っていた。投げ出された腕は震えていた。
その腕を、美月が同じように震える両手で掴んできた。痛みしか覚えないほど強い握り方だった。
「なんなのよっ……!!」
美月の泣き出しそうな声を聞いた瞬間、今立ち上がれないのは倒れている自分よりも、座っている美月のほうではと直感した。軽く屈みこんだ未来が、美月の背中を優しく撫でていた。
穹は上半身を起こした。途中で何度も込めようとした力が消失したため、がくんと倒れそうになった。だが、なんとか上半身のみ起こせた。下半身には、全く力は残っていなかった。
異様にやかましい心臓を無理矢理押さえこみながら、穹は振り返った。上空を仰ぐと、マーキュリーと目が合った。開眼された目が、こちらを観察するように、無感情な光を灯していた。
「えー……凄い攻撃力……。これだとデータが上手く取れないじゃないですか」
データの単語が頭に届いた時、妙な引っかかりを覚えた。だが悔しいことに、それについて頭を巡らせている余力は無かった。
はー、と穹は息を深く吐き出した。深呼吸しても、動悸は収まる気配を見せてくれなかった。
「どうですか。面白かったですか。満足しましたか」
「はいはい、楽しませて頂きましたよ。予想外なことばっかりで、本当に充実した時間を過ごさせて貰いました」
終始笑顔のマーキュリーだが、今浮かべている笑みは心の底から楽しいと感じているときに出てくるものとわかった。けれどもそんな心からの笑顔を目にしているのに、なぜ穹の心は、吐き気を催すほどの強い不快感で満ちているのだろうか。
「楽しい時間をご提供するのが私の仕事なのでねえ。私自身に楽しい時間を提供されるってかなり久々ですねー。うんうんなるほど、こんな気分なのかあ」
「僕は君を楽しませる道具じゃないんですが?」
腕を組みこくこくと頷いていたマーキュリーが、突如として動きを止めた。
「むしろ、道具であるほうが遙かにましじゃないですかね、人間は」
ゆっくりと腕を解きながら発せられた台詞は、今までの中で最も理解が出来ない理論だった。目を険しくさせた穹に補足説明するように、彼は人差し指を立ててきた。
「だってほら。この宇宙は碌でもない心を持った人間に溢れてる。もはや、碌でもない心を持つのが目的で人間が生まれてきてるようなものでしょ。だったらいっそ、機械と同義の存在にでもなったほうが、この宇宙もっとましになるかもしれない。そう思いません?」
「その碌でもないって、自分のことを指してるんですか?」
「言葉が通じない奴と相手するほど疲れるものはないので、この辺で切り上げますかねえ」
と。立ち上がった未來が、一歩前に歩み出てきた。
「やけにあっさり引き下がるね? それに、ハルさんを追ってる割には、ハルさんを探さずに帰っていいの?」
未來の手が刀の鞘に回る。明確に警戒心を抱いている相手に対するマーキュリーの反応は、こくりと一回頷いただけだった。
「用事は済みましたのでねえ。皆さんみたいに、ただ突っ込んでいくだけが作戦ではないんですよ~」
「何それ煽り?! 挑発?! いいじゃないの上等だ!!」
「美月落ち着いて……。相手の思うつぼだよ」
美月は拳を振りかぶった。美月は立てたが、穹はまだ無理そうだった。先程から何度も足に意識を集中させているが、願いは無情にも聞かれない。
「うわ、こっわ……。ビーナスとマーズの両方入ってる人間とか……」
「何それ!!」
「怖ー……」
軽く一歩引き、口元を片手で覆ったマーキュリーがぼそりと呟く。
しばらく威嚇を続けている美月のことを見ていたが、くる、と視線の方向を転換させ、穹を見下ろしてきた。立てない穹を、見下しているような目に感じた。
「嫌でしょ、他人に知った風な口利かれるって」
「……は?」
「私が、されて一番嫌なこと。虫唾が走るほど嫌なこと。知ったかぶりが一番嫌なんですよね、私は。反吐が出そうになる」
「……自分がされて嫌なことは、人にしてはいけないっていう常識、ご存知ないんですか」
あははっ、と笑い声が上がった。滑稽なあまり出た声にも、鼻で笑い嘲ったようにも聞き取れた。
「私の中に、道徳は存在してませんよ」
「じゃあやっぱり屑か」
「……ねえ、穹さぁん?」
ゆっくりと後ろで手を組みながら、軽く身を傾けてきた。にい、と笑い、纏わり付くような声が発せられる。
「私とあなたはですねえ、どこか似てますよ。だから、私を屑って言うんなら、あなたも屑ってことになる。それが嫌と感じるんなら、言葉に気をつけたほうが良いですよ?」
両足に意識を集中させて力んだが、笑ってしまいそうなほど動けなかった。
「どこがだ。どこが似てるっていうんだ」
マーキュリーは、自分の心臓を両手で覆い隠す素振りを見せた。
「あなたには隠し事の才能がある。そこがなんか、他人事とは思えないんです。共感と言いますかね。きっと、私と通ずるものがあるからなんでしょうねえ~」
「次同じこと言ったら容赦しません。……二度と一緒にするなよ」
思いのほか低い声が飛び出た。視界の端で、驚いた顔で美月と未來がこちらを見てきた。にも関わらず、肝心のマーキュリーには全く効いておらず、それどころかきょとんと首を傾げてきた。
「うーん……。私、ここまで人に嫌われたことないので結構動揺しちゃってます。でもこれもまた一興、ってやつなんでしょうね。穹さん、面白いですね。気に入りましたよ」
「全っ然嬉しくない言葉をどうも……」
くすくすとひとしきり笑ったマーキュリーが、鉄骨の上を渡っていく。だが唐突に振り返ると、すう、と大きく息を飲み込んだ。
「穹さ~~~ん! 私はあなたを応援しておりますよ~~~!!」
「頭を辞書でぶん殴ってあげましょうか??」
「それはご勘弁をー!」
その台詞を最後に、マーキュリーはどこかへと去って行った。緩やかな風が吹いたのを肌で感じて、嵐は去ったのだと実感した。
「あー! 結局何も言ってやれなかった!!」
美月が地団駄を踏んだ。その体は震えておらず、顔も恐怖に塗れてはいなかった。いつもの姿に戻った美月を見て、穹はふっと息を漏らした。まあまあと、美月の肩を叩いてのんびり宥める未来もまた、通常通りだった。
「とりあえずハルさんとこに報告しに行こー! ほら穹君も立って」
「あ、はい」
差し出された手を握ろうとした瞬間だった。ぐにゃり、と視界が歪んだ。
世界が回る。自分の名前を叫ぶ声が、遠い場所から聞こえる。
空が目に映った。いつもよりも青色が濃く見えた。それを最後に、視界が暗転した。
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