第五話 おはす


「先生。あたい、なんだか以前より体が怠いような気がするんだ。それに咳もなかなか治まらなくって……」


「ふむ。ならば薬を変えてみるとしようかの」


「先生、いつもありがとう。先生のお蔭でなんとかやっていけてるよ」


「なんの、お互い持ちつ持たれつじゃ」


「って言ったって、先生があたいに持たれることなんてないじゃないか(笑)」


「そんなことはないぞ」


「でね……先生、その……」


「金のことならば、気にする必要はない」


「……幻船せんせい。本当にいつもありがとう」


 朱引きの外側、代々木村のそのもう少し先の甲州道近くにぽつねんとある診療所で、いつもの通りに月のものが終わりを迎える頃にこの先生に診てもらいにきていた。

 夜鷹でおまんまに有り付いている以上は、それなりの覚悟はしておかなければならないとはいえ、やはり諸々の病は恐ろしく、年も重ねた今日この頃では別段なにということはなくても体のあちこちが軋み出す。


 そんな折、同業のおりくちゃんから、この先生の話を耳にした。


 場所は誰も寄りつかないような辺鄙な処で、所内にずらりと並べてある蛇や百足やらを酒に浸して入れてある壺は気持ち悪かったし、裏の畑には見たこともない草花なんかもあって薄気味悪かったけれど、この先生はあたいらのことを見下したりすることなく接してくれて、必要とあらば薬も出してくれる上に費用については「ある時払い、催促なし」ということで本当に神様みたいな人だった。


「で、おりくの方は、どうかな?」


「それが、今じゃ床上げできないようになっちまってて……」


「そうか。して、苦しみもがいたりするようなことはないかね?」


「そういうことは、特にないかな」


「……そうか。一度、診察に足を伸ばしてみるとしようかの」


 そういって先生は、おりくのぶんの薬も出してくれる。


「……せんせい、いつかきっと、このご恩は返させてもらうからね」


「そのように気にするものではない(笑)」


 あたいは心の底からの感謝を伝えたくて、出来る限り深く頭を下げた――


『……少し、調合を変えてみるかの』


 おはすの結った艶のない髷を眺めながら、ひとり心の中で呟く。


 人の死んでいく様をみる……それは、この世の絶対的な快楽に他ならない。

 それも生にしがみ付こうと必死な様子で絶命した者の表情は、どのような芸術的価値のある品でも太刀打ちすることはできん。

 ようやっとそのことに気付いた儂は、病人の死に様を安穏と見るだけでは物足りなくなり牢屋医師も務めるようになった。そして内・外いづれにも精通しておるお蔭で、そこで多岐にわたる作品を目にすることができた。

 やはり殺められた者は徒の病死とは違い、その表情は儂の求めているもの、そのものであった。

 怯えきって泣き叫んだであろう者、死の間際まで助けを乞うたであろう者、必死の形相で抵抗を試みたであろう者。そのいづれもが、唯一無二の作品であった。


 ――そうして儂自身も、いつしか芸術品を作りあげたいという欲求に駆られていった。


 儂はその欲求を満たす為、この診療所で数々の薬を調合しては、患者を死の淵へと誘いその過程をほくそ笑みながら見届け、身寄りのない者については、裏山へと連れて行き其処でゆっくりと制作に取り組み恐怖に慄き苦痛に歪む様を見て悦に入っておった。


 しかし――


 最近、見たこともない傑作に出会ってしまった。

 煉獄の中に放り込まれたかのように苦痛に歪むあの表情。

 悪鬼に喰らわれたかのような、あの最期。

 儂はあれを初めて目にした時、心が打ち震えた。

 あのように美しいものが、この世にあろうか?

