そして彼女は眠りについた

鯨井あめ

そして彼女は眠りについた

「いつも悪いね、にいちゃん」


 片手をあげて、中年サラリーマンは後部座席から出ていった。


「またご利用くださいー」


 増田は軽い調子で返し、車内でひとり伸びをした。

 デジタル腕時計は23時12分を示している。


「今日もこれで終わりだな」


 タクシーを発進させ、十字路をいくつか曲がって広い通りに出た。夜の道路を滑るように進んでいく。

 ここは隣町だが、お客をよく運んでくるので、夜でも迷うことは無い。通ってきた道を戻りながら峠を目指す。


 あと少し。

 今日の業務も、あと少しだ。もう少し頑張ろう。


 30歳を過ぎたころから、夜更かしをすると翌日に響くようになってきた。20代なら徹夜をしてもピンピンしていたのに。


「早く帰りたいな~」


 CMソングを口ずさみながらハンドルを回し、薄暗い山道へ入って行く。

 ポツポツと申し訳程度の間隔で続く電灯、舗装された山道。

 さっきまでの街中の気配が失せて、自分が運転するタクシーのエンジン音が、やけに強く聞こえる。


 この峠は、増田が住む町と隣町をつなぐ近道だ。昼間こそ抜け道として使われるが、いまは自転車どころか対向車も無い。

 進むごとに夜の濃さが増していく。電灯の作る円が、山の深い夜に穴を開けている。

 あくびが出たので、カーナビを片手で操作して、ラジオを流した。


『ええ、夜も更けてまいりましたが――』


 ラジオのDJは、声の低い男だった。


『冬に近づいてきましたね。秋が始まったころは、今年も残暑が続く、なんて騒がれていましたが、最近は一段と寒くなって、僕なんて毛布が手放せなくなりました。子どもみたいですよ』


