2-9

 シーシュポスから吐き出されるときも、体が潰されそうになる。狭い産道から押し出されるような感触がした。全身が締め付けられ、骨がぎしぎしと音を立てている。

 いつの間にかスーツの中がべとついた液体で満たされていた。ヘルメットを外すと、鼻や口から際限なく流れる。何度もむせながらその液体を吐いた。潤滑油のようにぬるぬるしていて転びそうになる。なんだか両生類になったみたいだ。黒江は物おじすることなく、こちらに近づいてきてくれる。

「……お疲れ様」

 ハグこそしてくれないものの、修の粘ついた頭に手を載せて撫でてくれる。黒江が少し背伸びをする格好になる。こうしてくれるということは、無害らしい。修はどうしたらいいのかわからないので、黒江が楽になるように心持ちしゃがむ。隣で霧島は一歩離れている。

「いや、素晴らしいよ。そんな余裕なんてないと思っていたのに、機神からパーツを持ってきてくれるなんて」

 機人のほうを見やると、先ほど機神から引き抜いた砲身が握られている。さっきまで握っていたものだとは思えないほど巨大だ。だが、修はそれほど誇らしげな気分にならない。先ほど、体が勝手に動く不快な状態に追いやったのはこの男だ。精神と肉体がばらばらになる経験。そしてシーシュポスを自動操縦させようとしたということは、機人を動かすのが下手だと判断したようなものだ。

「ありがとうございます。でも、二度とあんな目には合わせないでください」

 そう言ってからまたむせこみ、脇に吐き出す。わかったよ、と霧島は笑っている。だが、そんなことよりもこの液体の正体が知りたい。味もしないし、においもない。けれども、それはミネラルを一切含まない水のように違和感がある。黒江は優しく言い聞かせるみたいに教える。

「ごめんなさい。説明していなかったけれど、修は機人の中である種の液体に浸かっている。それは修を保護するためのもので、それを通じて呼吸もできるし、緩衝材の役割も果たしている。それに、これによってヘルメットと脳をつないでいる」

「そうか」

「BMIは、他に頭髪をそり上げたり、頭蓋に針を無数に差し込んだりする方法もあったけれど、この国ではこれが採用されてた。非侵襲的で特別な施術は必要なかったから」

 ありがたい。そう思って見上げるとシーシュポスは口元からその液体を滴らせている。思わず顔をしかめた。

「僕は吐き出されたわけか」

「安心して。これは嘔吐とはまったく別の現象だから。機人には人間にはない嚢があって、そこに修がおさまる。それはちょうど、アリやハチが仲間に食料を分け与えるために、胃とは別の器官を持っているのと同じ」

 そう言って指についた分をなめとった。修はそのしぐさに少々ぎょっとする。

「ほらね」

「……シャワーを浴びたいな」

 彼女の行為をごまかすように口にして、もう一度こみあげてきたものを横に吐き出す。黒江は嫌悪の情を示さず、しかしそっけなく告げる。

「どうぞ。そこに仮設のシャワー室があるから」

「ちゃんとしたのはないのか」

「あるけれど、そこまで行くのにべたべたのままじゃ嫌でしょ」

 修は諦めてスーツを緩めた。胸元で糸をひいているのが見えた。脱衣所まで行ってそっと外すと、隙間という隙間にしみこんでいた。急いで栓をひねり、手で温度を確かめてから全身で湯を受けた。

 湯の勢いには何の問題もなかったが、全身の軽い火傷のせいで、思わず声が漏れる。あとで薬をもらおう、と思う。粘ついているものは石鹸で二三度こすってもまだうっすらと残っている気がした。まるで、床に油をこぼしてしまった後で必死になって拭いているみたいだ。なかなか落ちない整髪料にも似ている。体中の毛の隙間に入りこんでいる。でも、肌が痛いのでタオルで強くこすれない。手で撫でているだけだ。

「少し聞きたいんだけれど」

 シャワー室は仮設なので覆いで隠れるのは首から下だけだった。そのまま彼女と会話ができるのは便利だったが、妙な気分だった。水音の中で、黒江は平然と振る舞おうとしている。それでも、修の顔を見ながら話をするべきか迷っているようだった。

「もしもシーシュポスが自律的に行動できるのなら、僕が乗らなくてもいいんじゃないのか」

 黒江は疑わしげに尋ねる。

「戦いたくないの?」

 修は首を横に振る。正しいことをしているのだから、何を恐れる必要があるのかわからなかった。逆に、争うことがこれほどまでに楽しいことだとは思ってもいなかった。怒りを好きなだけ表現しても誰からも非難されないのだから。

「機人には組織化されていない神経の塊しかない。修の脳に依存して、初めて動くことができる。つまり、単独で行動することはできない。多少の感情らしいものは認められるけれど、昆虫とほぼ同水準」

「本当に?」

「私の知る限りでは。それに、機人はいずれにせよ搭乗者が必要。あれは、修の頭の中にあったとんぼ返りや格闘技のイメージを乗っ取って動いただけ。……でも、もうやらないように私からも釘をさしておく」

 霧島は苦笑いをしている。修はうなずく。

「ありがとう」

 彼女との話が終わると、修はもう肌に粘り気を感じることはなかった。

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