14 深夜の川下り

「さ、お乗り下さい」


「う、うむ。しかし余は川下りなぞ初めてなのだ。せめてもっと大きい船にできないのか?」



 サミュが川にロープで固定されている船を前にして足を止める。

 

 彼らが乗ろうとしている船は四、五人乗り用の細長いカヌーのようなものだ。

 他のもう少し大きな船には船尾の部分に帰りの川上り用のための高いマストがあって大きな帆が畳まれて包まれているが、これにはそういうものがない。

 なぜかというとこのぐらいの大きさであればそういう魔術など無くても専用の馬車に乗せて運べるからだ。

  

 知識としてこの川下りを人々が楽しんで利用しているということはサミュは知っていた、さえどいざ自分が乗るというのはさすがにおっかなびっくりだった。

 それに今は止んでいるが先ほどまでの雨のおかげで増水しているのは明らかで、水流のうねりと音が激しい。

 もし転覆でもしてしまえばおそらく命はないだろうという予感があった。



「あまり大きなものですと操舵が大変になるのです。二人だけならば小さいサイズの方が扱いやすい。どうかご容赦を」


「むぅ、仕方あるまい。服も粗末だがこれも我慢か……」


「追手から隠れるためには辛抱も大事です」


 サミュは今、服装も一般の町人のような服に着替えていた。

 これは道中でどうなるかも分からないとクレアが用意していた服の一つだ。オーバーンから「隠密行動となるので目立たず怪しまれない格好にして下さい」と要望され引っ張り出してきた。

 いかにも貴族らしい高価そうな服であれば確かに目を引いてしまうのでその理屈は最もだと彼も思ったのでそれ以上の文句は言わない。

 他に小さめのリュックも担いでいて、中には金貨や数日分の着替えも入っている。

 オーバーンも鎧は脱いで剣と荷物だけを持ち旅人風を装っていた。


 意思を固めてサミュが片方の足から乗り出すとそれだけでで不安定に水に沈み揺れる。馬車とは違う感覚にやはり不安を覚えた。



「お、思ったより揺れるのだな」


「すぐに慣れます。今しばらくの我慢をお願い致します」


「あぁ、そうだな。今更戻るわけにもいかん」



 一度だけサミュは後ろの宿がある方向を振り返る。

 色々なものを置いて無断でここにいた。しかし後で取りに戻るつもりはあるのだ。 



「途中、三つの村を経由します。まずは朝までに一つ目に付いてそこで一旦休憩と致しましょう」


「分かった。全て任せる」

 


 城に最も近い目的の町まで三日ほど掛かり、それまでに高速道路のパーキングエリアのような感覚で村が三つある。観光目的なら一つ下るぐらいでお腹いっぱいになるが、旅人などは歩くよりも格段に速いのでそのまま継続して乗っていく。


 サミュは出来るだけ船を揺らさないようバランスを取りながら真ん中に位置取り、用意されていたクッションのようなものに腰を沈めた。

 オーバーンはロープを解いて船頭せんとうに立ち長いしゃもじのようなかいと呼ばれる木製の棒を使って漕ぎ出す。


 船はついに岸から離れ轟々と流れる川に身を任せて滑り出した。



「暗いな。大丈夫なのか?」


「今、明かりを出します。暗闇に道を失い盲目なる我らに導きの光を<<照明ライト>>」



 オーバーンが詠唱すると船の周りが蛍のような淡い光に包まれる。

 それにその光量は思ったよりも多く、ある程度操作できるようで前方に集中させると月明かりだけの視界がかなりマシになった。

 


「なんと! 貴公、魔術が使えたのか!?」


「ええ、ただ不勉強なものでして私はこれと簡単な治癒ぐらいしか出来ませんが……」



 家のコネがあったとしても近衛として入れた経緯には彼のそういった才能も加味されていた。

 しかし持って生まれたその稀有な能力を彼はあまり伸ばそうとはしていない。

 


