phase3「明かす隠し事」

 「料理の神様、お願い致します……。僕にアイデアを授けて下さい……。

……あ、いや、僕じゃなくても、父さんと母さんと姉ちゃんにアイデアを授けて下さい……。特に姉ちゃんのセンスはちょっと僕としては納得がいかないところがあるので、良ければそこも直して下さい……」


 お賽銭を放り込んだ後、穹はずっと手を合わせ、願いを囁き続けた。入れた額とは釣り合わないほど長く願っていたように感じたが、もはや神頼みしか残されていないのだ。ちなみにこの神社に祀られている神は、料理に関係する神ではない。


 穹は、クラーレが地球に来た時に彼がシロと共に迷い込んだ神社に来ていた。ここを神頼みの場に選んだ理由は、シロがここのご神体である岩を食べたからだ。

 要するに食いしん坊のシロと関わりがあるわけだ。シロを惹かれさせるものがあるなら、多分何か食べ物と関係しているはずと考えたのだ。


 こじつけなことは、自分がよくわかっていた。


 神頼みよりも願掛けに近い。依然として新メニュー問題は進展の兆しを見せない。限界に近づいてきている家の空気を思うと、いてもたってもいられなくなった。


 神に縋る一方で、現実的に迷っていることがあった。ハルに助けを求めるべきか否か、ということだ。

料理研究していたことも、新メニュー案を書き記した青いノートも含め、一切合切を打ち明けるか。その上で、どんな料理を出すべきか、聞き出すか。


 美月は既に聞いたようだ。だが、新しいメニュー案そのものを、ハルから聞き出すことはできなかったらしい。0から1を生み出すことは出来ない、と言っていたと教えてくれた。


「1から100、1000、10000に広げることはできる。だが何も無い所から新たなものを生み出すことは出来ない。それは誰にでもできることではない」と言ったそうだ。


 美月は附に堕ちなさげにそのことを説明していたが、穹の頭にはハルの台詞がずっと響いた。だから、ハルに打ち明けるか否か悩み始めた。

が。


 昨日のクラーレの一件が、穹を踏み切れさせずにいた。言っていいことだと客観的に判断したら、口止めされていても言うのがハル。どんなに口止めしていても、言うべきものと判断されれば、一巻の終わりを意味する。


 肩からかけてあるトートバッグの中を覗いた。ノートが変わらずそこにあることを確認し、片手でバッグを押さえる。


 やっぱりやめよう。穹は決めた。リスクは避けるべきだ。その代わり今日も宇宙船のキッチンを借りよう。余計な事は考えず、新メニューを考えるという課題そのものに真っ直ぐ目を向けよう。


 決意を胸に振り返った時だった。


「ソラ、偶然ですね」


 人ならざるものが立っているように見えた。神社の持つ空気と、彼女の静けさが、あまりにもぴったりと噛み合っていたからだ。いつの間にアイが後ろにいたのか、穹は全く気づくことが出来なかった。


「私の知る方達に意見を聞いてきました」


 動揺が残っていたのと、前置きがなかったため、理解が遅れた。少しの間の後、アイは自分の頼みを聞いてきてくれたのだとわかった。勝手なお願いをしたのではと帰宅してから後悔がどっと押し寄せたのだが、危惧と反して彼女は通常通りだった。


「本当にごめんね……」

「いいえ。頼み事には答えるのが普通です」


 淡泊な口調から、本当に一切気にしていないことが窺え、穹はほっとした。参道を抜け階段に座ると、アイが片手で持っていたメモへ目線を下げた。階段の下にある鳥居から、風が吹き込んでくるようだった。


「忌憚の無い意見をお願いしたので、限りなく本心に近い意見であることは確実です。では述べていきます」


 アイの動きが、一瞬止まった。何かの前兆のようだった。


「意見その一。

“……正直、どちらかとといえばみたいなものばかりで、特に好みはないんですけどねえ。でも季節限定なら、特別感を演出したらいいのでは?”

意見その二。

“甘いのがいいわね。あとは……。……忌憚の無い意見だったわよね。……あまり派手な見た目じゃなくてもいいわよ。”

意見その三。

“辛くて味が濃いものがいいな! というか肉!”

