phase1.2

 少女の名前がアイと知ったのは、翌日のことだ。


 「また明日」にどういう意図があったのかわからなかった穹は、行くか悩んだ。あの子は誰か。なんで全然話したこともない穹にまた明日と言い残したのか。解せないことが多く、少し怖いとすら感じた。


 しかし穹は、家を出た。また会ってみたい、という心に従った。


 本を借りに行くという急遽用意した口実を手に、穹は午前中のうちに図書館に向かった。外はうだるような暑さで、遠くの景色には陽炎が出来ており、ゆらゆらと不気味に揺れていた。


 緩い冷房のかかる館内に入った途端、何時頃に行けば良かったのかという、肝心な部分を聞き忘れていたことを思い出した。また明日とは言われたが、時間に関しては一切言われなかったのだ。


 己の詰めの甘さを呪いながら、一応階段を上って、昨日とは違いまばらだが人のいる閲覧室を覗いてみると、昨日と同じ場所に座る少女の姿を発見した。近寄る前に、向こうから顔を上げ、会釈をしてきた。


 目が合った瞬間、また体が動かなくなりかけた。が、その場にずっと立ちすくんでいるわけにもいかず、穹は落ち着かなく周囲を見回した後で、少女の向かい側に腰掛けた。


「昨日は名乗らなくて失礼を致しました。私は、アイといいます」

「あ、僕は穹だよ」

「それはもう知っている事項です」


 アイは面白がるでもなく真顔のまま言い切り、読んでいた本に目を落とした。呆れたかなと危惧したが、どうやらそうではないらしい。


 水底にいるような沈黙が流れた。ただでさえほとんど会話が生じない図書館内が、より一層静かな空間に感じられた。本のページを捲る音が大きく聞こえてくるくらいだ。


「アイは、幾つなの?」


 長い無言の時間が流れた後、やっと見つけた話題がそれだった。

 アイは顔を上げ、迷うように目を伏せた後、こちらを見つめた。


「十三歳です」


 気の抜けた声が出そうになり、口をつぐんだ。自分と同じ歳にはとても見えない。それとも自分が未熟すぎるのか。


 会話が途切れた。アイはしばらくこちらを見ていたが、視線を本に戻した。そこで、至近距離に話題が転がっていることに気づいた。


「そういえば、何を読んでるの?」


 本の話ならば、多少は盛り上がれる自信がある。少し身を乗り出すと、アイは表紙を見せてくれた。


「電子工学の書物です」


 その分厚さと表紙のデザインからして、穹の理解できる範疇を超えていることが、これでもかとばかりに示されていた。


「……面白い?」

「この星の科学は、他と比べ水準が著しく遅れていますね」


 迷いの感じられない口調だった。穹は困惑し、辺りを見てみた。紙という古来からの媒体に囲まれているこの場所では、肌で科学を感じられない。


「あはは……。うん、まあ、そうだね。まだ、成長の途中だからね」


 いつだったか、ハルに言ったことがある。確か、苦手な理科の勉強中だったろうか。地球の科学ってやっぱり遅れているんでしょうか、とつい漏らした。


 するとハルは、他の星と比べたら劣っているのは確かだと事実を述べた上で、首を振った。焦る必要も劣等感を抱く必要もない、地球は今まさに成長している最中なのだから、と言ったのだ。


 ふと視線を感じた。アイが、こちらを見つめていたのだ。


「成長、ですか」


 薄く開いた口から、本のページを捲る音よりも小さな声が漏れた。


「成長すると思いますか」

「うーん……。人は成長する生き物だから、するんじゃないかな? でも、どうしたの?」

「失礼致しました。成長は、私には遠い単語でしたので、つい興味が沸いたのです」


 アイは静かにそう言い、目を伏せた。


 ここで、その日の会話は終わった。アイが本を読むことに集中を始めたからだ。そのまま立ち去ることも憚られ、穹も適当な本を持ってきて読み始めた。


 だが集中しようとしても、向かいにいるアイの存在が気になり、内容があまり頭に入ってこなかった。何か気に触るわけではないのだが、どこか見られている気がするのだ。無感情に観察をされているような視線。顔を上げても、アイはこちらを見ていないというのに。