 はは、と笑い声。増田もつられて笑う。


 人などいないが、決してスピードはあげない。怖いのは鹿や猪だ。ぶつかったら車が負ける。貯蓄は老後のためであって、車の修理費のためではないのだ。


『それにしても、今年の冬はまた冷え込むなんて言われているみたいで。いやあ、冷え性の僕には辛い話です』


 わかるぞ。最近冷え性になってきた気がする。増田はうんうん、とひとりでうなずく。


『冷え込んでくる時期って、風邪をひきやすいみたいですね。みなさんはいかがお過ごしですか? 寒いときは、温かい飲み――』


 突然、ラジオが切れた。

 おや、と思った瞬間、『――ですよね』と優しい声が戻ってくる。


『――なわけで、今回は生姜湯の――を――――る――どう――』


 なんだ。電波が悪いのか。こんなこと初めてだ。

 増田はちら、とカーナビの画面を見遣った。画面の右上にアンテナが立っている。ちゃんと3本ある。電波は入っている。


『――や――で―――、ま―――けで―――』


 DJが何を言っているのか聴き取れない。


「電波じゃないなら、音量か」


 車を道の脇へ寄せて停めた。


「えーっと」


 ボリュームを上げるが、ますます聞き取りにくくなっていく。


「故障? まじ?」


 げえ、と思いつつ、いつ調子が戻ってもいいようにボリュームを普段の数値に戻した。こつ、こつ、と車内に音が響いた。

 ふと横を見る。

 人が立っていた。


「わっ」


 思わず悲鳴が漏れた。

 人はドアのすぐ傍に立っていた。まるで増田のタクシーが、そこに停まることをわかっていたかのようだった。


 増田は、は、と息を吐いた。


 暗くてわかりづらいが、どうやら女、らしい。長い髪で顔は見えない。秋も暮れだというのに、半袖のワンピースを着ている。色は定かではないが、煤けた白に見えた。


「……」


 全身に、ドッドッドッドッと鼓動が響いていた。血が恐ろしいほどの勢いで指先まで到達して戻っていく。同時に背中にひやりと冷たいものが滑る。


 窓の外、女はゆっくりと手を上げて、窓ガラスを叩いた。こつ、こつ。再び無機質な音がこだます。


 増田は急いで窓を開けて、「はい」と応えた。声の震えは抑えられなかった。


「何か、あの、ご用で、」


 上手く言葉が繋げないでいると、女は後部座席を指さした。

 ハッとする。

 そうだ、お客だ。


「あ、はいすみません。お待ちください」


 早口で言って、座席に座ったままボタンでドアを開ける。女はのっそりとした動きで後部座席に乗り込んできた。


「あの、どちらまで」


 声の震えを必死に殺して尋ねると、女は「川辺」と答える。


「かわべ?」


 どこだ。


 増田は脳内の地図で検索をかけた。……知っている地名に該当するものはない。

 それとも、川辺って、普通に川辺だろうか。どの川へ向かえばいいのだろう。


「渡って、ください」


 低い声で女が続ける。意味がわからない。

 増田は混乱しながら、震える指先で、か、わ、べ、とカーナビに打ち込んだ。やはり、この近隣ではヒットしなかった。


「えっと、申し訳ありません、お客様。目的地周辺に目立つ建物がありましたら、教えていただけますでしょうか」


 女は何も言わない。


「お客様」


 返答がない。


 増田は相変わらず調子の悪いラジオを消して、「分かれ道が来たら、どちらに曲がればいいか教えてくださいね」と努めて明るく言って、バックミラー越しに笑みを作った。

 長い黒髪で女の表情は見えない。


「では、発進します」


 のろのろとタクシーは動き始める。


 増田は何でもないようにふるまっていたが、内心は暴風雨のように荒れ狂っていた。

 信じられないことが目の前で起こっている。こんな体験は初めてだった。

 まさか。これはまさか。

 霊感なんぞなかったはずだ。だが、これは、乗せてはならぬものを乗せてしまったのではないか。

 バカな。そんなことあるはずがない。


 バックミラーをちら、と見ると、女はそこでじっとしている。

 増田は無理に笑みを作った。


「いやぁ、それにしても驚きましたよ。こんな夜更けに、こんなところでどうされたんですか」


 女は答えない。


「山に何かご用事だったんですか?」


 ワンピースには寒い季節だし、山に入る服装ではないし、全体的に煤けて汚れている。こんな格好をした女が、こんな時間の山に用事などあるわけがない。全てがおかしい。


「それにしても、寒くなりましたねぇ。お客さんは寒くないですか。自分はずっと車内だからいいですけど、お客さんは外におられましたからね。寒いでしょ」