 生を受けた者が最後に辿り着く仏果の境地のような、あの至高。


『素晴らしい……』


 儂は燦然と輝くその骸に、仏を見たような気がした。

 そして次に思い至ったのが、誰がどのようにしてその芸術品を作ったか、ということじゃった。

 隈なく外傷を探ってみたものの、何処にもそれらしい痕は残っていなかった。

 ならば盛られたかと思い、臓のものも調べてみたが何も出てこんかった。


『……』


 儂はこのことに大いに興味をそそられ、そして嫉妬した。

 それからというもの、ありとあらゆる方法を模索しているのであったが、未だにあの高みには辿り着けてはいない……じゃが、徐々に近づきつつあるという手応えのようなものを感じて、今は先におりく、次いでおはすに少量づつの試薬を与え、その成果のほどを観察しているところであった。


「気をつけて帰るのじゃぞ」


 儂はおはすの背に向かい、慈しみの言葉を投げ掛けた――。


「おはすちゃん、おかえり」


「あらやだ!? おりくちゃん、寝てなきゃ駄目じゃないか!?」


 この裏長屋の中でも一番狭く、そして鼻に付くけれども最も家賃の安いところであたいは今、おりくちゃんと寝食を共にしている。


「今日は少し具合が良いんだ。それに、おはすちゃんばっかしに大変な思いをさせたくないから……」


「なに言ってんだい。こんなこと、どうってことないさね。それに、おりくちゃんがいなかったら、あたいはとうの昔に死んでたんだからさ」


「おはすちゃん……」


「さぁさ、せんせいからお薬頂いてきたからね。重湯こしらえるから、ちょっと待ってておくれよ……!? ケホ、ケホッ!」


「おはすちゃん、大丈夫!?」


 おりくちゃんは咳をするあたいに慌てて近づき、その干からびた痣だらけの手で背中を摩ってくれる。


「……う、うん。ごめんよ」


「おはすちゃん、あんまり無理しないでね。いざとなったら私、ここを出――」


「さぁ! おりくちゃんが余計なこと考え始める前に、さっさと薬飲ませて寝かしつけちまおうかね!」


「おはすちゃん……」


 そうして、あたいはおりくちゃんと一緒に重湯で薬を流し込んだあと、身支度を整えていつもの客引きの場所へと向かった。


 ――それから十日ほどが経ったころ


「ゴホ、ゴホ、ゴホッ!……」


「おいおい、大丈夫かい?」


 あたいは急いで着物の袂から薬包紙を取り出して、すいづつの中の水と一緒に流し込んだ。膣の中に押し込んである御簾紙が普段よりもぬめりとする。


「ぅ、うん……悪いね。余韻も何もあったもんじゃないよね(苦笑)」

 

