【恋愛/人魚】海が太陽のきらり 2

 陽子の泳ぎは、遠くから見ていたときも十分素晴らしかった。

 それは泳ぐというよりは踊るといったほうがいいほどの軽やかさで、水圧を感じさせないものだった。


 それを手が届く距離で眺めると、なおさら人のものとは思えない素晴らしさであるから、祖父は呼吸するのも悪い気がして押し黙ってしまう。彼女の周りにある水は波紋すらも、彼女を引きたてる飾りに徹することに喜びを見出しているようだ。


 優雅で鮮やか。海面から伸びる細い手、しなやかで引き締まった長い足。

 いたずらに跳ね上げる水滴のひとつひとつが、太陽を反射してきらめいた。

 まるで小さなダイヤモンドが降り注ぐような中、楽しげに泳ぐ姿は、とても直視できやしないほど美しい。

 祖父はそんな陽子の姿を間近でみているだけで満足だった。


 だが、陽子の方は、それでは面白くない。しきりに祖父を海に誘う。

 しかたなく、海パンをはいて恰好だけはつけて浜辺まできたが、そこまでだ。

 足先をつけるだけで勘弁してほしいと、それとなく目で訴えるが、陽子は首を振るばかり。


「何もしなくていいの。何も考えないで。そうすれば勝手に体は浮くわ」


 先に海にもぐった陽子が手招く。

 じりじりと移動して、海に半身を浸してみる。

 ひと呼吸おいて、さらに海へ。無意識に呼吸を止めていた。

 ふっと息を吐いた、その瞬間。

 波が口もとを狙ってせまりくるものだがら、全身が硬くなり、顔がひきつる。


 そんな海の戦いを繰り広げている祖父の前を、陽子は優雅にくるくると横回転しながら、いったりきたりした。水着はあまりにぴったりと体に添いすぎて、肩から上だけをのぞかせて泳ぐその姿は、ほとんどが水越しで不明瞭であるにも関わらず、妙に艶めかしい。まるで鯉が泳ぐように腰を動かして彼女は泳ぐのだ。


「ほら、はやく」

「い、いや。僕はここでいい。見てるから」

「私が泳ぐのを?」

「うん」


 はぁとため息のあと、陽子は泳ぐのをやめた。


「海斗、こっち。手、引いてあげる」

「いやだ」


 ばしゃばしゃと後ずさりして砂浜に上がろうとすると、陽子はその動きよりも速くやって来て、祖父の手を、いや腕ごと抱きつき海中へと引っ張り込んだ。


「う」


 溺れた。そう思った。かたく目を閉じて、口も歯もくいしばる。

 鼻がつんとした。それから頬をぱちぱちと叩かれる。


「ほら、私まで溺れるから。力抜いて、しっかりして」

「う、死、死ぬ」

「死ぬわけないでしょ。まだ浅瀬よ」

「え」


 目を開けて、よくよく神経を研ぎ澄ます。

 ひざが砂をついていた。


「まったく。あなたの身長なら、もっとずっと先へ行っても足がつくわ。こっち」


 腕を引かれるまま、祖父は海を進んだ。

 つま先が危うくなる頃、ぐいと踏ん張って抵抗する。


「これ以上は溺れる」

「泳げばいいの」

「無理」

「無理じゃない」


 陽子は手を離すと、すいっとひと掻きで身長分ほど進んで行く。

 ずいぶんと離れてしまったと感じた。ひんやりと心淋しくなる。

 慌てて足を蹴るが、前ではなく上に跳んだだけだった。

 ひょこり。もう一度やるが同じだ。

 はげしい抵抗が己の中で繰り広げられているらしい。

 何度も試すが、いやでも前には進もうとしない。


「なに、ひょこひょこして」


 盛大に吹き出し始める陽子に、祖父は顔だけじゃなく首から肩まで赤くなる思いがした。それでも、確かに可笑しかっただろうと同じように吹き出す。そのうち、自然と両腕が伸びて、ふわふわと前へと進んでいた。


「その調子、その調子」


 おいでおいでをするように海水を跳ねさせながら、陽子は逃げていく。

 それをよたよたふわふわ追っていくことで、祖父は泳ぎを覚えたらしい。 


 陽子のようには泳げなかったが、と言うが。

 それでも、祖父は泳ぐことが苦ではなくなっていた。

 自分も魚類の一員になったのだと笑う祖父は愉快そうで、この話の結末をしっていた僕でさえ、口もとが緩む。


「いつ帰るの?」


 そう陽子が訊ねたのは、もう夕日が広がる頃だった。

 彼女と出会って数日経っていた。

 橙色に浜辺が染まる中、二人は寄り添うように肩を並べて沈む陽を眺めていた。


「来週」

「そうなんだ」


 どうでもよさそうな響きを持ったつぶやきだった。

 わずかな沈黙のあと、陽子はずっと眺めていた海から祖父へと視線を移した。


「じゃあ、それまで毎日会える?」

「いや」


 毎日は無理だ。泳ぐとなるとなおさら。

 でも、祖父は迷った後、「いや、うん。会える」と答えていた。


「よかった。じゃ、ここでね」


 言って。陽子は「私はまたしばらく泳ぐから」と海へと駆けて行く。


「危険だよ」


 弾けるように立ち上がり、急いで声をかける。

 祖父は自分も追おうかと足を海につけた。


「私は大丈夫。慣れてるから。夜でも泳ぐくらいだし。満月なんて最高よ」


 陽子はそう言い放つと、いったん全身を海に沈め、それから、だいぶ進んだ場所から手だけを突き出して、軽く左右にバイバイと振った。それを眺めているうちに、祖父は波音さえ聞こえなくなって……そして、ハッとしたときには、陽子はおらず、陽も落ちていた。


 雲間に月が浮かんでいる。ひんやりとした風が吹いたのか。

 思わず、祖父は両腕をさすっていた。

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