 女は微動だにしない。ただ、かすかに伝わるエンジンとタイヤの振動で、その長い髪が絶えず左右に揺れている。


 まるでマネキンが後部座席に乗っていて、それに話しかけているようだ。

 増田はそんな想像をした自分を呪った。

 いやきっと人だから、人間だから、と言い聞かせる。


「もし寒いなら、暖房、入れますよ」


 女が何も言わないので、車内は沈黙が続いた。


「では、このままでよろしいですね」


 あまり話しかけるべきではないのだろうか。

 そうだよ、きっとそうだ。だって話しかけられたくない乗客もいる。気を遣って話しかけたら、不機嫌な態度をとられたことなど、いままでに何度もあった。

 それだ。たぶん、そんな客なんだ。


 増田は、バックミラーにちらちらと目を遣りながら、ゆっくりと坂道を登った。

 いまのところ、分かれ道はない。左右は鬱蒼と茂った秋の木々が立ち並び、ガードレールもそれに沿って続く。

 新月の夜は暗く頼りない。

 二車線の広い道路を、タクシーは淡々と進む。

 せめて一台通ってくれ、バイクでもいいから、と思うのに、山道を走るのは、増田が運転するタクシーだけ。乗せたお客はまさかの幽霊疑惑。


 笑えない、と増田は泣きそうになりながら笑顔を作った。

 笑わないとやってられねぇ。


 もうすぐ峠だ。女はやはり動かない。どこまでいけばいいんだろう。


「お客さん、あの、峠を越えたらいいんですね?」


 声をかけた瞬間、道路のつなぎ目を通ったらしい。突然車が揺れた。増田の腰がわずかに浮いた。

 そういえば、と、さっき中年サラリーマンを乗せたときも揺れたのを思い出した。

 舗装工事の関係で、アスファルトがぼこっと膨らんでいるのだ。


「すみませんお客さん。だいじょうぶ――」


 バックミラーを見て、気づいた。

 女の長い髪が一層揺れていて、彼女の口元が見えた。

 口元のホクロ。一瞬で隠れてしまう。

 遠い記憶が一気に蘇る。


きしちゃん?」


 思わずこぼれた声に、女は肩をビクつかせ、顔を動かした。髪の隙間からもう一度のぞく口元。その星型のホクロが、今度こそちゃんと見えた。


岸本きしもとさん、だよね」


 女が、ふ、とか細く息を漏らした。彼女が初めて呼吸をしたように、増田は感じた。


「ほら、憶えてない、かな」

「……ます、くん?」


 かすれた声で女が応えた。

 彼はほっとしてうなずいた。


「やっぱり、岸ちゃんだ」


 彼の不安は吹き飛んでいた。

 いま胸の中にじんわりと広がっているのは、純粋な懐古心。


「久しぶり。中学校の卒業以来だから、……もう15年以上前か」








 岸本が「あの、」と言うので、増田は「何?」と返した。


「タクシー、停めてもらってもいい?」

「え? うん」


 タクシーを停めると、岸本は姿勢を全く変えないで、「すこし、話したいんだけど、いい?」と言った。


「いいよ」


 増田は快く答えてルームランプを点けた。メーターの値は制限距離に近い。少しくらい休んだっていいだろう。お客が停めてと言ったのだし。

 念の為に料金が変動しないよう設定をいじってから、「いやあ、ほんとに久しぶり」と振り返る。


 そこに座っている女は、ルームランプのオレンジの明かりに照らされていた。ぼさぼさの黒髪で、顔は髪に隠れて見えず、汚れた半袖のワンピースを着ていたが、もう恐怖など感じなかった。


 彼女は岸本。中学の同級生だ。


「ますくん、元気にしてた?」


 先ほどまでのだんまりは何だったのか、岸本から話題を振ってきた。

 増田は苦笑いしながら、「そこそこ」と答えた。


「岸ちゃんは? 同窓会でも見かけなかったからさ」

「うん、行けなかったんだよね。……ますくん、声、変わってたから、気づかなかった」

「声?」

「低くなったね」

「――あ、ああ!」


 増田は苦笑した。


「さすがにな」

「そっか。そうだよね、そんなに昔の話かぁ。いつ頃だったの、声変わり」

「高校1年の、夏」



 中学生の頃の増田は、女子のように高い声だった。このまま声が変わらなかったらどうしようと、毎日不安で仕方がなかった。彼の中学3年間のコンプレックスだったのだ。


「良かったね、声変わり、来て」

「ほんと。マジで安心したんだよ。――岸ちゃんは、高校、あずまに行ったんだっけ」

「そうそう、東高校」

「文化祭がすごいところ?」

「うん。……ますくん、引っ越しちゃったもんね」

「行きたかったなー」


 中学生の頃の岸本は、大人しい女子のひとりだった。

 彼女と増田は中学3年間同じクラスで、なぜか席が隣になることが多かった。自然と会話も増えたが、内容といえば愚痴を言い合ったり勉強の相談をしたりで、最後まで恋愛に発展することはなかった。

