2-8
「それはやめて」
黒江がいつになく冷静さを欠いた声をあげる。だが、霧島は続ける。
「このままだとシーシュポスは失われる。そうすれば機神によってタルタロスは直上から攻撃を受けるよ。シーシュポスが地面から現れた位置から、僕らは渋谷近辺にいることが明らかなのだから。そんな状況に追い込まれれば僕らは終わりだ」
黒江は答えることができない。それを同意と受け取ったのか、霧島は続ける。
「搭乗者との神経接続を一時的に切断」
「了解」
「シーシュポス、神経塊に疑似自我を走らせます」
「了解。イドから自我および超自我を生成」
「ペルソナ、安定しています」
「神経塊の負荷、許容値の八十七パーセント」
再びミサイルが打ち出される。その瞬間、全身の皮膚を冷たい感触が覆う。まるで、魂が身体とずれて押し出されるようだ。なんだこれは、と修は口にしようとする。だがその言葉は機人の唇の上で形にならない。自分の意識したとおりに機人を動かすことができない。機人は勝手に動き、巧みに銃弾を避けていく。自分の身体が勝手に動かされているようだった。あるいは、そんなものが実在するとしてのことだが、悪霊に取りつかれて意に反することをさせられているようだ。とても頼りなく、自分が消失してしまったみたいだった。気分が悪い。
機人はとんぼ返りを繰り返してミサイルを避け、神泉、松濤へと進む。それは旋回しながら踊っているように無駄がない。機神もゆとりをなくしたのか、様々なものを下敷きにしながらまっすぐシーシュポスに向かってくる。全身のうねりは激しくなり、蛇行しながらあらゆる建物を打ち砕いて進む。
爆発の中、シーシュポスは駒場を背にして東に反転、機神に向かって突進、その頭を蹴り上げる。機神の長い首はうねり、ミサイルの軌道は乱れる。勝機が見えたのだろうか。それでも、修はそれを傍観することしかできない。機神の反撃、その筋肉の塊のような尾で跳ね返され、大学と実験棟を下敷きにし、薬品をまき散らす。煙の中、機人は再び立ち上がり飛びかかる。
体が勝手に動くのを止められないばかりか、自分の意識の中に異質なものがくさびのように打ち込まれている。とぎれとぎれのヴィジョンが挿入される。それは脈絡を欠いていて、あたかもページが入れ替わってしまった書物のようだった。それぞれの部分は理解できるものの、全体を通して読むと前後が入れ替わっており、文章はつながらずまとまらない。様々な感情、怒りや憎しみだけではなく、いつくしむ思いや懐かしさが、入り乱れて頭の中にねじ込まれる。しかもそれは、自分に属するものではない。他人の思考が無理やり詰め込まれる。それは懐かしく甘い。まるで聖蓮のように。
やめてくれ。こんなのは嫌だ。自分の意志で姉の復讐ができないのなら、今すぐにやめてしまいたい。こんなことでは僕が乗っている意味がない。機人だけで機神と戦えばいいじゃないか。僕が乗らなければシーシュポスが起動しないだなんて嘘じゃないか。
それは怒りだった。己のふがいなさと、意味もなくシーシュポスの中にいることへの憤りだ。修は思わず絶命しそうな声をあげる。そして、ほんのわずか機人の喉も震えた。
「シーシュポス、黄胆汁過剰。胆汁質に移行します」
「コントロール不能。神経塊への過負荷。許容値をオーバー」
「搭乗者、機人からコントロールを奪っていきます」
「シーシュポスの疑似自我、消失」
霧島は思わず声を漏らす。
「馬鹿な。シーシュポスから自我を取り戻すとは」
「それだけ彼の怒りが強かった、本物だったってこと」
黒江はどこかうれしそうに言う。
「しかし、これだと痛覚のマスキングが機能しなくなる」
その言葉の通り、全身に激しい痛みが戻ってくる。だが、これでいいのだと思う。これでこそ自分は肉体を持って生きているのだと信じられる。この痛みは、修を駆動する。シーシュポスの声は辺りにとどろき、それは新宿や下北沢にまでとどろいた。
黒江の励ます声が聞こえる。
「修、機人はやはりあなたのもの。好きなように戦って見せて」
「機人、活動時間、残り二分三十秒」
「体液の漏出、深刻です」
修はうなずき、全身を翻し、北東へ反転する。次々に打ち出されるものをひたすら避ける。おおよそ代々木公園方面。背には数えきれない爆発が続く。
「逃げているだけじゃないか」
霧島が叫ぶ。時計を見つめて汗を垂らしている。黒江は画面を指す。
「いいえ、見て」
気づけば機神は攻撃をやめている。
両脇の弾倉からは煙がむなしく漂っていた。
「なるほど、弾切れを狙っていたか」
巨体とはいえ、体内に収納できるミサイルの数には限りがある。
「よし、このままやつをとらえてしまえ。サンプルを入手したあとは、機神と機人の違いを徹底的に解剖する」
だが、機神は思慮の足りなさを軽蔑する顔をした。そして、威嚇するかのように口を開くと、そこから鮮やかなビームを放った。その光線は苛烈であり、周囲数百メートルを溶断した。辺りは煙で覆われ、熱で焼けただれ、数えきれない物が失われる。駒場の公園の樹々が炭となったのが見える。周囲を火災が取り巻く。アスファルトが溶け、ガラスが液体になり、岩盤が溶岩となる。
霧島が言葉を失っているうちに、シーシュポスも撃たれる。修は背と腹を貫く痛みで絶叫するが、それでも走り続ける。
「肝臓損傷!」
「黄胆汁値に異常発生!」