「(攻撃魔術を使えるのであれば良かったのに……。治癒や明かりなど女が使うものだ)」



 偏見が自身の可能性を閉ざしてしまっていたからだ。魔術は使える者が少ないため謙虚に鍛えればそれなりの立場も築けたろうに。

 だからこそ彼は増長しがちな性格になってしまったとも言える。


 そしてグラっ船が傾いた。



「うわっ!」



 突然の揺れにサミュは大きな声を出してしまう。



「思ったより流れがきついですね。しっかり捕まっていて下さい」


「あ、あぁ!」



 意外とオーバーンの櫂捌きは悪くない。

 実は彼は小さい頃に家族とこの川にやって来て自分で漕いでみたいと駄々をこねてやらせてもらった経験があった。

 その時も褒められたもので、予想外の才能を発揮している。


 けれどこの川下りはそもそも最低でも船頭と船尾に一人ずつ付けて熟練の息の合った技で下るのが基本だった。もっと大きい船になると四人掛かりだ。そうでもしないと水流の抵抗負荷が大きく一人では体力面でも危険が大き過ぎる。

 そのことをサミュは知らなかったし、オーバーンは知っていても黙っていた。

 もしそんなことを正直に話せば二の足を踏まれ話がおじゃんになることも予想されたからだろう。

 

 さらに追い打ちを掛けるのは夜という遠くを見渡せない暗闇と、雨上がりの水量。

 要はオーバーンは功を焦った挙句に川という自然を舐めて掛かってしまっていた。


 今はまだ川幅が広くて特に障害物なども存在しないおかげで素人に毛の生えた程度のオーバーンでもようやく乗れているというのが現状の正しい評価だ。

 そして苦難の時は無常にも訪れる――



「も、もう腕が……」



 二時間も漕いだ頃だろうか、一人で奮闘するオーバーンの足腰と腕に限界がきていた。

 通常は二人で行い、しかももっと穏やかな流れで運行する。完全に見誤っていた。

 


「お、オーバーン!? せめて岸に移せ! それならばまだ飛び乗ることもできる!」



 弾けるようにサミュが指示するがオーバーンはぐったりと上半身を傾けて動きは緩慢だ。

 反対に操作する力が無くなってきたせいで船のスピードは上がってきていた。

 


「わ、分かっております……しかし、先ほどからやっているのですがもはや持っているのも精いっぱいで……」


「え、ええい。代われ! 余がやる!」



 こんな状態のオーバーンに船頭せんどうをさせるのは堪ったものではなく、サミュが立ち上がり櫂を手繰たくろうとする。

 


「あっ!」



 だというのに近付いた瞬間、船が揺れて足元が狂いオーバーンと軽く接触してしまった。

 そしてそのせいで彼は櫂を落としてしまい、空しく川に流れ流れていく。



「な、なんということを……」



 オーバーンは口を開けて放心した。

 もはや船はハンドルもブレーキも無い車と変わらない。

 運良く岸に近付ければいいがもしそうでなければどこかで座礁し転覆だ。このまま気ままな流れに身を任せるしか術が無くなってしまった。それも数時間ぐらいならまだいい、下流の海まで着かなくなったとしたら一体何日掛かるのか。いや、途中で川の藻屑と消える方が確率はうんと高いだろう。絶望してしてしまうのも無理はなかった。



「す、すまない……」



 頑なに謝ろうとしなかったサミュも思わず口から謝罪が出てしまう。

 それほどまでに困窮していた。だがしょせん見せかけだけの忠義を尽くすオーバーンの怒りはそれで収まるはずもなかった。彼の忠誠心は薄くサミュに対して利用できる価値があるかどうかでしか考えていない。それも絶たれついに理性のブレーキも壊れて本性が剥き出しになる。



「お前のせいで……お前のせいでぇ!」



 もはや猫かぶりを外したオーバーンは殺意を込めて自分の胸の位置にあるサミュの首に両手を掛けた。

 

 王子として育てられ、当然危害を加えられたことなどないサミュは一瞬、自分が何をされているのかも分からなかった。

 それどころかこんな憎々しげな視線を向けられることだって初めて。故にその行動を無防備で許してしまう。



「かっ……は……」



 首が圧迫され気道が締まり、振りほどこうと体は自然にオーバーンの腕を掴もうとするも力が足りず指は滑るばかり。

 まだ幸運だったのは酸素が急速に失われる意識障害のおかげで痛みが少ないこと、それと疲れのせいでオーバーンの込める力がほとんど入らず首の骨が折れて即死はしなかったことだろうか。

 