意見その四。

“和食もいいけど洋食もいいよねえ。うう、決められないなあ……。とにかくたくさん食べられたらそれだけで嬉しい! 大盛りで食べ応え抜群のものがいいかも~。”

意見その五。

“栄養補給ゼリーとかだな……。とにかく片手で食べられるものがいい……。作業の邪魔にならないもので……。終わり。”

意見その六。

“安ぼったくて庶民的なものは嫌ですわ。高級感溢れるものがいいです。コース料理のように、時間をかけてじっくり楽しめるものがいいですわ。出来ましたら紅茶を。アフタヌーンティーを!”

意見その七。

“栄養価が高ければ特には。すぐ力になるものだったら尚良い。”

以上です。……どうかなさいましたか」


 無表情のアイから語られていったのは、平坦な声色からは想像もつかない、様々な口調だった。

聞いた人達の言葉遣いを真似ているようだったが、それにしては再現度がやたら高いと感じた。細部の台詞まで覚えているのではないか。

だが声そのものに感情は乗っていなかったので、機械が告げるアナウンスのように聞こえた。


 穹は呆然としていた。驚愕の一言に尽きた。しかしそれよりも。


「アイの知り合いって……お、面白い人達が多いんだね」

「……確かに性格に特徴ありの面々ですけれども」


 思ったことをついそのまま言うと、アイは軽く空を見上げ、どこか遠い目をした。


「とにかく本当にありがとう。参考になったよ。面倒なこと頼ませちゃってごめんね」

「いいえ」


 アイが聞いてきてくれた意見を軽くメモしていき、見直してみた。


「えーと、栄養補給ゼリーはちょっと……。でもゼリーは有りかな」

「でしょうね」

「あとはそうだな……」


 そこで穹は一番目の人が、他は自分の好みを告げているのに対し、唯一客観的な意見を述べていることに気づいた。穹は一番目の意見の下に、ボールペンで二重線を引いた。


「特別感は確かにって感じだね。意識して考えて損は無いと思う。これはかなり参考になるかも。……うーんこの人どんな人なんだろう。少し気になるかも」


 え、と言葉を残して、アイが固まった。


「……多分会ったら、嫌悪感を示すと考えられますよ」

「……え? 僕が? 僕……えっ?」


 アイはますますどこを見ているか不明の遠い目になった。何が何だか理解できなかったが、穹はこれ以上触れることはやめておいた。聞かないほうが良いという空気が強く伝わってきたからだ。


「えーと、今まで聞いた意見全部合わせると……。

特別感があって甘くて派手な見た目じゃなくて、辛くて味が濃くて大盛りで食べやすくて、高級感があってじっくり時間をかけて楽しめる、栄養があってすぐエネルギーになる和洋折衷の肉とゼリーのパンケーキ……?」


 頭の回転が止まった。自分の体の臓器だから、よくわかった。


「……。……」

「大丈夫ですか」


 その場で硬直し棒のようになった穹に、アイが静かな声をかける。


「あ。すみません、一つ報告を忘れてました。あともう一人、プリンかアイスがいいという意見が」

「これに更に追加……?」


 両手で頭を抱えた。頭の中で意見を元にイメージを組み立てようとするも、どうやってもキメラにしかならない未来以外想像できない。


「甘いけど辛い……? 高級感あるけど素朴……? 食べやすいけど大盛り……? 手早く食べられるけど時間かけて楽しむもの……?」


 せっかくパズルのピースを貰ったのだ。どうにかして埋めたいところだが、どうすればいいのだろうか。


「何かが浮かびそうだけどいやでも……」

「ソラ、どうして全員分の意見を取り入れようとするのです」


 冷静な声がかかった。穹は顔を上げた。


「色んな人の好みを全部入れれば、それだけ多くの人が、うちの店を気に入ってくれるかもしれないじゃない」


 万人に好かれてほしい。老若男女問わず、たくさんの人に、うちの店を好きになって貰いたい。いつだって、そう思っている。

 アイがゆっくりと、一回瞬きをした。どういう意味か、理解できていない仕草に見えた。


「色んな人の言う“好き”を全て詰め込んだものがあったら、それだけたくさんの人に好きになって貰えるかもしれないって、そう思うんだ」


 人付き合いの上手い人なども同じだと考えている。多くの人の、個々の好みがその人に詰まっているからこそ、多くの人に好かれるのだと考えている。人から好かれる要素、その大体を持っているからこそ、人と付き合っていけるのだろうと。


