3-2
だが、後ろに気配を感じたので、深呼吸をして自分を押しとどめる。ほたるだった。
「大丈夫、その傷?」
声をかけてくれたのは、修が傷の痛みで震えているように見えたからだろうか。部屋の鏡には、首から背中にかけて少し赤くなっているのが映っている。
ほたるに答えようとしたが、和田の言葉のせいで素直に返事ができない。ほたるはただのクラス委員で、義務感以外の感情から話しかけてくれる性格のいい女の子、それだけだ。それに、彼女の親切をいちいち意識していたら、学年全員がほたるのことを好きになってしまう。それとも、大きな瞳をした彼女には、修自身もあずかり知らぬ本音を見抜かれてしまうのだろうか。
とはいえ、彼女の声が、頭に血がのぼっていた修を鎮めてくれたのも本当だった。修は振り返る。静かに、秘め事でもないのに声を潜める。
「平気、見た目ほど痛そうじゃないから」
「でも」
「狭い部屋だし、一日中こもってたら気分がふさいでくるから、最近は外を走ってる。そのときに転んで擦りむいたんだ。雨上がりで滑りやすくて」
「そう。頭は打たなかった?」
「おかげさまで」
「……でも、腕に水膨れができてるけど。これはどうしたの?」
「それは料理してたら油が飛んだんだ」
苦しい言い訳だと思う。彼女は少しだけ疑わしそうに応じる。
「……気をつけなきゃ」
「うん」
彼女が、修の説明を信じるべきかどうか迷っているのが感じられる。偶然こんな傷跡ができるとは考えにくい。とはいえ、寮の中でこんなけがを負うような深刻なトラブルがあった気配もなく、ほたるは和田と同じように修の説明を信じるしかなかった。
「それにしても、庵地君って自炊するの? 寮には食堂があるのに。えらいんだね」
「卒業したらここを出ていかないといけないし。慣れておきたいんだ」
「そっか」
出ていきさえすれば、誰からも干渉されない。極端な話、仕事をしなくてもしばらくは怪しまれない。もっとも、あまりにも無職の時間が長いとタカマガハラ族からカウンセラーが派遣されてしまうのだが。
修はその話題を終えようと、女子寮の抜き打ち検査は終わったのか尋ねる。ほたるはうなずく。
「不愉快じゃない?」
「まあ、しょうがないよ。一応女の人が見るし」
それに、まじめそうな彼女のことだ、隠すべきものなどなかったのだろう。
彼女は少し修に近づいた。何か言いだそうとしている。いつになく落ち着きがない。
「ところで、相談なんだけれど……」
「うん?」
「今度、一緒にお茶しませんか?」
いきなり丁寧語になったので何事かと戸惑う。ほたるの目が潤んでいる。悲しそうなのではないが、頬が赤くなっている。
修は、和田の言葉が現実になったのかと思い焦る。冷や汗をかきながら、どうして、と問う。
「庵地君に相談したいことがあるから。頼りになりそうだし」
「頼りになりそう?」
「ほら、自炊してるし。それに、口が堅そうだし」
それは単に人と話さないだけではないのか。
「それに、先生からひどいこと言われても怒らないくらい冷静だし。かっこよかったよ」
それから失言をしてしまったか、とほたるは焦る。だが、修は構わない、という顔をする。恩もあることだし役に立ちたい。それにほたるになら、聖蓮についても話せそうな気がするくらいだ。
だが、疑問にも思う。
「今じゃだめなのかな」
「女子が長いこと男子の部屋に入り浸っているのもどうかと思うし」
「それなりに時間がかかる相談事なんだ」
「うん」
修は正直なところ戸惑っていた。だが、断る理由もない。悩んでいる人がいれば、姉ならいつでも手を差し伸べていた。
「わかった、いつがいい?」
彼女は端末を起動して予定を告げる。
「明日、日曜日はどう?」
「その日は……ちょっと」
「だめ?」
その日は諸隈と食事をすることになっていた。積もる話もあることだろう。だが、彼女の真剣な顔を見ていると、何とかしてあげたくなる。
「都合をつけてみる」
「ありがとう」
ほたるは礼を述べると、部屋に戻っていった。
予定を確認すると、諸隈からすぐに返事が戻ってくる。どのみち諸隈も昼頃までしか時間がないとのことだった。その旨をほたるに送る。
それから修はタルタロスに出かける準備をする。本を読み終えたのでそれも鞄に入れる。改めてページをめくってみると、巻末には海原、と押印されている。
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