「こんなことなら! こんな馬鹿王子のせいでこんなことになるのなら一緒に出るんじゃなかった! くそっ! 疫病神め!」



 オーバーンをこんな独断の馬鹿げた逃避行に走らせた理由の一つには、あのメイドとのことがある。

 今はまだ大きく問題にされてはいないが奴隷との間に子供を作ったなどと知られればいい恥さらしと取られ、上手く帰還できても騎士団の中にも家の中にも身の置き場が無くなってしまう。

 彼女の妊娠が発覚した時点で、たとえ仲間を裏切ってもその失点を取り戻さなければならなかった。

 


「や、め……」


「お前のせいで俺は何年もあんな僻地で暮らすことになった! 父上にも見限られお前のせいで出世の道が閉ざされたんだ! もうお終いだ! 死ね! 死んでしまえ!」



 遠のく意識の中でサミュはその恐ろし気な瞳に恐怖する。

 自分の命を狙う暗殺者は確かに怖かった。けれど騎士たちに守られ直接対峙することもなかった。

 けれどこの直接ぶつけてくる獣のような生々しい憤激に身を晒されることに、まるで裸で雪の中に放り出されたかのような感覚に陥る。


 脳裏には汚らしい目つきでこちらを見る父、優しく微笑む母、真面目な顔をして佇むクレアの姿が見えた。

 もはや会えないと自覚して体の反応か感情の慟哭か涙もとめどなく流れていく。

 それは走馬灯だった。



「……あ……」



 もうサミュは何も考えられなかった。

 手足が痙攣を起こし世界が白く染まる――ところで大きな衝撃が彼らを襲う。



「なっ!?」



 岩礁だ。何十年、何百年、激流に晒され耐えてきた頑強な岩に木製の船などビクともしない。がくんと足を付けている船が激突の衝撃で傾き転覆した。

 本来なら櫂を使って避けなければいけないそれを彼らは見落としてしまいもはやリカバリーは効かず空中に投げ出され、視界が反転し二人はその身を荒々しい水流に飲み込まれる。


 自然は無慈悲だ。

 そこに善悪もどんな事情も加味されない。ただただ冷淡に等しく二人を水の底へと誘う。



「が! こ、こんな! 俺がこんなところで! がぼがぼがぼっ……」



 オーバーンは水面で必死で泳いでもがこうとするも、体力が残り少ない彼には圧倒的に生み出せる浮力が足りなかった。

 どんどんと沈む体に抗いようのない圧が掛かって押し出され、口にも苦しいほどの水が侵入していき、ついには全ての力を使い果たし底なし沼に沈むがごとくそのまま浮かび上がることもなく消えていく。

 サミュも一度も浮かび上がることのないまま深い激流へと流されていった。


 何事も無かったかのように水面にはもはや何も残らず綺麗さっぱり二人の痕跡が途絶えてしまったのだった。



□ ■ □


 突然、地鳴りがしたと思ったら建物が揺れていた。

 ただ振動はすぐに止み、何事も無かったかのように平穏を取り戻す。



「な、なんだ!?」


「たぶんまたあいつだろう」


「またか……」



 その建物――洋館というのに相応しい屋内にいる男たちは小さくため息を突く。

 


「一体これで何度目だ? 馬鹿の一つ覚えみたいに」


「どうせまたカナタさんが何とかしてくれるだろうよ」



 男たちの視線は二階の一番端の部屋に向かっていた。

 

 その視線の先、部屋の中にいるのはブリッツだ。

 彼があてがわれた一室の壁を自分が通れる程度の大きさに拳で粉砕したところである。


 【僧兵】という大和伝の職業は基本的に己が肉体を駆使し、拳、足、膝や肘、頭だって武器と為し攻撃する職業だ。

 なので普通の建物の土壁ぐらい本気を出せば板チョコの壁を殴っているようなものである。



「さて、逃げるか」



 囚われの身のはずなのに意外と血色が良いブリッツは太陽の光を浴びて肩を回した後に二階から跳んだ。

 数瞬後にふわりと一切のダメージを受けずに着地した彼はきょろきょろと辺りを見回す。



「どこへ行くんですか? もうちょっと落ち着きを持ってもらいたいものですね」



 そこに声が掛かる。

 彼方だ。彼も同じ洋館にいて、ブリッツ逃亡の音を聞きつけて先回りしていた。



「落ち着きだって? ここに連れて来られてずーっと軟禁されてるだけじゃねぇか。暇で暇で退屈なんだよ」



 ブリッツが言うことは本当で、彼方のお供である『絶影』の背に乗りやって来たこの屋敷に連行されたのはいいものの、それから特に尋問や拷問などされることもなく閉じ込められているだけだった。



