【現代ファンタジー/病死・シリアス】夕紅とレモン味 1

 私には年の離れた弟がいた。

 口数が少なく、いつも部屋のすみで本を読んでいるような子だった。


 弟は幼少期から病気がちで、すぐに熱を出しては学校を休んでいた。

 世間で流行りのウイルスには必ずといっていいほどかかるばかりか、心臓のほうも生まれつき不調らしく、検査では毎回ひっかかっていた。


 それでいて好き嫌いが多く小食、基礎体力そのものがなかったのだろう、脂肪も筋力もない青白い肌は緑色の血管がいつも透けて見えていた。


 年が離れていたこともあってか、彼とはいわゆる姉弟らしい思い出は少ない。何か物を取りあったり、口悪くののしったりということは一切なかった。ふいに二人だけで部屋に残されると、共通の話題に困ってしまうこともあり、慕われていることはわかるのだが、いつもどこか遠くの場所から互いに存在だけは認めあっている、そんな風であった。


 その弟が十三になったばかりの夏、癌が見つかり、翌年の春には帰らぬ人となった。思わしくないとの連絡のあった深夜のことだった。あっという間の数か月間で、家族、特に母親はひどくこたえていたようだが、私はというは不思議と喪失感も悲しみも押し寄せることなく、その温度差に戸惑った。


 薄情なのだろうか、それでも、弟はどこかこの世にいて、そうでないような、淡い空想の住人でいるようなところがいつもあった。体から抜け出して魂だけの存在になったあとのほうが、彼らしい存在感を放っているようで、悲しみすら突き抜けた解放感を見たような気がしたのだ。


 その気持ちはやがて霞みのように溶けて私の中に吸収されていったのだが、ふとしたときに弟の面影を見ることがある。そして、同時にあの話を思い返しては、私の中で悲しみが形を変えてゆき、ひよわながら育った決意がさらに固まって、重くこの身の内に沈んで光を放つのだった。


 決意といっても大したものではない。いつか庭にレモンの木を植えようといった、すぐにでも実行できそうなことだ。でも、この決意が芽生え育つごとに事細かなイメージが固まり、いまではあの話に出て来たような庭を手にするまでは、どうも実行に移せそうにない決意でもある。


 あの話とは、弟が病室で語っていた夢の話だ。

 彼はあくまで事実のことであるように話して聞かせてくれたのだが、それは彼が数年前に友達の祖母の家に遊びに行っていた期間の出来事だという。


 彼が十歳ぐらいだったろうか、夏休みの二週間を、友達の祖母の家で過ごしていた。その祖母はひとり暮らしだったのだが、大きな屋敷に住んでいて、通いの手伝いも数人いるような身分だった。


 屋敷には庭がいくつかあり、裏には私有地の森が、屋敷前には細い道を挟んで景観素晴らしい湖が望める立地。民家はその家のほかになく、くだり坂を自転車で駆け下りていけば、ポツポツと数軒なんとか見えてくるといった具合だったらしい。


 それでも、週に一度運び込まれる食糧は十分すぎるほど贅沢でありあまるほどで、屋敷の設備も最新のものがそろっていたからか、弟とその豪奢な祖母の孫である友達も、何不自由なく休暇を楽しんだ。


 祖母である女性も、気さくでいて、それでも幼い二人が疎ましくなるほどの干渉はせぬ人で、この夏の日々は弟の人生のハイライトのひとつになった。彼は入院中、この屋敷での日々をまるで隠し事でもささやくように大切げに話した。


 広大な屋敷の敷地内には、よく手入れされた庭がいくつかの区切りを設け、変化を見せていた。白い花を基調としたホワイトガーデンや、蝶々を招く薫り高い草木をそろえた区画、あるいは彩が目を引く野菜を飾るように植栽したもの、また、秘密めかした小さな中庭が三か所はあったらしい。


 そのひとつに、特にひっそりとした箇所があった。屋敷と調和した石壁に木戸をつけたもので、そこを抜けていくと果樹園につながっていたそうだ。しかし、そこは他と比べると、雑草が伸び放題で整備が見るからに追い付いていなかった。


 たとえるなら見離された楽園だろうか、華やかさの余韻だけが潜み、ほとんどのものが息絶えたような印象を与える場所で、古びたリンゴの木が目立っていたが、幹につるがはびこり他の植物に侵略された感がある。


 そのためか、マムシが出るとの注意があって、どこでも自由に立ち入れるはずが、ここだけはたとえ長ぐつでも入ってはダメだと禁止されたそうだ。


 そういわれると入りたくなるものだが、弟はやはり大人しい性格で、友達のほうでも面倒ごとを避けたい性格だったらしい、二人は木戸から一度のぞいただけで満足して、あとは遠くから目を向ける程度の関心しかなかったようだ。


 屋敷の敷地は広く、あらゆるところを探索して行こうと好奇心をそそるが、結局はその衝動も一日目で収まり、あとは湖で釣りをしたり、泳いだり、そんなことをして時間を潰したらしい。


 読書好きの弟は文庫本をいくつか持ち込んで、水辺近くの木陰によりかかると、まどろみをはさみながらページをめくる、そんなこともあったようだ。湖は妖精の祝福を受けたかのように日に反射して、心地よい眩しさを風のそよぎと共に提供してくれていた。


 陽があるうちは彼にしては珍しく積極的に外に出て体をうごかしていた。そうなると夜はぐっすり眠れるだろうと思うのだが、めったにないことに体がまごついたのだろうか、眠ろうとする気持ちに反比例するかのように、ますます神経が高ぶって、なかなか寝付けなかった。


 宿泊部屋は友達をいっしょで、横を向けば、となりのベッドではすうすうと気持ちの良さそうな寝息がきこえる。


 それを子守唄になんとか眠ろうとするが、息をひとつ吐くたびに目が覚めていくようで、寝返りを打ちつつ、友達に気兼ねしてライトをつけて本を読むこともできずにいると、ぼーんぼーんと時計の打つ音が唐突に鳴った。


 古めかしい低いこだまする音に、弟は首を傾げた。音からイメージするのは大きな壁時計だ。しかし、そんな時計を屋敷内で見かけたことはなかった。とはいえ、知らぬ家のこと、探検しつくしたつもりでも、自分が及ばない箇所はあったのだろう、さほど気にせずにいたのだが……


「でもね、どうにも眠くないでしょう、だから僕は音をたどることにしたんだ」


 やせ細り、こけた頬がわずかに色づいた。弟はいたずらが見つかったようなはにかみを見せながら、私の関心を引こうとさらに声をひそめた。


「僕はひっそりと一階までおりていったんだ。音はまだ続いていたよ。ぼーんぼんと呼ぶように鳴っていてね。あたりは他に静かだった。お屋敷は広かったんだけど、僕は迷わず裏口に続く廊下に進み、そこでしばらく立ち止まったんだ」 

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