【現代ファンタジー/病死・シリアス】夕紅とレモン味 最終話
その庭には二人の背丈よりほんのわずかに高く伸びた柑橘の木があった。
厚い緑葉の重なりの中には、カメレオンのように緑色の実が多くひそんでいた。
「レモンだった。僕ははじめてあんなふうにレモンが成るのを見たよ。まだ小ぶりでいくつも手に乗せられるようで。でも、しっかりレモンの形をしていた」
少女はレモンには棘があるのよといった。
口ぶりには、弟の知識を試すような響きがあった。
「バラより鋭い棘がね。中には自分で自分を刺しちゃう子もいるの」
レモンの実をひとつ指ではじき、彼女は弟に「ほら、この子の近くにもあったの」と顔を近づけて見るよう場を開けた。従うことを疑わない態度に反感を覚えつつも、仕方なしにのぞけば、確かに、実の側の枝に棘を切り取ったらしき跡がある。ふいに顔を動かすと、ひたいがつきそうな距離に彼女の顔があった。
「ね、だから棘は切ってあげるのよ。ひとつひとつね」
息なのか、頃合いよく吹いた風なのか。
顔をふわりとなでるものがある。あついと思った。
「ずいぶん面倒なことをするもんだ」
思慮なく口走った言葉に、少女はすっぱいものでも噛んだような顔をして、
「あら、じゃあ自分で自分を刺してもいいっていうのね、傷つくのに」
そう言って、目をのぞく。弟は「いや」と意見しそうになって、しかし博識ぶる彼女と対立する気もなく、控えめに「傷はいやだろうよ」とつぶやくと、さっと身を引いた。少女は気取ったようなすまし顔で、「葉もレモンなのよ」と無造作に一枚の葉をむしった。
「ほら、嗅いでごらんなさい。レモンだから」
鼻を近づけるまでもなく、それはレモンの匂いを宙に放っていた。
弟は「ほんとうだ」と答えると、居心地が悪そうに身をよじった。
「どうしたの?」
「いま、何時だろうか、僕は戻った方がいいように思う」
横柄とはいえ、はつらつとしている彼女との語らいは楽しい。
だが、これは夢だろうと思ったにもかかわらず、いつまでも時が続く。
もっと夢らしくクルクルと場面がかわりはしないかと願ってみるも、よけいに肌に触れる空気が研ぎ澄まされていき、生々しい時の刻みを示すようだ。弟は、もしかしたらこの世ではないところへ迷い込んだのではないかと焦った。
「僕、もう帰るよ。朝になったら困るもの」
そうして、一、二歩あとずさる。
「まあ、そうなの」
寸の間、少女の顔に影が差した。
空はあいかわらず紅色に燃えていたが、どこか怪しげな艶めかしさが見え隠れする。よくよく観察すれば、先ほどから空の変化がとぼしすぎやしまいか。風はあるが生ぬるく、時に冷気を含んで背をなでる。
「うん、また」といった弟は、そこではたと言葉に惑う。
「また会おう」といっていいものかどうか。
それでも、向こうが「そう」とつぶやき、何事もなかったかのように、晴れやかな顔で手を振るものだから、つい「うん」と手を振り返した。そうして、くるりと背を向けるとがむしゃらに木戸まで走りゆき、己からこの夕日に染まる庭の世界をはぎ取るかのような心持ちで、強くばたんと戸を閉める。ふっと息を吐いた。
「それから、どうしてか、僕は夜の廊下にひとりいたんだ」
弟はうすくなった眉をひそめる。
「不思議に思って、試してみたくなって、勇気をみせようと、もう一度扉を開けた。すると、庭ではなくて倉庫があった。もちろん夜で暗いんだけど、窓からすこしばかり星が見えたのでわかったんだ、姉さん、僕はあれは夢ではなかったんだと思うよ、夢なら目が覚めるはずだもの。でも、僕はそのままベッドに帰って眠って、そうして普通の人のように朝目が覚めたんだ、これだけ夢が続くとは思えないじゃないか」
私は、そのとおりだ、きっと夢ではあるまいと応じたが、つい視線は彼の枕元にある、一冊の本に伸びてしまった。それはアン・フィリッパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』だった。
この物語では、少年トムが真夜中に不思議な時空の庭へ迷いこむ。
そこで出会った少女との交流と、その少女の正体に驚きと感動がある。
彼の愛読書のひとつで病室でもバイブルのように持ち込み、たいくつな時間の友としていた。しかし、ここで、「ああ、それは本の影響を受けたのね」と軽くとも言い難い熱心さが弟の眼差しにはあって、私は「不思議な経験をしたんだね」と柔らかに続けると、
「あれは本当に不思議だった」
と弟は私の反応に満足したのだろう大きくうなずき、するると長く息を吐きだした。眠たそうにまばたきを繰り返すと、朗らかに笑い、
「あれは本当に不思議だった」
再び言葉をかみしめるかのように呟いた。そして、弟は目をつむると、かたりと電源が落ちたかのように力を抜いた。間をあけず、穏やかな寝息が届く。上下する胸の呼吸に生を見るが、そのあきらかな証拠がなぜか目を刺してやまない。
病室の窓に顔を向けると、そこには弟が語ったような夕焼けがあった。
意識を外に向ければ、病室全体が陽に溺れるかのように紅色に染まっているのに気づく。骨の髄まで染めゆくような鮮やかさに息が止まるかに思えた。多色に色づいた雲が風にたなびいては、波打ち折り重なっては紅に溶けていく。
窓を放つと風が踊った。目に留まるひとつの大きな雲、その向こう岸。
弟が出会ったという少女が重なって見え、軽やかな笑い声と共にぼーんぼーんと深い時計の音がした、その錯覚のあと。
私はレモンの香りが鼻腔を通過して、口の中に酸味が広がったように感じた。
舌先が痺れる。振り向いたベッド、眠る弟の頭に手を伸ばして、その細い髪に触れた。ぬくもりが、そこにはたしかにあった。
その夕紅から、数週間が過ぎ。
奇跡の回復ではなく穏やかな最後を願うようになった矢先、あっけないほどの瞬間を弾けさせて、弟は空へと登った。その顔は色が引く一瞬前、紅く染まり、まるで恋人に迎えられて恥じらったように、私には見えた。
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