「それは申し訳ないんですけどね。こっちにも段取りってのがありまして。でももう‘四回目’ですよ? いい加減、敵わないと理解して下さいよ。あなたが壁を壊す度に違う部屋に交換してもう余っている部屋があんまり無いんですよ」



 これも本当だ。

 すでにブリッツは三度の逃走に失敗していて、そのすべてを目の前にいる彼方に邪魔されていた。


 のらりくらりとした彼の態度にブリッツは鼻に皺を寄せる。

 


「はんっ! 知ったこっちゃねぇ。俺を出したくないのなら丸太ほど分厚い鉄の檻でも用意するこった」


「あなただけのためにそんな非効率なもの作るわけないじゃないですか。それよりも人同士なんですから話し合いで解決するべきでしょう?」


「三回も実力行使で阻んできたやつが言う言葉じゃねぇよ!」



 言ってブリッツは手甲をメニューから装備して構え、彼方も腰に差した長物を抜く。


 これが四度目の挑戦だ。相手はレベル百二十四。大和伝の常識では一対一では普通は勝てない格上の相手だった。

 しかしブリッツは臆することなく戦意を滾らせタイミングを計る。

 ジリジリと威圧感だけで肌が泡立つものを感じながら数秒が経ち、ついにブリッツが仕掛けた。



「ふっ!」



 一直線に彼方へと向かい拳を振り上げる。

 彼のパンチは凶悪な威力を秘めていて、当たれば大木をもへし折るだろう。


 けれど必殺の一撃は不発に終わる。

 彼方の繰り出すリーチが長い刀に牽制されたからだ。長いだけじゃなく、速さもある。気付いた時にはもう顔の傍というほどに見えない。

 だから顔の直前、数センチ手前を切っ先が通過して足を止めざるを得なかった。



「搦め手は苦手なようですね。そんな単純な動きじゃ僕は崩せませんよ」


「黙ってろ! 今、タイミングを計ってるところだ!」



 ヒュンヒュンと風を切る音がしてさながら鞭のように日本刀の刃が空間を瞬きする間に何度も切り裂く。

 踏み込めばバッサリと斬られるのは容易く想像が付き、迂闊には攻め込めなかった。

 拳を叩き込むのにたった三メートルほどの距離だが、その三メートルが恐ろしいほど遠く果てしない。

 これまで三度共、圧倒的な力の差の前に一撃も入れられずに敗れていた。



「ずっとそこで立ち止まっているつもりですか? こっちはそちらに合わせてあえて斬り込まないであげているんですよ。せめてもうちょっと楽しませて下さい」


「うるせぇな。逆の立場になってみろってんだ」


「まぁ届かなくてもこういう小細工はできますけどね」



 ふいに地面の土が舞う。

 無論、それを起こした犯人は彼方。彼が刀の切っ先を土に突き入れ跳ね上げたのだ。

 


「ちっ、うざったい真似をしやがる!」



 刀以外にも土片がブリッツに降り掛かり彼はさらに縮こまってガードの構えを固くする。

 


「どうせなら術でも使ってみてはどうですか? 突破口はそれぐらいでしょう?」 



 同レベルであれば職業的にブリッツの方が速度的に上になるのだが、ステータス的には力も速度も防御力も全てが格上の相手。

 それを一人で攻略するには素の力だけでなく、何かしらの術や作戦が必要に違いなかった。


 だというのにブリッツは再び愚直に突っ込む。

 当然のように横からの一閃を、どちらかというと誘って両手の手甲でブロックし奇妙な鍔迫り合いのような形になった。



「必要ねぇ。ラグビーやってた俺の現役時代のポジション知ってっか? プロップって言って最前線でチームを支える役目だよ。退いたら負け。俺は前にしか進めねぇのさ!」



 ステータスの力の数値では彼方に分があった。なのに僅かに彼方の方が押し込まれていく。

 一歩、また一歩とブリッツの歩みが進み、同時に彼方は後退せざるを得ない。

 


「くっ! こんな馬鹿なことが……」


「ゲームでも数字だけが全てじゃなかったろ。反射神経や術を使うタイミングでレベルが上の相手に勝つことだってあるし、この世界でならもっと顕著だ。三度も負けてようやく目が慣れてきやがった。タックルのコツはな、腰を落として足から頭まで一本の棒が背中に入っているのを想像するこった。あとは仲間と祝勝会で飲むビールの味を思い出すだけさ!」

