phase5「未來、初戦闘!」
異様な空気が、そこにだけ漂い、満ちていた。ピリピリとした緊張、とはまた種類が違うように見える。そこには目に見える不穏もなければ恐怖もなかった。
けれども。透明な何かが、ある。その何かが、場をこのような空気にさせている。
静寂。その場を包んでいるのはそれだけ。だが中心に、糸のようなものが張られている気がするのだ。その糸こそが、何かの正体だ。
美月は倒れたまま動けない穹に肩を貸し、未來とマーズから距離をとっていた。
何メートルか離れて向き合うマーズと未來は、剣をお互いに向けたまま、お互いしか見ていない。事実移動した際も、二人はなんの反応も見せなかった。こちらを見ることも、音にほんの少しの反応を見せることさえも。
未來が、今どれだけ集中しているか、風に流れて皮膚に伝わってくるようだった。
未來は微動どころか瞬き一つもろくにしていない。刀を体の中心で構え、その切っ先は、マーズの喉元に向いている。
切っ先の狙う箇所を見た美月は、汗も血の気も一瞬で引いた。
風が吹いた。ざわざわざわと、山の木々が葉を鳴らした。長い音だった。
さながら戦いを始める合図の、法螺貝の音色のように、丘に響き渡った。ふもとの町にまで届いたのではと感じるほど、大きな音だった。
葉音が、やんだ。同時に、張られていた糸が、切れた。
マーズが動いた。
短い真っ赤な髪をなびかせて、一気に踏み込んできた。
未來との距離が詰まる。
右手に握りしめられているのは、業火を連想させる赤い剣。
その炎を、後ろに振りかぶり。
一気に、前方に振り下ろした。
その剣は、何も無い空間を切っていた。
マーズの目が、見開いたのが見えた。
美月も動揺していた。
何が起きたのか理解できなかった。確かに、さっきまで未來の姿はそこにいた。刀を構えて、立っていた。なのに、消えた。消えたというほか無かった。
マーズが振り向いた。目線の先を見るやいなや、ガンッという鈍い音が響いた。
そこには、未來がいた。ジャンプでもした体勢のまま。その体は宙に浮いていた。
未來の刃と、咄嗟に構えたマーズの両手剣の刃が、ぶつかり合っていた。
マーズが剣を振り、刀ごと未來を払った。
その際の衝撃波が、かなり距離を置いているこちらにまで届いた。
あんなのをまともに食らったら、ひとたまりもない。
美月は未來の姿を探した。
未來の姿はなかった。
なぎ払われてしまったのか。だとしたら、どこに……?
その答えは、すぐに出た。
未來は空にいた。くるくると体を縮こませ、回転する姿が目に映った。
マーズから離れた地上に着地する。と同時に、またジャンプして、少しだけ距離を詰める。
未來は刀を真っ直ぐにし、自分の顔の横で構えた。
「素早いな、あんた。あたいが最も苦手とする相手だよ」
マーズは吐き捨てるように言った。
美月は敵の言葉に頷きそうになった。
未來は、恐ろしく素早い。美月も穹も、変身をすると、機動力や素早さが大きく向上する。だが未來は、それを遙かに凌駕しているのだ。
さながら瞬間移動のようだ。未來が移動している様子を、全く目で追えない。
「でも、あんた。そっちの二人と違って……。力も防御も、今ひとつ足りてないね」
マーズが美月達のほうに顎をやる。時間にして一秒にも満たなかっただろう。だが確かにその瞬間、マーズの意識は未來ではなく、こちらに向いた。
未來は見逃さなかった。刀を真っ直ぐに構え直し、次の瞬間には、マーズの間合いに入っていた。
「女のほうは、攻撃力は高いが防御力が低い」
右上から左下。左下から右上へと、刃が走る。
「男のほうは、逆に防御力が高く攻撃力が低い」
先程繰り出した動きを繰り返し、最後は一気に、横一直線に斬り、刀が光る。
「そして、あんたは素早さが恐ろしく高い」
一旦飛び退き、距離をとる。一息つく間も無く、また疾風のように走り抜け、十の字を書くように斬りかかる。
「だが……そのせいかい?」
未來の繰り広げる攻撃は、どれも素早さという点では凄まじいものだった。美月は瞬きも忘れて見てしまっていたが、それでも全く目で追えない。
瞬きをしていると、その間に繰り出す技が変わっている。技を出している時など、刀の刃が全く見えなくなり、それこそ透明になってしまったのではないかというほどだ。