 お互い、友情の波長が合ったのかもしれない。当時の増田にとって、岸本は唯一の女友だちと呼べる存在だったのだ。


「そういえばさ、俺、高校に入ってめっちゃ後悔したんだよね。岸ちゃんと連絡先を交換せずに引っ越したじゃん?」

「うん」

「話したいことがたくさんあったんだよ。岸ちゃんなら笑って済ますようなくだらない話とかさ、岸ちゃんが食いつきそうなイケメンの話とか」

「なにそれ」


 後部座席で長い髪が揺れる。


「なんか無性に、寂しかったんだよな」


 懐かしさがこみあげてくる。

 引っ越してからも、遠い友情に思いを馳せたことが何度もあったんだ。それを岸ちゃんに伝えたかったんだ。


「最近はどう?」


 増田の問に、岸本は少し黙った。「ますくんは、どう?」と質問を返してきた。


「ますくん、毎日、楽しい?」

「なんだその質問」


 増田は吹き出してから、少し考える。


「うーん、楽しくないわけじゃないけど、可も不可もない。マンネリ化? ってやつ?」


 タクシー会社の同僚と仲は良く、先輩は厳しくも優しいし、後輩はかわいい。文句はない。毎日同じ時間に家を出て、同じように出勤して、同じように人を運び、同じように帰路につく。また次の日も。

 それについても、文句はない。

 いや、言えるような文句がない、とも言える。


「タクシードライバーって、たくさんの人と出会えるから、楽しそうだけど」


 岸本の言葉に、増田は「あー、客についてはたしかに」とうなずく。


「常連さん以外は基本変わるから。……んー、でも、遠回りしただろ! って怒鳴られるし、客によっては機嫌取らなきゃいけないし、酔っぱらいに吐かれるし、大変だし、癒しもないし、うん、毎日ずっと疲れてるって感じ」