 程なくして、アイが席を立った。去り際、こちらの隣に立ち、館内の静けさと同じくらいの声で言った。


「また明日。私は大体の時間を、ここで過ごしているので」


 翌日、穹はまた同じ場所にいた。また明日と言われたからだ。もう一度、自分に会っても良いという挨拶をかけられた。ならば自分は、応える義務があると。それ以前に、もう一度会ってみたいという思いが確かに存在していた。


 午前中に行ってみると、やはりアイは閲覧室にいて、理工学系の本に目を通していた。傍らには、同じような種類の本が幾つか積まれていた。

 読書に集中するアイを前に、穹は心の中で頭を抱えた。何を話せば良いのか。


 また、会話を用意できなかったのだ。忘れていたわけではない。だが、一般的な女の子が好む話も、アイ個人が好む話も、雲を掴んでいるようにその形がわからないのだ。


 アイが不機嫌になったりして場の空気が気まずくなったらと考えると、どんな話題も最適なものには思えなくなる。悶々としているうち、時間切れになった。


 結局アイと同じように、読書をすることに決めた。もともとこの場所は本を読むための場所で、何か話すべきではと考える必要は無い、と自分に言い聞かせる。教室にいるときと同じように、アイから話しかけられるのを待つことにしたのだ。


 でもそんな自分を、情けないと心の中で罵らずにはいられなかった。何回かの情けないを胸中で吐き捨てた時、沈黙の落ちる空気の中に、声が割って入ってきた。


「何を読んでいるのですか?」


 アイの目線が、控えめに穹の本に注がれていた。


「面白いですか?」


 昨日穹が話したのと同じ台詞だった。彼女も、話題がないことに居たたまれなくなったのだろうかと思うと、申し訳なさと自分への不甲斐なさで心が一杯になった。


「小説だよ」

「小説ですか。まだ読んだことがない書籍です」

「この本を、ってこと?」

「いえ、ジャンルそのものをです」


 穹は自分でもよくわかるほど、呆けた声を出していた。「……そうなの?」


 読む量からして、アイはかなりの読書家だと見ていた。だが、好き嫌いというものがある。穹も本は好きだが、アイの読むような専門書を読んだ経験はほぼない。


 アイが少し腰を浮かせてきた。


「この機会に読んでみようと考えました。ソラさん、あなたのお勧めを教えて下さい」

「あ、じゃあこれ読んでみる? 僕は他のを読むから」


 本を差し出すと、アイの体がブレーキをかけたように突如停止した。何度か瞬きをし、穹と本をゆっくり交互に見る。


「なぜ? あなたはこれを読みたいと考えたから、読んでいたのではなかったのですか? その欲求、願望を我慢し、私に渡してしまって、本当によろしいのですか?」

「いやいやそんな。そこまでの強い思いはないよ」


 もともと話題を探すことから逃げるつもりで持ってきた物だ。むしろアイに対して引け目も感じている。後ろめたさを少しでも晴らすための行動にすぎなかった。

 アイの席に向かって本を軽く押すと、彼女はそれを両手で持った。


「……どうもありがとうございます」


 スキャンするように表紙を眺め、実験物を覗き込むような慎重な手つきでページを開いていく。


「それじゃ、僕はアイが読んでいたのを見てみようかな。……いいかな?」

「どうぞお好きなように」


 一番上に積まれていたロボット工学に関する本を開いた。一行目で、これは自分が読むものではないと判断出来てしまった。初心者向けに易しく解説されたものならいざ知らず、これは間違いなく、基礎も応用も理解した人が読むものだ。うう、と小さく唸る。