しかし。
「力も防御も、あの二人には劣る。力は男のほうよりも。防御は女のほうよりも、だ!」
未來の攻撃は、どれも素早かった。目にも止まらなかった。でもそのことごとくを、マーズは両手剣をほとんど動かさずに、防いでいた。
未來はマーズを斬りたいというより、マーズの武器を弾き落としたいと思っているようだ。
不意を突かれて、マーズが剣を落とす。そういう展開を狙っているらしかった。
だがこれでは、そんな展開は起きないどころか……。
「つまり。一撃当てれば、それで終わりということ!」
マーズが動いた。剣を突き、切り上げ、そして大きな動作で、振り払った。
全て、未來に向けられていた。
突きは避けたが、大きく後退させられる。切り上げも避けたが、体が転倒した。
そして最後の攻撃は、避けられなかった。
さっきはかわした衝撃波がもろに当たり、吹き飛ばされた。
体が地面に当たる音、次いで転がる音が聞こえてくる。その姿が、見える。
美月は、考えるよりも前に立ち上がっていた。その腕を、下から何かが掴んできた。穹の手だった。むくりと上半身を起こしながら、首を振る。
美月は首を振り返した。困ったような顔を浮かべる穹の体は、だいぶ回復したように見える。
穹を連れて、今一緒に逃げるのがもっとも正しい。けれど美月は、未來を置いて逃げることなど、どんなに厳しく命令されても出来そうになかった。
なんとか未來を助けて、マーズから振り切ることはできないだろうか。
そう考えを巡らせ始めたときだった。
穹が大きく目を見張り、背後を指さした。
振り向き、その方向を見る。途端に美月の目も、同じように、丸くなった。
「ああ」
普段とは想像もつかない、たんたんとした声。同一人物だと説明しても絶対信じてもらえないだろうし、聞いている美月でも、信じられない声。
「だからか。なんか攻撃が通ってる感じがしないのは」
ふらふらと。よろよろと。
おぼつかない足取りで、未來はマーズの元に歩いていっていた。予想以上にダメージを受けているようだ。痛みに顔を歪ませながら、その口から発せられる声は、水面のような静けさを纏っている。
「でも、失敗だったね」
いや。水面ではないのかもしれない。
「おかげさまで、自分の立ち回りがわかったよ」
むしろ。炎なのかもしれない。静かに、音も立てずに。けれども、激しく燃える、炎。
ぼんやりと光る刀。その赤い光が、全てを物語っている。
その光が、一つの筋だけ残して、消えた。
未來の体躯も、消えた。
そこには、わずかに渦を巻く風しか、残っていなかった。
「ま、また消えた」
美月は頭をぐるぐると回した。
右を見て、左を見て、後ろを見て、前を見る。しかしそのどこにも、未來と思しき人物の姿は見当たらない。
「あっ……!」
穹が、上の方向を指さした。美月は急いで指の先を辿った。
そこには、探していたその人物。未來がいた。
曇天の空を背後に構え、刀は刃先を真っ直ぐにマーズに構え。
遅れてマーズが未來を視界に捉えた。両者の視線がかち合った瞬間、未來が先に動いた。
その身が、急激な速度で落下を始めた。
赤いジャケットや、赤く光る刀も合わさって、その姿はまるで火山弾のようだった。
そのままいけば、勝つ。だがそう甘い展開は起きない。未來との距離がすれすれのところになって、マーズが剣を構え、防御した。
赤い刀と、赤い剣が、ぶつかる。
鈍くて、でも鋭かった。この戦闘中、一番大きな音だった。
マーズがなぎ払おうと体勢を変えた時、既に未來は再びの上空にいた。だが逃げたわけではないことは明白だった。再度刀を構え、落下を始める。
がぎぃんと、がぁんと、何度も何度も、刃物同士のぶつかり合う大きな音が、丘に鳴り響く。
未來は上空に陣取り、落下と同時に攻撃を仕掛け続けている。
対してマーズは防戦一方だった。防いでも防いでも、未來はどんどん次の攻撃をしてくる。
相手を削れてはいないが、こちらも相手の攻撃を受けていない。
このままいけば、いずれ向こうの体力が尽きるとはいかなくても、疲労で隙を見せるかもしれない。
美月は拳を握りしめた。黄色いグローブの中が、手汗ですっかり濡れていた。
