第37話 終章 それぞれの日常へ

 戦いを恐れ、生き物が遠くに逃げた森の中は、静けさが支配している。

(……寂しいものだな。そういえば、長らく森で生活していないな)

 アネモイは、痛む体を起こし息を吸った。……土と木々の匂いがする。

 辺りは暗闇が蔓延る時間帯で、匂いだけが唯一安心感を抱かせてくれる。

 彼女は立ち上がり、剣を手に取った。

(申し訳ございません、カリム様。私は、駄目な女です。あなたのお傍にいる資格はございません)

 剣を喉に当て、目を瞑る。蘇る思い出は、手に取って触れられそうなほど鮮やかで。五感で、心で感じた全てが、ついさっき起きたことのように、頭を駆け抜けていく。

 ――知らなかった。走馬燈って、自殺でも見ることができるんだ。

 アネモイは、腕に力を込めて、喉に刃を食い込ませた。

 だが、表皮を切り裂くだけで、それ以上刃が進まない。

 どうして、と思い目を開ける。――目の前に一番会いたかった男がいた。

「カリム様……」

 パチンと鋭い音とともに、頬に痛みを感じ、アネモイは地面へと倒れる。

「アネモイ、貴様は妹を殺そうとしたな」

「……ハイ。あの女はあなたにとって障害になります。いくら妹君とはいえ、限度がありましょう」

「それを決めるのは貴様ではない。あまつさえ、勝手に死のうとしたな」

 怒っている。彼が怒るのは珍しくないが、アネモイには分かる。心底許せないと、思っている時の怒りだ。

(私は彼に殺されるのか。それはそれでよいかもしれない)

 呆然とカリムを見ると、アネモイは信じられないものを見て驚いた。

 彼の瞳は、涙で歪んでいた。

「カリム様……」

「馬鹿者。お前が妹を憎んでいるのは知っている。それでも任せたのは、お前ならば俺の意をくんでくれるだろうと思ったからだ。どうして、相談してくれなかった。無理強いなどしない。ましてや、死ぬなど許さんぞ。これ以上、俺に仲間が死んでいく姿を見ろと言うのか」

 ……ああ、私はなんてことを。

 アネモイは、軽薄な自分を責めた。分かっていたのに、どうしても自分の感情を抑えられなかった。彼女は両手で顔を覆い隠す。涙で濡れる姿など見せたくなかったから。

「アネモイ、俺を見ろ」

「できません」

「いいから見せろ」

 強引に引っぱられ、顔が露わになる。恥ずかしくて顔中燃え上がるように熱い。

「泣き顔を見たからと言って、嫌いになったりなどしない。俺の信頼するお前は美しい。だから、悲しそうに泣くな」

 アネモイはカリムの顔を恐る恐る見る。次の瞬間、彼女は笑ってしまう。なぜなら、

「カリム様こそ、だいぶ泣いてらっしゃる。あ!」

 カリムに抱きしめられ、アネモイは安堵する。心地良くて、くすぐったいような感覚が体中を駆け抜ける。

 時間にすれば、数分ほど。彼らは抱きしめ合い、離れた。

「さあ、アネモイ。帰るぞ」

「はい、カリム様」

「その前に」

 カリムは右手をかざした。はじめは、まるで変化がなかったが、やがて淡い光を放って、岩に似た物質が森の奥からやってきた。

「この者達は?」

「代弁者に囚われた者達だ。サンクトゥスが天帰りの儀を行っていたようだが、全員が天へ帰ったわけではない。お前達、残ったということは、人に対しての憎悪があるのだろう」

 返事はないが、代わりに強い光を放ってカリムに答えた。

「よし、ついてこい。人間共を根絶やしにする」

 カリムはそう宣言し、その場を去る。

 後には静かで暗い森の景色だけが残された。

 ※

「いらっしゃいませ。喫茶店アナザーです。本日は珍しいイカを使った料理を沢山用意しています。リーズナブルな価格でご提供していますので、ぜひ一度お召し上がりください」

 黒羽の大声が、祭りを楽しむ人々の耳に届く。

 

 琉花祭は、毎年琉花町で開催されている祭りで、エイサーやカチャーシーなど、沖縄の文化を発信させることを目的としている。

 地元民だけでなく、日本はもちろん海外からも訪れるだけあって、会場は人の波が途切れることはない。

「彩希、多色イカの胴体を輪切りにしてくれ。俺はイカ墨を使ってパスタを作るから」

「わ、私に包丁を使わせるの」

「大丈夫だって。前に握り方を教えただろ。左手で押さえて、ゆっくり包丁で切る。早く切る必要はないからな」

 祭りの会場は、琉花町内にある総合運動公園の広場を使っている。芝生が敷き詰められている広場で、中央にエイサーや演奏を行う人々が使うステージがあり、出店はステージを囲む形で丸を描いて並んでいる。