 それは、自分とは程遠い性質だった。


「ソラは家業を、非常に大切にしていらっしゃるのですね」


 アイが言った。波風一つ立たなかった水面に、雫が落ちて波紋が広がっていくようだった。

 ひゅう、と風が吹いた。数を減らしたツクツクボウシの鳴き声が遠くから聞こえてきた。


「もちろん」


 肯定することに、若干の躊躇があった。大事にしているものほど、むやみに人に話したくないという本能が働いたのかもしれない。それが大切であればあるほど、尚更。


「でも、姉ちゃんと比べたら、熱意が全然足りないから……」

「ミヅキさんと?」

「僕は向いてない。料理は姉ちゃんほど上手くないし、食べることも、人並み程度でそこまで好きじゃないし……。姉ちゃんこそが、あの店に相応しいと思う」


 家族であること抜きで見ても、美月は凄いと思う。


 まず料理の腕がいい。ロボットや宇宙人に気に入られているのが何よりの証拠だ。また、料理やごはんへの愛も本物だった。つまり、技量も熱意も持ち合わせているのだ。

 そしてその人柄だった。自分を偽らず、本当の姿をいつも晒しているのに、周りに人が集まる。皆の中心で輝く姿を、確かに誇りに感じている。


 大人になった姉がミーティアを継いで働いている姿は、実際に見てきたかのように鮮明に想像できる。穹自身も、実際にその光景をこの目で見たいという思いがある。


 一方で、自分も働きたいと思う気持ちも確実にあった。「本当のレシピ」を使って料理をしてみたい。自分の考えた新メニューを店に出してみたい。それを食べているお客様の姿を、この目で見てみたい。


 その光景を夢想している間は幸せしか感じないのに、終わると空しさしか残らない。来るはずが無い未来だという現実が突き付けられるからだ。


「僕ね、夢があるんだ」

「夢」


 穹は顔を上げた。真夏と比べ、高くなり始めている空が広がっていた。両手を握りしめようとしたが、力が入らなかった。


「自分の大切なものを、自分で守ること」


 口に出してみると、それはどこにでもあるようで、けれど身分違いな大層すぎる夢に思えた。


「大切なものを守りたい。でも、強さが全然足りない。自信も。そして何より、勇気が」


 もし店を継いだとして、それで自分はあの場所を守り続けられる自信がなかった。いずれ取り返しのつかない何かが起こるのだと、恐れしか無かった。なのに夢だけが、ただただ膨らんでいく。


 アイが黙ったまま見下ろしているのがわかり、穹は慌てて苦笑いをして、その場の空気を変えた。


「なんかごめんね、面白くないこと言っちゃって」

「退屈ではなかったですよ」

「あれ、そう……? でもありがとう、こんな話今まで誰にもしたことがなくって」

「誰にも?」


 うん、と頷く。アイはいつも、穹の話を何も口を挟まずに聞いてくれる。その態度が一貫していて全くぶれることがない。自分が何か言っても、相手は笑ってきたり、馬鹿にしてきたりしないだろうと。そんな安心感があるのだ。


 立ち位置的に聞き手に回ることが必然的に多い穹にとって、自分が話し手に回ることは新鮮だった。一方で、静かに話を聞いてくれる存在が、ここまで有り難いものだとは思ってもみなかった。


「嘘は下手だけど、隠し事は多いんだよね。僕、本当に言いたいことが、なかなか言えなかったりするから」


 本心を見せること、それだけにも勇気がいる。穹はいつでも、本当の心を出しているわけではない。臆病者だから、まず隠してしまう。

 アイが前を向いた。


「私は、知りたいんです」


 緩く風が吹き、黒い髪が揺れた。


「わからないことが多いのは、由々しき事態なんです。叶うのでしたら、ソラの言う隠し事というのも知りたいです。そうすればソラのことを、もっと知れると考えるので」


 前方を見ているからか。発せられる台詞は一人言のように、誰に向かっていっているのかわからない響きがあった。穹に話しているはずなのに、その感覚がなかった。


「あ、ありがとう。気持ちは嬉しいよ、とても」


 こういうとき、何と返すのが最適解なのだろうか。知らなかった穹は、曖昧に笑うしかできなかった。


「あ、僕そろそろ行かないと。アイ、またね」

「はい。また」


 アイの台詞の意図がわからなくて、動揺しておりそちらに意識が持って行かれていた。だから、トートバッグを押さえることを忘れていた。


 一際強い風が吹いた。それは階段を下りる穹の追い風となった。体が前屈みになった瞬間、ばさ、と何かが落ちる音がした。


「わっ……!」


 そのまま転ぶことはどうにか避けられた。手足をばたつかせながらも体勢を立て直し、どこも怪我をしていない事実に安堵する。そこで、肩が妙に軽いことに気づいた。


 もしかしてと、前を見た。階段の一番下に、何かが落ちていた。青いノートが、よりにもよってページが開かれた状態で、落ちていた。それを、誰かが拾い上げるのが見えた。アイだった。


