ステュクス 生きることへの嫌悪の果てに

5-1

 黒江が武蔵南部と相模の支配者になっても、することがなくなったわけではない。かえって忙しくなったくらいだ。アンドロイドを率いて官僚や政治家、資本家たちに顔を見せる日々が続いた。彼らは驚くほどタカマガハラ族の敗退から影響を受けておらず、首がすげかえられたとしか認識していないみたいだった。

 事実、黒江は相手の鈍感さに合わせたように、学校や議会などの公的な場での祈りの撤廃を除いては、宗教にはほとんど手を付けなかった。寺社もそのままにして置かれたし、戦いのさなかに破壊されたものの修復もされた。ただ、タカマガハラ族のしてきたような混交宗教的なものではなく、より伝統的な様式に従っていた。つまり、キリスト教やイスラム教、仏教や神道などの違いがきちんと区別されるようになった。この点では、タルタロスのアーカイブが役立った。もっとも、人々は何も気にすることなく、深く考えないまま礼拝を続けていた。

 霧島はそれに不満そうであり、すべて打ち壊してほしそうな顔をしていたが、それについては黙っていた。彼も過激な行為は反発を生むと知っているみたいだった。それに、何百年も生きてきた少女の方針に反対するだけの根拠が彼にはなかった。

 だが、黒江は何でも自分の考えを押し通したわけではない。ほとんどの場合、修や霧島に意見を求めた。特に修には積極的に意見を出させた。

「僕は機人の搭乗者に過ぎないのに、どうして僕に尋ねるんだ」

「いつ私が倒れても大丈夫なように」

「縁起でもない」

 修が反論しても、彼女は続けた。

「修には知識と交渉のスキルを身につけてほしい。加えて、政権の運営は私の独裁であってほしくない。せめて寡頭制であってほしい、修はまだ交渉についてくるだけだけれど、いずれ相手と対等に渡り合ってほしい」

彼女がいなくなる可能性など考えたくもなかったし、数百年を生きながらえた黒江なら大丈夫だろうと思えたが、その点では彼女はしつこいくらいだった。

 ところで、修は執務の間に、手に入れた権限で姉の記録を探った。誰が姉の死刑を執行したのかを知ろうとしたのだ。報復をしようとしたわけではない、ただ、調べずにはいられなかった。

 だが、調べたところ発射シークエンスには複数の人間がかかわっており、処刑だからか誰が最終決定をしたのか記録が残っていなかった。

修はため息をつき、首を横に振る。そういうものなのかもしれない。それに、仮に犯人を見つけたとしても、どうすればいいのか自分でもわかっていなかった。同じ目に合わせれば満足するのか。違う、と直感する。個人の恨みではなく、より高い裁きを求めているのだ。高間原族との戦いは終わっていない。それは続けられなければならない。だが、さすがに調べた当日は執務に身が入らなかった。

 別の日には、諸隈の流罪を解こうとした。せめて姉の思い出を語れる誰かがほしかった。だが、西域の情報にアクセスしても、諸隈は失踪した、としか記録が残されていなかった。なるほど、辺境の荒くれ男たちの間ではつまらない喧嘩で命を落とすものは多いから、書類には短くそう記されるのが常だった。諸隈もいなくなってしまった。たとえ生きていたとしても、西域の山の中に入った彼とは二度と会うことはないだろう。昔の修を知っている者は、すっかり失われてしまった。黒江のそばにいることで、かろうじて支えられている。それは彼女も同じらしかった。

 タルタロスのあちこちにある清潔なベッドや人影のない廊下でなら、全面的に黒江から頼られ、甘えてもらえる。彼女の本当の年齢についての話も、ちょっとした冗談なのだというふりをすることができる。どこも変わったところのない女の子、聡明でかわいい自分だけの恋人、初めての彼女だと錯覚できる。他愛のないことをして彼女を味わい、眺め、そして嗅ぐ。そこには、多摩川以南を支配する最高権力者の姿はなかった。