「別に構いやしねぇが、それにしたって只の風邪のはずが、ずいぶんと長引いてるじゃねぇか」


「うん……なんだろうね。最近、朝晩の冷え込みもきつくなってきた所為かもしれないね。でも大丈夫だよ。こうして幻船せんせいから頂いたお薬もあるしね」


「……あ? 幻船って、あの甲州道近くで診療所やってるせんせいかい?」


「達さん知ってんのかい?」


「あぁ。何度か薬の材料が足りねぇってんで、足を運んだことがあるんだけどよ……」


「? なんだい、急に黙り込んぢまって」


「いやな、あのせんせいだけどよ、ちっと悪い噂を小耳に挟んだもんでよ」


「……?」


「実はな、あのせんせい治すふりして、実は患者を殺っちまってるんじゃねぇかって噂なんだよ」


「!? なに馬鹿なこと言ってんだい! あたいは、あのせんせいにさんざお世話になってんだよ! いくら贔屓の達さんでも怒るよ!」


「わりぃわりぃ……でもよ、俺ぁ見ちまったんだよ。あのせんせいが薬研で芹をひいてるところをよ。芹っていっても毒芹だぜ? 薬になんかなるような代物じゃあねぇ」


「……」


「まぁ、あんまり知らねぇ相手のことをとやかく言うつもりはねぇんだがよ。お前ぇのことが心配なもんで、つい余計な口叩いちまった。勘弁な」


「……ううん。ありがとう、達さん」


 頭の後ろっ側で幻船せんせいのことを思い浮かべながら、あたいは達さんの背をぼんやりと見送った。


『今日は、早めにあがりにしようかね……』


 昨日、先生がおりくちゃんの様子を診に長屋の方へ来てくれていた。そして、「薬を変えよう」と言って、おりくちゃんとあたいのぶんの薬をくれて、「明日また来る」、そう言って三包のそれを間隔を空けて飲んでおくよう伝え小伝馬町へと向かっていた。

 来るとすれば、お役目を終えた後になるだろうから、そろそろかもしれない。

 さっきの達さんの話が心の中でどうにも小さな白波を立て始めていたので、あたいは蓆を畳んで小脇に抱えながら、そそくさと家路へと付くことにした――


「?」


 木戸をくぐると、何かざわついているような空気が漂っていた。あたいは胸の辺りで大きくなっていく白波を泳ぐようにしておりくちゃんの待つ家へと足を運ぶ。


「ちょいと、おはすさん! 今あんたのこと探しに行こうかってうちの人と話してたとこなんだよ!」


「おみねさん、どうしたんだい!?」


 隣の家のおみねさんが出てくるなり、あたいを見つけて素っ飛んできた。あたいはしょっちゅうやってるこの夫婦の喧嘩には慣れていたので、その大きな声にはちっとも驚かなかったんだけれども、今、そのおみねさんがあたいらの家から重く暗い様子で出て来たことの方に驚いていた。


「おりくちゃんが!」


「!? おりくちゃんが、どうかした!?」


 あたいは答えを待つよりも先に、おみねさんを通り越して自分の家へと足早に向かった。


「――!?」


 からりと開いてる障子の先に見えたものは、布団の中できちんと仰向けになって寝ている姿だった。だけど、それが誰なのかは、ここから見る限りでは絶対におりくちゃんだとは言い切れない。だって、顔に白い布っ切れが被さってるから……


「おはすちゃん。ついさっきのことだったんだよ」


 ざらざらと乾いた足音で追っかけてきたおみねさんが、あたいの後ろで話す。


「あたしが夕餉の支度をしてたら、何か苦しむ声が聞こえてきてね。それで気になって様子を見に来たんだ。そしたらおりくちゃんが喉の辺りを掻き毟るようにして血を吐いてたんだよ。あたしは直ぐに近くのせんせいを呼びに行こうと表まで出てみたら、ちょうど幻船せんせいっていう人が、おはすちゃん達の家を訪ねて来た

っていうじゃないか……で、直ぐに診てくれるようお願いして慌てて戻ったんだけど、その時にはもう息がなかったんだ……世知辛い世の中だよねぇ。なんでよりにもよってこんな良い子が体壊して亡くならなきゃならないんだろうね。そのせんせい、〈あと少し早ければ……〉って、悔しそうにそう呟いてたよ」


 そうして肩をそびやかすようにしたあと、そこから一気に溜息を吐きだし、「あんまり気を落とすんじゃないよ」と、そう言い、そして、「いま差配さんに頼んで葬式だしてもらえるようにしといたとこだから」と、そう付け加えて隣近所へその為の世話を頼みにざらざらと行く。


「おりくちゃん……」


 ばさりと蓆を落として、あたいは茫然となる。


『〈あと少し早ければ……〉って、せんせい。あと少し早かったら、おりくちゃんのこと、助けてくれたのかい? あたいの命の恩人、救ってくれたのかい? それとも他に違うことでも考えてたのかい? せんせいが何考えてたのか、わからないよ……あたい馬鹿だから、考えるの苦手なんだよ。せんせい、あと少し早ければ……なんだったんだい?』


 あたいは小刻みに震える足を動かした。けど、その方向は家の中じゃなくって、くるりと向きを変えた、表の方だった。

















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