 茶化しながらも愚痴を垂れる。まるで、中学のあの頃に戻ったようだった。

 隣の席には岸本がいて、増田はイスに横向きに座って、ふたりで喋って。


「てかさ、岸ちゃん、ずっと気になってたんだけど、その恰好どうしたの?」


 岸本は「うん」とだけ言って、突然黙った。

 唐突に気まずさが訪れる。

 増田は、自分が浮かれすぎていたと気づいた。


「ごめん、ちょっとデリカシーなかった」

「ううん。そんなことない。誰だって気になるよね。そうだよね」

「……なんか、あったの?」

「ちょっと、やな男の人に、絡まれて」

「やな男の人……?」

「はじめはいい人だったんだけど、付き合って少しして、突然、怖くなって」


 は、と思う。

 なんだそれ。


「他にも、お金のトラブルとか、家のトラブルとか、両親の面倒とか。あまり、聞いても楽しくないと思うけど」

「それ、その相手の人は、え、いまも付き合って、」

「いまは、もう一緒にはいない」

「その、ご実家の方は」

「お金のことも、家のことも、いまは考えなくてもよくなったよ」


 よかった。

 増田は、この一瞬のやりとりだけで泣きそうになっていた。

 長らく連絡の途絶えていた親友が、そんな目に遭っていたなんて。


「ほんと、いいことなんて何ひとつなかった人生だった」


 後部座席で、岸本は、わずかに顔を上げた。彼女の口元の星型のホクロが、かさついた唇のそばで、ルームランプの明かりに照らされていた。


「増田くんも、未練とかない?」

「未練?」

「いいことなんてひとつもない。そうでしょ?」


 増田は口を開きかけたが、ピ、という電子音に腕時計を見た。0が並んでいる。今日が終わっていた。


「ぼちぼち、行くか」


 岸本が、「そうだね、いこう」と返した。

 料金設定を戻し、ルームランプを消した増田は、「なんかさ」と切り出した。これだけは言っておきたかった。


「なんかいろいろあったみたいだけど、俺、岸ちゃんには幸せになってほしいな」

「え?」

「昔、一緒に文化祭の劇の演出やったことあっただろ」

「あ、うん」

「あの劇さ、気持ちいいくらい好評だったじゃん。泣いてる先生もいたし、始めはゲラゲラ笑ってた同級生も、最後はみんな黙ってた。黙ったまま幕が下りて、拍手喝采だった」

「そうだっけ」

「そうだよ! あのとき、岸ちゃんってすげぇなって思った。人を感動させられるってさ、すげぇよ」


 自分で言いながら苦笑する。こんな話、親にもしたことないから。ちょっとくすぐったい。


「タクシードライバーやってると、いろんな客の話を聞くんだ。でも誰のどんなにすごい話を聞いても、岸ちゃんの演出を思い出すんだよね。ああ、あれには敵わないな、って」


 細かいところとか、セリフとかは忘れちゃってるんだけど、と正直に付け足す。


「けど、感動したものって、知らず知らずのうちに自分の中に残ってて、自分を形作ってるんだろうなぁ、って」


 増田ははにかんだ。


「ほんと、あの光景だけは忘れられないんだ」


 岸本は黙っていた。

 増田は続けた。


「中学のときは言えなかったんだけどさ」

「……ありがとう」

「いやいや、こちらこそ。こんなところで会えるなんてなぁ。地元でもないのに、不思議なもんだよな」


 はじめ、俺、岸ちゃんのこと、幽霊かと思ったんだよ。

 ほら、よくあるじゃん? 拾った客に道案内されるやつ。

 バッカだよなー。


 年甲斐もなくケラケラ笑う。なんて失礼な話だろう。30歳を越えて、こんな勘違いをするなんて。


「じゃ、次こそ行こうか」


 増田はタクシーを発進させた。

 ふたつのヘッドライトがアスファルトを照らし、車は再び坂を登って行く。


 やがて道が平坦になり、すぐに下り始めた。


「ますくん」

「うん?」

「そこ、右」

「みぎ?」


 増田はブレーキを踏んだ。


「え、右? 右に曲がるの?」


 バックミラーを見遣ると、暗い車内のなかで、岸本がうなずいたのが見えた。

 増田は右を見た。

 確かに、ガードレールとガードレールの隙間がある。その先にも道が続いているようだ。電灯はもちろんないので、道の先は真っ暗である。


「……わかった」


 少しバックしてから、ハンドルを右に切った。静かな山の中に、タイヤが地面と擦れる音が響く。


 入ったその道は、アスファルト舗装がされているものの、車一台がやっと通れるほどの細さだった。


「曲がって」

「また?」


 岸本はひどく機械的だった。

 増田は言われた通りに道を曲がり、山道を進んでいく。こんな道があったなんて知らなかった。


 どんどん舗装されていない道へ入っていく。


「ほんとにこっちでいいの、岸ちゃん」


 岸本はうなずいた。

 増田はハンドルをぐっと握りしめて、慎重に進んでいく。鹿や猪がいつ飛び出してきてもいいように。

 地面がでこぼこなのだろう、タクシーは絶えずガタガタと揺れた。車体や窓に木々の葉がぶつかっては流れていく。ヘッドライトの明かりが垂れ下がった木々の枝葉にさえぎられて、フロントガラスの向こうは何も見えない。落ちてくる枯れ葉をワイパーで避け、どんどん奥へ分け入っていく。道は細く狭くなっていくし、抜け道とは思えない。元の道へ戻るには、間違いなくバックだ。