 頑張って少し読み進めてみたが、一ページ読むのにもだいぶ時間がかかってしまい、無理だと判断した。ごめんなさいと何度も呟きながら、本を閉じ、少しだけ机の奥へと押す。


「なぜ謝るのです」


 小さな声量を心がけていたつもりだったのに、アイには聞こえていたようだ。じっと青の瞳に見られている。


「えーと、読みたいと言ったのにすぐに挫折したから……」

「それで人は罪悪感を抱くものなのですか」


 多分自分が特殊なだけと言おうとしたが、寸前で止めた。言葉にすると格好悪さが際立ちそうだ。

 苦し紛れに、「内容はどう?」と渡した小説の感想を聞いた。


「正直、よくわからないです。全く頭脳が追いついていません」

「難しかった?」


 読みやすい文体で有名な作者の作品だったのだが、合わなかったのだろうか。自分が勧めたせいで嫌な思いをしてしまったのかなと思うと、頭の芯に冷たい痛みが生じた。


「書かれていることが難解という意味ではなく、出てくる人達の思考や行動が理解不能なのです。言いたいことがあるなら言えばいい、やりたいことがあるならやればいい。なのになぜ、すぐさま行動に移さないのでしょうか。それで生じる見解の相違や関係性の亀裂といったリスクを考慮すると、大変非効率的です」


 穹は口を押さえた。そうしないと、笑い声を立ててしまいそうだったからだ。だが抑えても、どうやっても押し殺した空気は漏れ出てしまう。穹の反応が理解できなかったのか、アイは首を傾けた。


「うん、うん。そうだね。でもね、それが人間なんだよ。不思議だよね、理屈に合わないことばかりするのが」


 アイは自問自答するように目を閉じた。


「理解できませんね。どうやってもわからない以上、これを読み進めるのは効率的でないです。……しかし理解しておかないと、この先、支障が生じる恐れもありますね」


 まぶたを上げたアイは、「ソラさん」と真っ直ぐに穹の目を見てきた。


「これを難なく読み進められていたということは、あなたはこの登場人物達の不可解極まりない行動を、理解できると考えてよろしいでしょうか」

「えーと、まあ読み手に解釈が委ねられてるものもあるけど、大体ならわかるかな……?」

「では教えて下さい。私に」


 自分の目を大きく見開いた。言い間違いでも聞き間違いでもないという証明のように、アイは一つ頷いた。




 このやりとりがきっかけで、話題の種を探す必要は無くなった。

 小説の内容の解説を穹が行い、アイがそれを聞く。どこか奇妙な行動と関係性に落ち着いたからだ。


 穹もすぐ引き受けたわけではない。なぜそんなことを、なぜ自分なんかに。纏まりのない疑問が一度に押し寄せてきて、穹は遠慮した。

 しかし、そうですか、とすぐ引き下がると思っていたアイは、意外なことに「お願いします」と頭まで下げてきた。


「ソラさんにしかできないことだと、私は考えています」


 もしここで首を横に振ったら、アイは諦めるだろうという空気を感じた。同時に、これ以上距離が縮まることはないだろう、とも。


 アイと疎遠になる。考えただけで強く後ろ髪を引かれる思いがした。それだけは絶対に避けるべき事案に感じてならなかった。気づけば縋るような思いで、穹は承諾していた。


 アイは歓喜や安堵の表情を浮かべるということはしなかったが、頼んだことを後悔しているようにも見えなかった。


 帰宅してから、なんであんなに距離が遠ざかることを恐れたのだろう、と自分に疑問が湧いた。なぜそこまでとの考えから、アイを怪しんだこともある。彼女は自分を貶めようとしているのではと。しかしそれは根拠のない疑心暗鬼だった。アイに対して非常に失礼だったのではと考え直し、しばし自責の念に駆られた。


 次に会ったとき、閲覧室でずっと喋るわけにはいかないから、入り口付近のロビーで過ごすことに決めた。飲食は禁じられているが、館内と違い、多少の声量での会話は許されている。


 アイが初めて読みわからないと告げた小説を借り、ロビーの隅に設置されてある机に向かい合って座ると、促されるまま解説を始めた。


 正直、話すことは一番苦手とする分野だと胸を張って主張することが出来るので、ずっと不安で仕方なかった。


 何度もどもったし、あまり知らない人と一対一で向き合っているという現実を思い出しては頭の中が真っ白になり、しばらく声が出なくなるのも多々あった。その度に不快な気分を味わわせたのではという恐怖に押し潰されそうになった。だがそれは杞憂で、アイは一切気にする素振りを見せてこなかった。