 


 彼が言いたいのは単なる力比べであっても技術や精神論も加味されるというものらしい。

 事実、目の前でそれを証明されているのだから彼方は澄ました顔を捨て困惑を隠せなかった。



「付き合ってられませんね!」

  

 

 ただの押し合いと化した勝負は、彼方が無理やり刀を弾き距離を取ろうとすることでうやむやになる。

 もちろんそれはブリッツの罠だ。彼はこの瞬間を待っていた。

 間髪入れずに肉薄して猛ラッシュを叩き込む。



「うおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」



 長い刀は見た通り近付かれると取り扱いがし辛い。それはいくらレベルがあろうとも同じことだ。

 なのでマシンガンのごとく小刻みに繰り出される殴打に彼方は剣で切り結ぶのではなく、剣を盾にして防ぐ方法を取った。

 おかげで超接近戦は互角の様相を見せている。


 今まで無様にブリッツが三度挑んで負けたのは、こうして自分を鍛えることにあった。

 彼方が直接的な危害を自分に加えにくいことを利用して、目を慣らし度胸と覚悟を決めて彼の油断を生むこと。負けも含めてブリッツなりの勝つための戦術でこの拮抗は執念が産んだ奇跡だった。



「ええい! ―【刀術】三爪斬さんそうぎり―」



 堪らず武器術を発動する。

 斜めに袈裟斬りされたのは一刀のみ。しかしながら刀の軌跡は三つ生まれた。

 二つは術によるアシスト効果だ。



「ぬあっ!?」



 鋭敏にブリッツは反応して防御しながら後退したが、それでもガードした腕に三本の刀傷が刻まれてしまう。

 だが傷は思ったよりも浅い。術で斬られたというのに腕の表面の肉を軽く削がれただけで骨には達していないのだから。

 それでも毛細血管がズタズタに破裂し血は流れていく。

 


「痛てて。―【仏気術】日天の癒し―」



 ブリッツが痛みに耐えながら術を発動させると、徐々にその傷が徐々に塞がっていく。

 時間経過と共に少しずつ治っていく自己回復術だ。彼の丈夫な体とこの術があれば痛みも擦り傷程度のものに減衰されるだろう。

 それでもこの程度の怪我で済むのはおそらくは手加減をされているとブリッツは感じた。



「少々面くらいましたがやはり一対一では断然こちらが優勢なようですね。ちょっと卑怯だとも感じていますが巡りあわせだと思って諦めて部屋に戻って下さい。私は別にあなたを無暗に傷つけたいわけじゃないんですから」


「ふっ、まだ差はあるみたいだがよ、ついに術を使わせることには成功したよな? 俺はもっと強くなっていくぜ。数日後か、数週間後か分からないがきっと吠え面をかかせてやるよ」


「――おぉ。楽しそうなことやってるねぇ。おじさんも混ぜてくれよ」



 対峙する二人に向かって水を差すような陽気な声が掛かる。

 ブリッツが振り向くとそこにはいつの間にか二人が立っていた。


 一人は今、声を発した四十路ぐらいのの男。身長は二メートルほどありそうで、どでかい大剣をかついている大男だ。

 野性味が溢れていていかにも戦士風。


 それともう一人仮面を付けた女らしいのもいた。真っ白な仮面だ。それに鍔の広い赤い帽子を被っていてなかなか特色のあるファッションセンス。

 それを見た瞬間、違和感というかより正確に言うならどこかで見たような既視感をブリッツは感じた。

 思い出そうと脳裏を巡らせてみるも、しかしすぐには出て来ない。



「ようやく来ましたか。例の方は連れて来ましたか?」


「そりゃもちろん。受けた仕事はキッチリこなす。それがプロってものさ」


「そうですか。ではこれで私もここを離れても大丈夫そうだ」



 二人のやり取りから彼らは知り合いのようだとブリッツは推察する。

 それも思ったよりは気やすい。つまり同じ所属か、それに近い立場にいるだろうと。



「おいおい勝ち逃げする気か? しかもお前がどこかに行くってことは俺の相手はこの二人がするってことらしいが、さすがに無理があるだろ」



 ブリッツも本気でここから逃げようとしていたわけでない。

 仮に逃げたところですぐに彼方が追って来るのは目に見えていたし、そうなるとさすがにこうしたトレーニングのようなこともさせてもらえなくなる。

 つまり半分は振りだ。もう半分は彼方をここに足止めしておくのが目的だった。

 それはブリッツなりの葵たちへの水面下での援護でもある。

 もしまた彼方が気が変わって葵たちに実力行使で向かったとしたら防ぎきれるかどうか怪しく、だから自分がここで彼方の気を引いている間に魔石集めに専念してもらおうという理由があった。

