【ラブコメ/高校生】きみの嘘、僕の恋心 後編

 ……ということがあった休日が明けて数日。


 ついにバレンタイン当日とあいなった。僕は部室に行くことをためらいつつも、死地に赴く武者の覚悟を決めてドアを引き開けた。


 もしかしたら、ここに冬月先輩はいないかもしれない。待ち受けるのは、ひっそりと空虚な部屋。あるいは恋仲となったぽちゃ本田と先輩が逢引きしている現場に遭遇するトラウマを得るかもしれない。したらば地獄のバレンタイン。血の十字架で一生バレンタインを恨んでやる。


 それでも行かねばならないときがあるのだ――なぜなら明日提出のプリントを部室に忘れて来たことを先ほど思い出したからである。僕のおっちょこちょいっ。


「どうもー……」


 僕はおっかなびっくり覇王が棲む城、またの名を読書クラブの部室へと足を踏み入れた。視線は汚れた上履きの先に固定する。全神経を耳に集約してみたところ、どうやら誰もいないことがわかった……と思ったら冬月先輩がいた。なぜか中肉中背の哀愁あるセーラー服姿の背を向けて、特に何もない窓の外を眺めている。今日は曇りだ。空以外には向かいに立つ教室しかない。窓は閉じ、誰もいないことまでよく見える。先輩は何を見ているのか。やや恐怖だ。


「あのぉ、そのぉ」


 もごもごと呟きながら、僕は目当てのプリントを探した。目玉を深海魚のようにぎょろつかせる。プリントは中央にあるテーブルにあった。が、その上にはさらに緑の小箱があった。ゴールドのリボンまでついている、あ、あの、あの、あの、あのチョコレート(だと思う)小箱である。


 驚きに日を浴びるミーアキャットになっていると、灰色の空を見ていた冬月先輩が高速だるまさんが転んだの勢いでふり返り、幼気な僕を両眼を射抜いた。


「あげる」


「はい?」


「一粒あげようと思って」


 ヘビとカエル状態で絶賛思考停止祭を開催していると、冬月先輩は箱を手に取り、ラッピングを悪漢が花魁をひんむくように容赦なく引きはがしていった。箱の中にはバラをかたどったチョコレートが六粒入っている。そのひとつを先輩はぱくりと口に入れ、もうひと粒を手に取ると、


「やる」


「え」


「やるって」


 先輩は、ぽかんとして餌を待つ池の鯉になった僕の口めがけてチョコレートを投げた。見事キャッチした口の中で、とたんに甘ったるいチョコの味が広がる。飴のように転がしながら味わっていると、先輩は今度は手の平を差し出して、「千円」と要求してきた。耳を疑う。しかし彼女の手は「ん」と要求をやめない。


「え」


「千円。食べたよね、千円」


 僕はこのチョコレートが四八〇円だと知っている。先輩が購入したチョコがどんなやつなのか気になり、バレンタインコーナーへリバースして、この目でしかと確認したからだ。


 間違いない。隣に七八〇円のチョコがあり、それより安いこちらを選んだことをどう判断すべきか、冬月先輩の心理をいく晩も推測して寝不足であるからして……しかし。しかしだ、諸君。冬月先輩が僕にチョコをくれて、しかも千円を出せというのなら、こんなにハッピーな千円は他にない……わけないと思うが、しかし、しかし、ここでためらうのも……


 僕はおもむろに財布を取り出して金銭を支払った。


「このチョコね。ひと箱、一万円。ひと粒千円なら安いでしょう」


「おっと、ぼったくりにも程が……いや、ひと粒千円なら安いですね。ありがとうございます、マイマスター。幸運すぎて明日命日になりそうです」


 温厚な僕は深々と前屈姿勢で頭を下げた。ひと箱一万円の六粒入りのチョコレートをひと粒僕に千円で分けてくれたのなら、確かに安い。安いはずだ。きっと冬月先輩直々に頂くチョコレート特典でオプション料がかかり、ひと箱一万円になったんだろう。疑うな、自分。先輩はとても親切だ。


 僕は湿り気を帯びた眼球を拭いながら、先輩に一歩、いや、一億歩は踏み込んだ質問を口にした。今日はバレンタインだ。バレンタインにお母さん以外からチョコを貰った(金銭は支払い済み)喜びで、僕は正気を失っていた可能性もある。