 ただの一度も、穹に対して眉根を寄せることも、ため息を吐き出すこともしなかった。


 むしろアイはため息どころか、呼吸音さえろくに聞こえなかった。体全体から生じる音を、最小限に留めているようだった。表情の変化も、微塵も変わらない。面白そうに聞いている感じはしなかったが、退屈そうにもしていない。是とも非とも言わず、ただ黙って穹の話に耳を傾けている。


 ただいくら聞いてくれているといっても、この説明でいいのかなという葛藤は尽きることがない。


 最初はそんな風に、不安とやるせなさと情けなさが入り交じっていた。けれども何度か回数を重ねていくうち、わずかだがこの時間に心地よさを覚えるようになってきた。


 この頃、アイに自分のことを呼び捨てで呼ぶように頼んだ。アイはどんなときも、誰に対しても敬語を使い、敬称をつける。


 だが十三歳ということは、自分と同い年だ。そんな相手にさん付けで呼ばれると、なんとなく落ち着かない。アイが自分よりもずっと大人っぽく感じるから尚更だった。

 お願いしていいかな、と頼むと、アイは素直に了承してくれた。


 そうやってお互い敬称無しで名前を呼ぶようになった顔見知りに、自分の好きなものについて、自分なりの見解を述べていく。今までほとんどない経験だった。


 姉は読書家ではないので話を聞こうともしないだろうし、未來もあまり本のことについて話しているのを聞かないので語ることは憚られる。

クラーレとはまだそこまで打ち解けているわけではないし、ハルなら聞いてくれるだろうが、ハルの置かれている状況が状況なので、遠慮を感じてしまう。


 仲の良いこのメンバーでさえそう思うのに、まだ会って間もないアイに対してここまで気楽に話が出来ているのは、前代未聞の出来事だった。そもそも、同い年で異性の知り合いができることが、穹の中では大事件なのだ。


 同性でも何を話せば良いのか、対面した途端心の中が見えなくてパニックになるのに、異性などもっと未知数だ。


 そんな自分が今、アイと向き合っていても、思い切り息を吸えている。思い切り息を吐けていると。心の底から、思う。


 今思えば最初に会ったとき、明日の何時に会いましょう、と言われていたら、逆に穹は図書館に行かなかったかもしれない。もう一度会ってみたい、という単純な思いよりも、なぜ僕が、という不安感と不信感が勝っていたことだろう。


 聞かないでくれてありがとう、と理屈のわからないお礼を、何度心の中で述べたろうか。


 なぜ、こんなにもアイに対して心が楽になれるのか。やはり、“心を読む”という行為をあまりしていないからだろうか。


 率直に言って、アイは変わっていると思う。


 最初会った時に見せた笑顔一回のみで、あとはずっと真顔を崩さないなど、感情表現に非常に乏しく、言動も無機的なところには、否が応でも奇妙さを覚える。


 だが、むしろ無機的だからこそ、信じられる。全く自分を飾っていないのだから。媚びもせず、無機質な自分を偽らずに全てさらけ出している。


 アイには、美月とは違う、裏表の無さがあった。今見せている姿が、持っている心を全て見せている姿なのだ、漫然と信じてしまう。


「ソラ。急に固まって、いかがされましたか」


 感情のこもらない声をかけられ、穹ははっと我に返った。一度記憶を思い出すと、つい浸ってしまう。どれくらい時間が経ってしまったのかと壁掛け時計を見たが、長針は全くといっていいほど進んでいなかった。


 謝った後、定位置であるテーブルに、向かい合わせに着く。


 その日一日で一冊の本を解説することは、当然ながら出来なかった。一冊目を借りてから一週間以上経っているが、まだ半分も解説は終わっていない。

 週何回かの頻度とはいえ毎日会っているわけでもないし、新学期が始まったので夏休みの時と比べて滞在できる時間は目に見えて短くなる。おまけに自転車で来ているのだ。それに消える時間は、バスの時より遙かに多い。


 もう少し時間があれば。そんなことを思いながら浅く息を吐き出し、今日はここから、と栞を挟んであった場所から始めようとしたときだ。


「私に聞きたいことがお有りのようですね」

「え」声が強張った。図星ということが伝わってしまった。


「分析……。……当ててみましょうか?」


 アイが、ほんの少しだけ上目遣いになる。深い青色の目に覗き込まれ、穹はたじろぐしかなかった。何か答える前に、アイは上目から視線を元に戻していた。言いたいことがわかった、と話したげだった。