 明かりは何もない。真っ暗な山の中。


 不安がよぎった。


「岸ちゃん、ねえ、これ、どこに行くの?」


 左上のバックミラーを見る。

 映った岸本が、わずかに頭を傾げる。彼女の長い髪も一緒に傾いた。


「ますくん」

「うん」

「ごめんね」

「え?」


 かすれた声が車内に零された。


「さよなら」


 ひときわ大きく車体が揺れた。


「おわっ」一瞬だけ前を見て、バックミラーに視線を戻した増田は、言葉を失った。


 誰もいなかった。


 後部座席には、何の影もなかった。


「岸ちゃ」


 突然、ヘッドライトが真っ直ぐに闇夜を突き抜けた。

 慌ててブレーキを踏む。タイヤが土を巻き上げる。浮きかけた体をシートベルトが抑える。ぐえ、と腹が締めつけられる。


 ゆっくり運転していたことが幸を基したのか、車はすぐに停まった。


 ハンドルを握りしめたまま、増田は浅く呼吸を繰り返した。


「岸ちゃん?」


 振り返るが、やはり岸本はいない。


「……」


 ハイビームのまま、ドアを開けて外に出た。胸ポケットに入れていたスマホを取り出し、ライト機能をオンにする。

 一歩先を照らす。枯葉が大量に落ちていた。恐々と地面を踏みしめた。

 ライトを動かすと、茶色い地面が照らされた。近くに木々は生えていない。この空間だけがぽっかりと空いている。


 増田はゆっくりゆっくり進む。


 車のライトが、朽ちかけた木製の柵を照らしていた。細く低い柵で、触れた所からドミノ式に崩れ落ちていきそうなほどボロボロだった。

 スマホのライトを向けながらそっと近寄る。

 柵に触らないように、恐る恐る覗き込む。


「―――ひっ……」


 喉の奥から悲鳴が漏れた。


 柵の向こうには、崖があった。


 夜だから、はっきりとした高さはわからない。ただ、底のない闇が口を開けて待っている。


 間違えて足を滑らせたら。

 いや、あのまま車で突っ込んでいたら。


 膝が震えてきて、増田は後ずさった。


 物陰が視界に入る。

 軽く悲鳴を上げて横を照らすと、蔦に覆われたベンチがあった。

 柵と同様にボロボロだった。

 ライトで照らしてあたりを見回した。ベンチと柵以外は何もない。街の明かりが見えないので、山の裏側だと思われた。

 幸いなことに、どうにかUターンできるだけの余裕はある。


 増田は、深く息を吐いて、ひとまずタクシーへ戻った。


「……」


 運転席に座り、ライトを消して、車のエンジンを切る。

 あたりが静寂に包まれる。

 音はないし、光もない。

 全てが真っ暗だった。


「岸ちゃん……」


 後部座席には、誰もいない。

 彼女は掻き消えてしまった。

 増田は顔を覆う。

 しばらくして、ハンドルの下部に手をかけた。

 深いため息が吐かれた。


「なんで」


 彼のつぶやきは、車内の空気に吸い込まれる。


――はじめ、俺、岸ちゃんのこと、幽霊かと思ったんだよ。


 増田の視線は、ハンドルの中央を眺めたまま、止まっていた。


――ほら、よくあるじゃん? 拾った客に道案内されるやつ。


 いまはもう、岸本の声すら思い出せなかった。


――バッカだよなー。


 汚れたワンピース。ボサボサの髪。かすれた声。


 彼はガシガシと頭を掻いた。


「あー、ほんと、バカだな、俺」


 ハンドルに顔を伏せた。クラクションがパーッとけたたましい悲鳴を上げた。

 

「――あ、」


 会社の先輩が、峠で女を見かけた事がある、と言っていたのを、ふいに思い出す。





「夜も遅かったし、女は反対車線に立っていたから、気づいたときには通り過ぎていたんだ」


 先輩は肩をすくめていた。


「だから、本当に女が立っていたかどうかはわからない。幽霊だったのか、人間だったのかも曖昧なんだよ」





 茶化すような言い方だったので、増田は笑ってその話題を流した。昨日の夢の話を聞いた時みたいに、そんなこともあるんすね〜、くらいの軽さで。


 そうだ。次第に思い出してくる。いつのことだったか。3年前のことだ。


 3年前。


 岸本の出で立ちを思い出す。


「そっか」


 長く吐かれた息は、ゆるゆるとほどけていった。


「寂しくもなるよなぁ」


 長い間、独りで寂しくて寒いから、俺を呼んだんだよな。崖の前まで導いたんだよな。

 胸がぎゅっと締め付けられる。


 じゃあ、なんで謝ったんだよ、岸ちゃん。

 よく聞く怖い話みたいに、滑落の寸前まで案内すればいいだろ。死ねば良かったのに、って言えばいいだろ。


 なんで。

 知り合いだから?