 なのでここから彼方が離れるとなるとその頑張りが無に帰してしまう。

 軽い挑発を混ぜてなんとか引き留めようとした。



「ヒュー♪ さすが異世界人は言うことが違うねぇ。自分たちだけが特別強いって思ってる。やだねぇ、おじさん、あんなのにはなりたくないわ」


「あん?」



 毒が籠った煽りにブリッツの眉間に皺が寄る。

 普段は面倒見が良い男だが、ラグビーの試合でも反則スレスレのことをしてくるようなダーティーな選手と当たると一気に血が沸騰してカっとなる一面も持ち合わせていた。

 年下や女子供ならまだしも、自分よりも年上で男であれば彼の優しさの対象外となる。

 百八十近い身長の自身ですら見上げる巨漢に臆することなく敵意を突き刺す。



「そんな怖い目で見ないでくれよ、おじさん怖くてブルっちゃうよ」



 先ほどブリッツのことを異世界人と呼んだ男。

 つまりブリッツが超人的な能力を秘めていることは知っているはずだ。

 だというのに命の危険を感じず、むしろ薄く笑う始末。


 ただの馬鹿かそれとも自分が手を出されないとタカをくくっているのか、これに対しブリッツは舐められるのは癪だからまず一発殴ってやろうと思った。



「もっとハンサムに整形してやるぜ」



 やや前傾姿勢で拳を振りかぶり瞬発するとすぐさま間合いは訪れた。

 ニヤける鼻面に挨拶の一撃が――入らない。

 空しく空を切り、目の前から大男が消え去る。否、予想以上のスピードで大男はブリッツに一歩踏み込み密着していたのだ。

 しかも膝が深々とブリッツの鳩尾にヒットしていた。



「がっ!」



 油断はあった。全力で殴ったら即死させかねないので手加減はしていた。

 だが、多少手を抜いていたからと言って素手でレベル百というプレイヤーに攻撃を差し込めるというのはあまりにも意外な出来事で、ブリッツは頭の中が真っ白になる。

 


「ほら足元がおろそかだよ」


 

 ブリッツは右足を斜め後方から刈られそのまま地面に引きずり倒された。

 まるで柔道技、もしくは組打ちだ。

 あっという間の鮮やかな手並みで肩を砂に付けさせられたブリッツは再び一瞬で闘志を燃やし、倒れたままの姿勢で左足を蹴り上げた。



「手前ぇ!」



 今度はけっこう強めの反撃だ。もしこのまま顔面に当たればひょっとしたら死んでしまうことはあり得た。

 それでも彼のプライド――特に一対一の相手に地面に転ばされるという行為はラグビーをやっていた彼にとって屈辱以外の何者でもない。

 つまり逆鱗に触れてしまったのだ。


 あまりの威力に、ボッ! と空気が穿たれる音がしてブリッツの履くブーツが大男の顔に迫る。



「ひょう! 危ない危ない。今のは食らってたらどうなってたか分かんないねぇ」



 しかし、大男は寸でのところで後退しそれを躱した。

 口ぶりはまだまだ余裕そうでどこまで本気で言っているのかが分からない。体格に似合わずひょうひょうとして掴みどころのない人物のようだった。


 追撃するためにブリッツは上半身を起き上がらせようとしたところで動きがストップする。



「ちっ。そういえばもう一人いたな」



 恨めしそうに睨む視線の先には仮面の女がいて、細いレイピアのような剣をブリッツの喉元に置いていたからだ。

 頭に血が上っていたせいもあるが、ここまでプレイヤーでもないただの人間二人に良いように手玉に取られていることにブリッツも気付いていた。

 慢心を捨てれば勝てない相手ではなさそうだったが、それだと生死のやり取りをすることになる。

 そこまでは今は望んでいなかった。故に抵抗を諦め両手を上に挙げて敵意を解くと、ピリピリと空間を支配していたものが拡散し始める。

 