火災で足の裏が焼ける。たちまち水膨れとなり、それが破裂し、傷跡となる。黒江のあげた悲鳴に構わず、シーシュポスは北上する。そして、緑地に足を踏み入れた。足元には代々木公園が広がっている。修は機神の第二位格と正面から対峙。機神は肩で息をするみたいにじっととどまっている。
「なるほどね」
「どうしたの、霧島さん」
「彼の考えがわかったよ。なるほど、タカマガハラ族からしてみればここで攻撃を仕掛けにくいだろうね」
黒江は地図を見上げてうなずく。
「……明治神宮ね」
「そうだ。仮にも宗教で僕らを支配している連中が、宗教施設を破壊するわけにはいかないからね。ふふふ、だがね、あんなタカマガハラ族の象徴などどんどん壊してしまえばいいんだ。どうせ本物のご神体など、とうの昔に失われているんだから」
修は一息つく。わき腹を抑える。指の間から四種類の体液が流れる。だが、こうしていると時間切れになる。時間は残り一分弱。機神は憤怒にまかせて原宿方面を焼き払っている。修はその行為に嫌悪を覚える。
だからといって、動くわけにはいかない。撃たれてはどうしようもない。しかし、機神の活動時間については何も聞かされていないが、制限がないかもしれない。そして、あとわずかでシーシュポスは情報を攪乱できなくなり、黒江や霧島の居場所が明らかになる。そうすれば彼らがあの光線に襲われる。後ろ盾を失った修は敗北する。
「海原、何か光線を反射するものとかはないのか」
「残念ながら、近くにはない」
いつになく必死な黒江に霧島も声をかぶせる。
「これだけの威力の光線だ。普通の鏡など熱で溶けてしまうだろう。工業用のものだったら何とかなるかもしれないが、よほど巨大じゃないと無理だ」
修は必死に考える。時間がただ過ぎていくのがわかる。激しい光、まぶしさ。さえぎるもののない太陽のように。熱気が判断を鈍らせる。熱と光、かげらせるもの。
修はあたりが燃えている中でしゃがみこみ、代々木公園の土をすくって投げつける。辺り一面が土埃で閉ざされる。子供の悪ふざけのように、様々な大きさの砂や石、それどころか岩の塊が宙を舞う。
「なにをしているんだ!」
霧島が耳元で叫ぶのに構わず、修は硬い岩盤に当たるまで地面を掘り返す。機神は修に向けてレーザーの光を濛々とした土煙の中で放つ。
「避けて!」
その言葉もむなしくその光線は修を貫く。だが、ひどく熱いが致命的ではなくなっている。
「光線の威力をそぐつもりか」
修はひどい痛みに耐えながら、ひたすら土塊をぶつけていく。
「無駄だ、あれほどの熱量を持っていては、岩石だって溶けてしまう!」
しかし、機神は目がつぶれたのか、前足で顔を覆っていた。あんな非人間的な形をしていても、目に痛みがあるのだろうか。
視界を奪われても、あたり一面にレーザーを打とうとする。もはや神聖なものとそうでないものの区別を失い、遠くは新宿方面にまでビームを届かせる。地面が何メートルも削れている。赤熱している。
よく見れば、機神の全身に火ぶくれができている。どうやら、ビームで溶けた岩石を浴びたらしい。さすがの機神も、溶岩を浴びれば無傷というわけにもいかない。なるほど、機神の視覚が奪われたのはそのせいだ。
修はそのせいで混乱している機神に向かって飛びかかり、首を絞めあげる。機神が呼吸をしているのか、肺があるのかもわからないが、ひどく喘いでいる。だが、桜木町で修が溺れたときには確かに苦しかった。機神もそれは同じらしい。竜は手の中で急速に力を失い、死にかけた蛇のようだ。切れ切れにレーザーを放つが、口が修の方を向いていないので無力だった。
それでもなお、怒りを込めて絞り上げる。圧倒的な暴力を持って命を絶つ。水を吐き出し続けるホースのようにのたうつのを押さえつけ、どこまでも締め上げる。
機神は苦しみ、悲鳴を上げ、最後のレーザーを放つと同時に絶命した。その光線は北を向いており、新宿の高層ビル群を破断、融解させた。そしてその首が力なく落ちる。
「機神、活動停止」
「シーシュポス、活動時間残り十五秒」
けれど、修は怒りをまだ収めることはできず、喉の奥でまだ熱っぽく光っているレーザー部分を引きずり出そうとする。手のひらがまた火傷を負うのにも構わずに、喉の奥から舌を引っ張り出す残虐さをもって。
なかなか取れないのがわかると、全身の力を込めて振り回す。あるいは、片足をかけて引っ張る。万が一よみがえっても、二度とあたりを焼き尽くすことがないように。
無理にその器官を取り出すことに成功すると、そこには様々な部品が付着していた。体液まみれのそれには様々な嚢状のもの、管のようなもの、それから何とも言いようのない赤や緑の物体がまとわりついていた。思わず胸が悪くなりそうな光景だったが、それよりも修は、意味もなくあたりを破壊して回っていた悪しきものを倒したのだという思いに酔っていた。
自分が正しいことをしたのだという確信、それは何よりも強固だった。身勝手に辺りを破壊する機神など、タカマガハラ族の罪の象徴にしか見えなかった。自分の統治のためなら命をいくらでも奪う連中など、許してはおけなかった。喜びがつき上げてくる。
「シーシュポス、多血質になっていきます」
「血液過剰」
その言葉とともに、鼻から何か水のようなものが流れるのを感じた。拭ってみると、鼻血だった。また意識が遠ざかる。それでも、修は勝利を叫びたかった。喉がひどく乾いていた。
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