 なら、なんでここまで俺を連れて……


 なんとなく泣きそうになる。

 彼女は消えた。その悲しさが心に滲みて苦しかった。

 もうここに用はない。二度と来ることもない。

 たぶん、二度と、会うことも。


 ズ、と鼻をすすり、深呼吸をする。

 もう、深夜だ。メーターも制限を超えただろう。今日の業務は終わった。

 腕時計は0時38分を示していた。


「帰るか……」


 増田は顔を上げて、不意に固まった。

 フロントガラス越しの光景に「あ」と間抜けな声が漏れた。

 思考の停止。

 そして、体の奥底から衝撃が突き抜けた。

 息をするのも忘れた。

 15年以上前の感動が一瞬でフラッシュバックした。

 慌ててドアを開けて外に出る。

 冷たい風が吹く。


 彼の頭上に広がる、新月の秋の夜は、満天の星を湛えていた。


 強い光から弱い光、白、赤、青、黄色、薄く伸びる天の川。何もかもが、まんべんなく、快晴の空全体に散らばっている。

 星の名前なんて、星座なんてひとつもわからない。でもそれは、言葉を失うほどの美しさだった。

 増田は、その感動を知っていた。


「……岸ちゃん」


 目の前によみがえるのは、中学の文化祭。

 彼女が手がけた演出だ。





 劇のクライマックス。


 暗幕をすべて下ろし、電気を消して、体育館は真っ暗になった。

 役者が配置についたことを確認した増田は、岸本に合図を送った。合図を受け取った岸本は、機材のスイッチを入れた。


 それは手作りのプラネタリウムだった。


 真っ暗な体育館で、満天の星が、舞台の壁に投影された。


 スポットライトさえ消しているから、観客に主人公とヒロインは見えない。ただただ星が浮かび上がる。弱くて頼りない星の明かりが。


 主人公役が、ステージに座ったまま、穏やかな声音で言う。


「ほら、見て」


 ここだけは、岸本がセリフを決めた。


 そうだ。


 すべて彼女プロデュースの、渾身の刹那だった。


「明かりのない場所だから、星の明かりは届くんだ」


 体育館にはしっとりとした冷たい空気が漂っていた。悲しさと優しさがない混ぜになった空気。

 誰もがフィナーレを見守っていた。


「僕はもうすぐ死んでしまう。悲しいけれど、ここでお別れ」


 だから。


「幸せになってほしい、なんて言ってくれて、」


 優しさを、ありがとう。

 それから、


「受け取れなくて、ごめんね」





 街の明かりも外灯の眩しさもない闇夜。

 今日は新月。

 増田は車にもたれながら、少しの間だけその空を眺めていた。


 彼は目を閉じて、瞼の裏に星型のホクロを焼き付けた。


 目を開いて、瞬く星を見上げた。


 やがて、ぐっと伸びをして、車内に戻った。


 エンジンをかけた。


 ヘッドライトが展望台を照らした。


 狭い空間で小刻みに切り返して、タクシーは頭から山へ分け入り、ゆっくりと山道を下っていった。


 緩やかな風が吹き抜ける。


 遠のくエンジン音も空気に溶けたころ、秋の夜が一層深くなった。




 そして彼女は、静かな眠りについた。

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そして彼女は眠りについた 鯨井あめ @amenohashira

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