「先輩、このチョコは本命チョコですよね?」


 冬月先輩は丸メガネの奥に隠れ潜む潤んだ瞳を大きく見開いた……と僕の脳内スキャンは判断した。そして、彼女はぷいとそっぽを向き、「うん」と指を交差させながら答えて、そのなめらなか頬を赤く染め……ているわけもなく、「あ?」と不機嫌に声をとがらせた。


「本命ってどういう意味よ?」


「いや、その。以前、バレンタインには自分用か、本命の相手にしか」


「はい?」


 威圧的な「はい?」に、僕は口をつぐんだ。誰だって命は惜しい。たとえ害虫のごとき命だとしても、本人は必死で生を謳歌している。それにこのとき、聡明で心優しき僕の頭脳は、光ファイバーのような速度でびびっと気づいてしまったのだ。


 可能性1


 冬月先輩は本命チョコを買ったけどタイミングを逃して渡しそびれてしまった。よって、可愛い後輩にひと粒千円で売りつけた。


 可能性2


 本命相手に渡したが拒否された。よって、可愛い後輩にひと粒千円で売ることで傷心を癒している。


 可能性3


 冬月先輩の本命は紛れもなく、この僕であり、シャイな先輩は真正面からチョコを渡すのが恥ずかしくて、千円で売りつけるという冗談をかましてきた。


 以上の可能性を素早く精査する。ぴぴぴぴーんっ。ははあ。僕は決断したね。可能性3に青春を賭ける! 僕の脳内はバラをまき散らし始めた。


 うふふ。知らなかったよ、マイハニー。きみと僕は、キューピッドも赤面するほどの熱い相思相愛の間柄だったんだね。


 それならそうと早く言いたまえよ、子猫ちゃん。まったく、恋愛マスターの僕としたことが、きみの砂糖菓子のような甘いたくらみに踊らされて、あのぽちゃ男に嫉妬していたんだからね。悪い子だ。お仕置きに長い長いお説教をしてやるぞ。


 さあ、聞いてくれ。きみへの想いを綴った『わが愛しのフユツキーヌ』という抒情詩を披露してあげるからね。あはは、お仕置きにならないって? それはどうかな。まあ、その桜貝のような耳で、僕の愛をトリビュートのささやきを味わってほしい。


「ああ、美しきかな、黄昏にたなびく御身が艶めきその麗しの黒バラきらめき潤む――」


 と、両手を広げて悦っていた僕の横を、冬月先輩は「じゃ、帰るわ」とスタスタと通り抜けていく。


「あ。じゃあ、僕も」


「捨てといて」


 先輩はあごでテーブルを示した。いつの間にかあの緑の箱は空になっていた。


 冬月先輩は僕が恋の陶酔に溺れている間に、ひと箱一万円のチョコを全部食べてしまったようだ。その空箱を僕に捨てろと仰せである。


 かしこまりーで、空箱を即座にマイスクールバッグに封印したのだが、そうしているうちに、愛しのフユツキーヌ先輩は部室を出て行ったらしく、素早く壁をはいずり回る蜘蛛のような速度で廊下に出たときには、彼女の姿はどこにも見当たらなくなっていた。


 まさに天女のようにかき消えてしまったのだ。僕は空箱が入ったかばんを抱き、歯の隙間に残っていたチョコのフレーバーに純情ハートを高鳴らせてその場に立ち尽くした。なんとまあ、このバレンタインの意味をどう読み解けばいい?


 戸惑いがうずまく中、僕は自宅にトボトボと重い足取りで帰り着くと、しばらくは油まみれの換気扇を眺めながら、この出来事を反芻していた。いまだチョコの味がする口内に苦しみを覚えたとき、まさしく天啓がひらめき迷える子羊を救った。


 僕はチョコの入っていた箱とラッピング類をかばんから取り出すと、ハズキルーペを装着して、それらを念入りに点検した。胸が高鳴る。先輩からの愛のメッセージがあるやもと期待している。そして僕はついに見つけたのである。


 ばーか。


 という小さな小さな本当に小さな文字を。


 ゴールドのリボンに黒ペンで書いてあった。ああまったく、なんて奥ゆかしい人なんだ、冬月先輩は。僕はゴールドのリボンを頭に巻くと、ひとしきり満足がいくまでリビングをスキップして回った。


 ハッピーハッピー、バレンタイン。


 僕のバレンタインは謎と期待に満ちている。冬月先輩はきっと僕のことが好きなのだ。たぶん、いや、ぜったい!! 僕のスキップはテレビボードの角に小指をぶつけたことで終了したが、笑顔はそのまま、とびっきりの花丸満点だった。

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