「ええいっ!」
未來が空にジャンプした時だった。痺れを切らしたのか。マーズが同じように、跳び上がったのだ。
未來の瞳が、マーズの姿を追って、下から真ん中に移動する。
常に相手を下に捉える位置にいた未來の前に、その相手が立つ。
二人は今、同じ目線にいた。
マーズの目が、かっと開いた。同時に、剣を水平にした。押し出すようにして、一気に突く。
突いたその先に、未來はいなかった。
上。ではなく、下にいた。だんっ、と地面に着地していた。
その後ろ姿目掛けて、マーズも急降下した。
くる、と振り向いた未來の顔が、マーズを見る。
そのマーズの剣が突き刺していたのは、地面だった。深々と、刃が土の中に埋め込まれている。
軽く舌打ちをし、引き抜こうとしたマーズの頭の先が、小さな風に吹かれた。それは自然的に生み出されたものではなく、人為的なものだった。
未來の持つ刀が、マーズの持つ髪の先を斬っていた。短い真っ赤な髪が数本、宙を舞ってどこかに飛んでいった。
髪先が斬られた時に吹いた風。その方角に、マーズの注意が向く。地面から引き抜いた剣を構え、先程のように防御の態勢をとる。
だがそこに、未来の姿はなかった。地面にも、上空にも。
ヒュッ、と、別の方向から小さな風が吹いた。
マーズが向いているほうとは、反対の方向からだった。
彼女が振り向いたとき、既にそこには誰も、何もいなかった。
だが美月は見ていた。
未來が、マーズの服の裾のみを、器用に切り落としたところを。
マーズが後ろを向いた。未來も、ちょうどそこにいた。
今まさに、刀を振る直前のような体勢だった。
その刀を、マーズの剣が咄嗟に防ぐ。
攻撃に転じようとした時には、そこに未來はいなかった。
直感が働いたのか。マーズの顔が上を向いた。
未來が降ってくるところだった。再びの火山弾だった。
間一髪、すれすれのところで、未來の刀をマーズの剣が受け止める。
上からの攻撃を凌いだが、反撃に転じようとしたところで、また未來が消えた。
いつの間にか、後ろに回り込んでいた。
それを防ぐ。また消える。今度は右に出現する。防ぐ。また消える。
もはや、誰の目から見ても、未來という子は、瞬間移動をしているとしか思えなかった。
だが、もちろん違う。美月はかろうじて、未來がジャンプと走りを合わせながら移動しているのを、目で確認していた。
それでも、ちらちらと残像が見えるだけで、移動している姿が見えているわけではない。
マーズの背後に現れたかと思ったら、今度は左に。かと思えば右下から。そちらに意識が向いたらまた上に。
未來は、ぐるぐると縦横無尽に、マーズの周りを跳び回っていた。
そんなに動こうものなら疲れもそろそろ出てきて良いはずなのに、その速度は収まることを知らない。それどころか、どんどん上がってきているように見える。
まるで、竜巻だった。渦巻きどころではない。短い赤い閃光が、くるくるとマーズの周りを回転し、走る。それはまさしく、未來の持つ刀の光だった。
その竜巻のど真ん中にいるマーズは、徐々に疲れが出始めているように見えた。
本人は隠しているつもりなのかもしれない。だが傍観者という立場である美月と穹からしてみれば、一目瞭然だ。彼女の呼吸が、乱れてきているのだ。注意も最初と比べるとだいぶ散漫になっている。
竜巻に攻撃できないマーズは、防戦一方を強いられていた。それでも、その防御は、軒並みちゃんと出来ている。
いかにダークマターという組織が、セプテット・スターという集団が。美月達を凌駕する力を持っているのかが、嫌でもわかる。
未來の攻撃一つ一つを全てふさぎ、隙を見せる気配はない。
どうするのだろうかと、美月は不安げな目を未來に送った。
今は圧倒的有利だが、このままでは未來のほうが、疲れが溜まり、隙を見せてしまうかもしれない。
そんな心の中の問いと視線に応える余裕が、今の未來にないことはわかっているが……。
と思った次の瞬間。
ばっと、未來が、美月の顔を見た。
目と目がぱっちりと合う。
未來は、笑った。にっこりと。そして、頷いたのだ。
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