「今日はもうやる気が失せた。何にもしねぇよ」


「らしいので、剣を収めてもらって結構ですよ」


「……」



 座ったままの姿勢からブリッツの言葉受け取ると、彼方が仮面の女に伝える。

 するとレイピアが引かれ鞘に戻った。

 それを確かめてからブリッツはゆっくりと立ち上がる。



「こいつら何者だ? 思った以上にやりやがる。この世界の人間でここまで強いやつは見たことがねぇ。軽くしかやってないが最低でもレベル六十……いやそれ以上はあるぞ」



 こちらの世界で数か月以上暮らし、しかも闘技場という強者が集まる場所に顔を出していた彼からすると想定外としか言いようがなかった。

 数人ならまだしも、このレベルの人間が大勢いるのならレベル百のプレイヤーとて安心できるものではない。

 ブリッツの想定だと最低でもレベル六十。つまりそれ以上の可能性だってある。とても放置できる内容ではなかった。



「では自己紹介してもらいましょうか?」


 

 彼方が視線を送ると大男が頷く。



「おじさんは女神の使徒リィムズアポストル・序列第三位『死を拒否するモノ』――ガルト。恥ずかしいからあんまりこの二つ名は言いたくないんだけどねぇ」

 

「お前らがそうなのか……」



 ブリッツが対面した女神の使徒リィムズアポストルは彼方以外ではこれが初めて。

 厄介そうな連中だとは思っていたが、まさかここまでの手練れだとは予期しておらず少し警戒度を上げる。



「……」


「ん?」


「……」


「おい、お前……」


「……」


「お前だよ。お前は名乗らないのか?」


「……」


「無視かよ!」



 順番通りに次は仮面の女が名を名乗ると思いきや、無言を貫いていてブリッツが癇癪を起した。

 緊迫感のある場面が台無しだ。


「ははっ、彼女はあまりしゃべりたがらないようでしてね。僕よりも新しく加わったもので大目に見てあげて下さい。名前は……『仮面ちゃん』とでもしておきましょうか」


「なんだそりゃ」



 彼方が情報を与えたくないのか、それとも単にからかっているのかブリッツには判断がつかなかった。



「おいお前ら! 連れてきたはいいが放置ってどういうことだ!」



 そこにまた新しい人物が割って入って来る。

 見た目はかなり歳がいっていて白髪も多い老人だ。ただ動きも普通の一般人で、声こそ大きくて元気があるがとても戦闘をしそうな感じには見えなかった。



「なんだ? 今度は爺さんかよ。人材豊富なようでなによりだ」


「ええ、私は彼の到着をずっと待っていたんですよ」


「は?」



 ちょっとした軽口のつもりだったのに、自分を圧倒する彼方が切望した人物だと言う。

 目を白黒してもう一度お爺さんを観察するも、やはり強そうには見えなかった。



「なんだこの鼻垂れ坊主は! 年寄りをもっと敬え!」



 ただまぁ、まだまだ長生きしそうなぐらい活力はある。

 それだけでは何も読み取れるものはなく、ブリッツは眉をひそめるばかり。



「説明が欲しそうですね?」


「そりゃまぁな」



 自分からバラしてくれるのであれば素直に聞くつもりはある。

 ブリッツは小首を傾げながら彼方の台詞を待った。



「彼は天恵使いです。それものね」


「は?」


「今からあなたに試させてもらいます。なに、痛くはありません、すぐに済みますから空でも眺めていて下さい」



 嫌な予感がして即座にブリッツが地面を蹴ろうとするが、しかしながらすでに体はガルトと仮面の女に抑え付けられていた。

 手加減している余裕はない。それにブリッツはどちらかというと細見の仮面の女こそに気味悪さを感じていた。



「ぐっ!」



 力任せにそれを振りほどこうとすると、彼方が肉薄し刀の柄頭を腹部に差し込み痛みに呻くことになる。

 思わず前に倒れそうになるが、がっしりと両手を掴まれていて倒れることも防がれた。



「やめろ! 離せ!」


「手荒くして申し訳ありません。でもそのお願いは聞けない相談です。さてじゃあお願いします」



 その彼方の言葉にお爺さんが首肯し、能力を使ったところでブリッツの意識は途絶えることとなる。

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