 隣にいたはずのアイが、いつの間にか移動していることにも驚いた。だが、そんなことが霞むくらいの驚愕が起こった。


 アイはノートを手にすると、そのまま読み進め始めたのだ。ぱらぱらと、紙を捲る音が、断続的に響いてくる。


「アッ、アイ!!」

「はい」


 捲る音が止まった。穹が駆け下りると同時に、アイはノートについた土などの汚れを丁寧に払うと、両手で差し出してきた。


「これは、全部ソラが書いたものですよね」


 否定しようとした。しかし寸前で止まった。アイの目に、穹のものだという確信の光が宿っていることに気づいたからだ。浅く頷きながら、ノートを受け取った。


「やはりそうですか。書かれていることは、料理だと見受けましたが。記述の内容からして、これらは全てオリジナルのものなのでは」

「……そうだよ」


 声が掠れていた。確実に脈拍が速くなっていた。頭の芯まで同時に振動しているようだった。寒いのか暑いのか、よくわからなくなっていた。汗が流れた。


「ソラは、0から1を作り出すことが出来るんですね」


 やはりどこか一人言のように、アイが言った。ぱちり、と穹は一つ瞬きした。


「私には絶対に出来ないことです。また新たなソラを知ることが出来ました。勉強になります」

「えっ、あの……」


 アイの反応は、全く予想していないものだった。予想の斜めの斜め上を行くものだった。事態が飲み込めない。


「ですが気になることがあります。新メニューについて悩んでいるのでしたら、こちらをご家族の方に見せて検討するのが効率的だと考えられます。なぜそれをしなかったのですか」


 抱いて当然の疑問だと思った。だからこそ誤魔化すことは出来ないと悟った。穹は抱きしめるように、ノートを片手で抱えた。存在しないはずの暖かさが伝わってくるようだった。


「……否定されるのが、怖かったから」


 アイが、否定、と確かめるように繰り返した。間違いでないとの意味を込めて頷いた。


 書いているメニューの全てが、誰にも受け入れられなかったらと思うと。店の役に立たなかったらと思うと。否定されたらと思うと。例え、数字上ではどんなに低い確率だと言われても、起こるかもしれないもしもを思うと、動けなかった。言えなかった。


 才能がないと突き付けられる瞬間が恐ろしくて、ずっと逃げている。


「でも、考えちゃうんだよ。一度メニューを考え出したら止まらなくなる。ああでもないこうでもないって考えて、やっと完成形に辿り着いたときの幸せが忘れられない。だから書くし、作ってしまうんだ」

「そうでしょうね。何度も書き直した跡が見えます」


 そんなところまで見えてしまったかと恥ずかしくなる一方で、見るなと言うほうも無理だと思った。ほぼ全てのページに、書き直しの跡があるのだ。直しすぎて汚くなって、ページまるごと破り捨てることもある。


「では私が、その否定される確率というのを下げる手伝いをして頂いてもよろしいですかね」

「?」


 飛び出してきたのは、これまた予想もできない言葉だった。アイが真っ直ぐ指を指してきた。


「先程見た感想ですけれどね。まず装飾が凝りすぎてると考えられます。あれは完全に物理法則を無視しています。現実に再現することは不可能です」

「え」

「あと名前ですね。難解な漢字が使われすぎです。そもそも長いです。あれでは覚えにくいですし人の脳に残らないでしょう」

「あ」

「この辺りの改善方法を計算していきたいので。もう一度見せてくれますか。できれば筆記用具もあるといいのですがね」


 次の瞬間には、穹はアイにノートとペンを渡していた。アイには珍しい弾丸トークに押されたのが大きかった。


 再び階段に腰掛け、アイはノートを捲っていった。掻かれている内容に合わせ目線が移動していくのを、穹は落ち着かない気持ちで眺めていた。さっき拾った時とは異なり、じっくりと、隅々まで読んでいる。