「なぜ私がいつも一人なのか、という事象について興味を抱いているのでは?」


 しんしんとした雪のように、言葉が降り積もっていく。唾を飲み込もうとしたが、口の中は乾ききっており、出来なかった。


「そんなこと」

「ソラは嘘が下手ですね」


 痛いところを突かれ、ぐうの音も出なかった。正直者は損をする世の中で、隠し事も嘘も、大の苦手な分野だ。


 この鋭い人は、と穹は目の前に座る少女を見る。アイが、図書館に別の誰かと来ているところを、見たことがない。


 アイは、自分に関する話を全くしない。家族のことも、友達のことも話さない。

一度も気にならなかったと言えば嘘になるが、自分から聞くことは躊躇われた。個人に関することについて、深く切り込むことはとても出来ない。

けれどアイといる時間が馴染めば馴染むほど、この疑問も無視できないほどの存在感を増してくる。


「私には、家族も友達もおりませんよ。だから、いつも一人なのです」


 天気の話みたいな、何でもないことのように言った。言葉を失った穹に対して、ああ、と思い出したように付け加えてきた。


「それによって辛さを覚えたことはないので、気遣う必要性は皆無ですよ」


 空元気を繕っているようにも見えなかった。本心からの台詞だからこそ、理解できなかった。


「どうして?」

「私が、もともとそういう風に出来ているからです」


 悩む素振りも見せず、すぐに答えてきた。既に用意されていた答えを読み上げたような速さだった。穹は顎に手を運んだ。


「そうか……。アイは、人間はもともと初めから一人って考えの持ち主なんだ。僕と同じ歳なのに、そんな深い所まで辿り着いているなんて……。凄いなあ、僕には思いつかないよ。僕も、そう考えれば良かったのかな」


 アイが、少し目を見開いて穹を見ていることに気づいて、慌てて口をつぐんだ。


「あっ、な、なんか、勝手に騒いじゃってごめん……」

「なぜ謝るのです? 私は不快な気持ちになっておりませんよ」

「そ、そうなの? でも、その、もし辛いことがあったら言ってね。僕なんかじゃ頼りないかもしれないけど……。話聞いてもらうだけでも、心が全然軽くなると思うから」


 演技だとしてもそうでないとしても、本人が気にしていないようなのなら、こちらが色々と気遣うのは失礼なのではないか。だが、今の態度も失礼だったかもしれない。早口で取り繕うように言ってしまうと、アイは音も無く首を振った。


「その必要はないです。断言できます」


 今の台詞は、ひょうに近いものがあった。固く、落ちた瞬間に音が転がりながら響いていくような言葉。

 それよりも、とアイは言った。雹に感じた言葉は、もうどこにもなくなっていた。


「なぜ今、話を聞いてもらうだけでも楽になれる、と言ったのですか?」

「あ、それは、僕がそうだからだよ。アイに話を聞いてもらうときって、とても心が楽になってるんだ。アイってさ、聞き上手って言われない?」


 日常生活の上で、穹のほうが聞き役に徹することが多いため、逆に回ることは本当に珍しかった。アイの聞き役ぶりを見ると、自分もこんな風にすればいいのか、と勉強になる。


「言われた経験は、過去を遡ったところゼロです」

「ええと、ごめん……」

「なぜ今謝ったのかわからないですが……。それは今は置いておいて、もう一つ。先程、僕もそう考えれば良かったのかなと仰いましたが、あれはどのような意図が含まれているのですか?」

「あ、あの、アイを貶す意味はこれっぽっちも無いからね!」

「はあ、前後の文脈からしてそれは承知してる事項ですが……」


 急ぐあまり少し吃音が入ってしまった。逆に嘘くさく感じてしまったろうか。また謝ろうとして、じっとアイがこちらを見ていることに気づいた。待たせている事実に、早く聞かれたことに答えるほうが先ではと思うことにした。