 本心を隠すことをやめ、歯止めを失った黒江と修はまるで学生の恋のように恋に溺れていた。信じられない偶然で一日の予定が空いたときなど、二人とも部屋から出なかった。雰囲気が壊れるからとアンドロイドに食事を運ばせることもせず、冷蔵庫にあった飲み物と茶菓子を口にする以外は、時折走る鋭い痛みにもかかわらず、ずっと抱き合っていた。ある意味では、世界そのものを抱きとめているみたいだった。たった一人に集中した絶大な権力。それが修の前で、裸の感情をむき出しにしている。そこでは機人の戦いの痛みさえ、一つの刺激に過ぎない。痛みがどれほど激しいものであっても、彼女を抱きとめている間には、生きている実感だとしか思えなかった。それは戦いで傷ついても、立ち向かう限り耐えられるのに似ていた。

 それでも、一日の最後には、彼女は厳しい顔を取り戻している。まるで宿題をしないまま放課後にずっと遊んでいたときみたいだった。やらないといけないことは残っている。彼女は髪を後ろで結び、肩をむき出しにしたまま語る。

「私たちの戦いは終わったわけではない。タカマガハラ族はいずれまた機神を建造して抵抗してくる。それまでに私たちは種をまかないといけない。私たちの世界は何世代にもわたって誤った考えを吹き込まれてきた。それを正すのには時間がかかる。当分はそれで忙しい」

 背中には髪の毛がかかり、まだ乾かない汗が浮いている。彼女は無意識にそこに手をやりながら続ける。

「それから、私たちの支配している地方ばかりではなく、多摩川以北に住んでいる人たちにも、タカマガハラ族の支配体制は間違っているという考えを少しずつ広めていく必要もある。ネットやラジオなど、様々な手段を総動員しないといけない。幸い、都内のいくつかのテレビ局は接収することに成功したから、そこの人員も利用できる。

いずれは科学技術を復興させ、自力で機人を作り出せるだけの技術者を養成しないといけない。次の世代を育てるために、タカマガハラ族の教えからの影響が最小限の教師たちも。修、私たちがしなければいけないことはたくさんある。何十年もかかる仕事で、とても私たちだけでは成し遂げられない。信頼できる人間を一刻も早く増やさないといけない」

 そして、黒江は修の方を向き、体を見下ろした。まだ頼りなく子供らしさが残っているのに、その所作には隙がない。こうして話をする彼女は、たとえ何も身にまとっていなくても威厳がある。

「同時に、私が何百年も生きながらえてきた秘密は、時が来るまで隠しておいたほうがいい。人間がいつまでも生きられると知ったら、絶対に社会に混乱が引き起こされるから」

「だろうな」

 修だってまだ混乱している。ずっと年上の彼女だってことは、意識しないようにしている。

「今、私が考えているのは、機人を市民のものだと知ってもらうこと。そのためには、支配領域全体をパレードするのが最適だと考えている」

「機人の姿のまま歩くってことか」

「いいえ。それだとBMIを使う時間が五分を超過して修の健康を損なう。そうではなく、何台かの車両で牽引する。修は最前列の車に座ってくれればいい。……修は、虚偽の支配を打ち破った偉大な軍人なのだから」

 だが、こうして彼女のそばに横になったまま、頼りない身体を見ていると、まだほんの少年に過ぎないのに、と思われる。機人のおかげでただの学生にすぎなかった彼が、人々にあがめられている。だが、自分の体を見つめても風呂に入るときの姿だとしか思えない。無防備で傷つきやすく、やわらかだ。政治家や官僚のところに出向くときのように、軍服を着ればもっと強く見えるだろうか。

「賛成してくれる?」

「ああ」

「よかった。じゃあ、私は準備に行ってくるから」

 黒江はあっという間に衣服を身につけていく。彼女の下着の身につけ方の癖も覚えてしまったけれど、目を離せない。彼女はあっという間にスーツに着替えて修を置いていく。一人残された修は、もうひと眠りしようとする。

 何をするのが正しいのかわからない。腕に抱きとめているときはそれでいいと思うけれど、離れてしまえば疑いが常に芽生える。だから、本当はずっと彼女のそばにいたかった。


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