 これを人に読ませたことは今まで一度も無かったので、どういう気持ちで読み終わるのを待てば良いか知らなかった。


 一心にページを捲るアイの反応が逐一気になり、ずっと観察していたかったが、さすがにそれは失礼だと思い、前方や上方に目をやっていた。時折意味も無く後ろを見たりした。


 それでも我慢できなくなると、時折アイの横顔を伺った。彼女は穹に見られていることなど全く気づいていないようで、目の前のノートに集中していた。その目に、侮蔑の感情は見えなかった。

代わりにその集中ぶりから、余すこと無く全て記憶しようという気迫が見えた気がした。


 自分の作ったものを人に見せるとこんな気持ちを味わうのかと、穹は両手を組み、祈りたくなる衝動に駆られた。その傍ら、自分の好きな本の作家達を思った。あの人達はいつもこんな気持ちで、生んだ作品を人に見せているのかと思い知った。


 永遠に思われるような時間は、ぱたんというノートが閉じられる音を合図に、終わりを告げた。


「やはり外見に拘りすぎている癖が気になりました。物理法則は無視できないので、この辺りを気にするといいですよ」


 その言葉を始めとし、アイが改善点の説明を始めた。アイの言葉に、蔑みや怒りのような負の心は滲んでいなかった。その代わり正の感情もなかった。どちらの感情が読み取れない分、教師のする講義のように、穹も冷静に聞くことが出来た。


 丁寧な説明を受けながら、メモをとっていく。緊張は待っていたときにピークを迎えていたのか、いざ事が終わると案外人は冷静になれるのだと知った。


 アイの指摘はさっきも言われたように、主に名前と見た目に拘りすぎなことだった。その口が止まった。


「以上です」


 言われたことが理解できず、また信じられなかった。空耳かと思い聞き返したが、アイは変わらずに言った。「以上です」


「え、えっ? 他は?」

「他と言いますと?」何を言っているんだとばかりに見つめ返される。

「他に、直したほうが良いところは?」


 アイは納得したのか、ノートを返しながら言った。


「料理に関することは専門外ですので、詳細はわかりかねます。私はあくまで、一般的意見として予測出来るものを考え、その一般的意見の一時的代表者として、改善したほうが望ましい点を指摘しただけなので」

「無い、ってこと? つまりは」


 地に足がついていない気分だった。頭が妙にふわふわとしていた。


「私の分析に限りますが、そうです。専門的意見を述べることが出来ず申し訳ありません。なのでここまでしておいてどうかと考えますが、あまり参考にしないほうが賢明です」

「いや、そんなことはないよ」


 無い。他に改善すべき点が、少なくともアイから見れば、無い。目の前に、その現実が突き付けられている。


「では、私はこれで」アイが立ち上がり、綺麗な角度で礼をした。

「あ、うん。ありがとう」


 もう一度お辞儀をした後、階段を下りていく。アイの姿が見えなくなったら、ハルのところへ行こうと考えた。


 と。アイがくるりと振り返った。


「これで否定される確率、というのは下がったと見受けられますが。ソラはどうするのですか。これをご家族に見せるのですか」


 決して暖かくは無いであろう、温度を感じられない青い目が、穹を見上げていた。嘘も誤魔化しも通用しないと感じた。

 だから穹は、素直に、首を横に振った。


「多分、見せない」

「そうですか。なぜです」


 顔を上げた。太陽の光が強くなった気がした。太陽はとても眩しい。直接見てはいけない光だ。


「知られたくないから」


 九月の太陽が、皮膚を照りつける。


「特に、姉ちゃんには、知られたくない」


 美月の見せる、眩い笑みが浮かぶ。太陽の光のような笑顔。自分の欲するものを、彼女は全て持っている。


 ずっと穹を見上げたまま目線を外さなかったアイが、顔を伏せた。「そうですか」


「このノートをちゃんと見せたの、アイが初めてだよ」

「ではこれがソラの仰る隠し事の一つだったのですか。知れて良かったです」

「あはは……。あんまり良いものじゃ無かったでしょ?」

「そんなことはないですよ。大変、有意義な収穫となりました」


 その言葉を疑問に思う前に、アイは「では」と一礼し、今度こそ去って行った。

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