「僕は学校で、その、透明なんだよね」


 どこから話せば良いものか。迷った末に出てきた最初の台詞がそれだった。意外なほどにするりと言葉が出てきた。アイが穹の体を上から下まで眺めた。


「ソラは透明じゃありませんが」

「ご、ごめん、格好つけてものの例えをしちゃった。今の学校のクラスの人達皆、僕の姿が見えていないかもってことを言いたかったんだ。存在が誰にも認知されていないというか……。……う、うん、自分で言うのはなんか来るものがある……」


 事実を述べているだけにすぎないのに、心臓の辺りが締められるような感覚がした。


「大丈夫ですか」

「あ、ごめんね、平気だよ。こう、話しかけられたことは一度も無いし……。その、クラスでずっと一人で。中学に上がってから今まで」


 真実を伝えているだけなのだと言い聞かせていくうち、締め付けは取れていった。この痛みは錯覚だったと付け加えて言い聞かせると、本当にそうだったように思えてくる。アイに気を遣わせてしまわないように、ハルの淡々とした口調を思い出し、それを心がけながら話した。


「だからその頃、アイの言ったような考えを抱いていれば、少し心が楽になったかもしれないって、そう思ったんだ。……ちょっと、僕がいつも思ってること、言ってもいいかな」

「どうぞ」


 アイは気を遣ってこなかった。口にするのが一層楽になった。


「僕、人が何を考えてるかよくわからないんだ。心にどんなものを抱いているか、全然……。皆本音と建て前を凄く器用に使い分けてるのに、僕はその方法がわからないんだ。何が正解かわからなくて、だから気を遣っちゃう。……おかしいよね、当たり前に出来てることができないなんて」


 海底にいるような気分だった。これは言って良いのか、言わないほうが良いのか、そういう悩みとなる波が一切ない深海。だから、こんなにするすると言葉が出てくるのだ。


「お互いがお互いの心をよくわかってない中で長い時間一緒にいると、疲れてしまうよ」


 小説だと、人が何を思っているか、何を考えているのか、大体わかる。だが、読み取っている登場人物の心は、果たして本当なのだろうかとも思う。考察しても考察しても、その後ろに何かが隠れている気がしてならない。


 虚構の世界でもそうなのだ。現実の世界に応用できるなど、難しすぎる。

 この人は、こういうものが好きで、こういうものが嫌い。なんとなくわかっているつもりでも、真実に辿り着けているかどうかは永遠の謎だ。


 なるほど、とアイは無表情でまぶたを閉ざした。目を開けたあと、うーんとかすかに唸る。


「では、私と一緒にいる時間も、ソラは疲れているのですか? 私とソラはお互いを知り合ってからまだ短い時間しか経過しておらず、一緒にいた合計時間は親密になれる時間には達していませんが」

「いや違うよ! アイとは疲れないんだよ!」


 芝居がかって見えただろうが、ぶんぶんと大きくかぶりを振った。大袈裟に感じられても、本当のことだからだ。


 クラスの立ち位置も、それによって感じることも、今まで誰にも言ってこなかった。家族にも言わなかった。特に辛くはなかったので、言う必要はないと思っていたからだ。余計なことを話して、自分が時間泥棒になってしまうことのほうが苦しかった。祖父も、父も、母も、姉も、全て大好きで大切だからこそ、言えない。

 家族にすら言わなかったことを、アイに話した。


 まだ知り合って間もないから。抽象的だが確実な、信頼できるという空気を纏っているから。

 両方が備わっていたからこそ、ここまで話すことができたんだろう。


 アイが、「お話しして下さりありがとうございました」と頭を下げてきた。ならって穹も頭を垂れる。

 頭を上げた後で、彼女はこちらを見つめてきた。穹の目ではなく、心臓の辺りを。


「心とは複雑なものですね。果たしてここまで複雑である必要はあるのでしょうか。疑問です」

「あはは、そうだね。確かに複雑すぎかも。僕は不器用だからね……すっかり心に振り回されちゃってるよ。もうちょっと単純でわかりやすいものだったら良かったかもしれない」


 大真面目に言ってきたものだから、つい穹は苦笑してしまった。確かに心は難しく、厄介なものだ。使いこなせている感覚が全く無い。


「はい。そうでしょうとも」


 アイが神妙に頷いた。


「心は、厄介なものですよ」

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