 喫茶店アナザーの周りには、焼き鳥や焼きそばなど、祭り定番のメニューを提供する出店が連なっており、ソースの香りがそこらかしこから漂っていた。黒羽はその匂いを切り裂くように、パスタに特製イカ墨ソースをかける。

「秋仁、輪切りにしたイカはどうすればいいの?」

「フライパンに入れてくれ。で、後は……どうした?」

 黒羽は調理の手を止める。彩希は、実につまらなそうにイカをフライパンに放り投げた。

「分かってるのよ。別にお祭りに来たからって、仕事だってことは。でも、せっかく来たんだから、少しくらい羽を休めても良いんじゃない」

 どうやら、祭りを堪能できないことを怒っているらしい。黒羽は、仕方ないと首を振った。

「彩希、これが終わったら遊びに行っていいぞ」

「一人で?」

「ん? まあな。俺はまだ……何だよ?」

 黒羽としては彼女の要望を叶えたつもりである。だが、不機嫌そうな顔がより一層濃くなった。これは一体どうしたことだろう、と黒羽は一度フライ返しを行って考える。

「……嫌、なのか?」

「こんな美女を沢山の人がいる場所に放りだすかしら? お供が必要でしょう」

「つまり、ボディーガード? お前には必要ないだろう。痛!」

 彩希は黒羽の背中を強打し、そっぽを向く。意味が分からないが、どうすれば良いのかは分かった。

「しょうがないな。ほら、あっちを見ろ」

 黒羽はステージの方向を指差す。ステージ上では、沖縄の伝統芸能であるエイサーを踊る一団が、パーランクー(手持ちの小型の太鼓)や大太鼓を叩き、見事な舞を披露している。

「あれってエイサーっていう踊りでしょう。頭に布を巻いて、不思議な衣装を着て踊るものって聞いたわ」

「誰から聞いた?」

「比嘉から」

 親友の胡散臭い顔が思い浮かぶ。完全に間違いとは言わないまでも、説明があまりにもいい加減すぎる。

「沖縄では、お盆って時期に祖先の霊が現世に帰ってくると信じられているんだ。で、祖先の霊を送迎する際、躍るのがエイサー。まあ、琉花祭では、単に沖縄の文化を沢山の人に知ってもらうために、やってるんだけどな」

 彩希は感心したように頷く。

「今ステージで踊っている人達が踊り終えたら、エイサーは終わり。後は、カチャーシーって踊りを皆で踊って、最後に花火を堪能して、祭りは終わるんだ」

「カチャーシーって儀間さんが言ってたものよね」

「そう。……まあ、何だ。その踊りを一緒に踊ろう。お店は、いま作ったパスタを売り終えたら閉める。これで満足ですか。お嬢様」

 彩希はニッコリと笑った。子供のようなこの笑みは、彼女が心底喜んでいる証拠だ。

(ふう、何とか機嫌が良くなってくれたか。あ、そうだ)

 黒羽は懐から紙袋を取り出し、彩希へと手渡した。

「何コレ?」

「開けてみろよ」

 彩希は袋を開けて、中身を取り出す。人差し指と親指に挟まっている物は、貝殻の髪留めだ。

「あ……」

「お前、プリウで物欲しそうに眺めていただろう」

「き、気付いていたの」

「いや、その時は気付かなかったけど、もしかしたらって思ったんだ。やっぱり、欲しかったんだな。素直に言えばよかったのに。……彩希?」

 黒羽が心配そうに顔を覗き込むが、彼女は顔を黒羽に見せようとはしなかった。

「ま、まあ。あなたにしては気が利いている方ね。ありがとう」

 彩希は前髪をさらりと手でなでつけ、髪留めを付けた。

「じゃあ、そのパスタ、さっさと入れ物に入れて。私が売ってくるわ」

 言われた通り、パスタを詰めると、彼女はひったくるようにそれらを持ち、屋台の外に出た。

「あ、おい。気を付けろよ。人が多いからぶつかるぞ」

 くるりと振り向くと、彩希は人差し指を自身の唇に当て、その指を黒羽の唇に当てた。

「はーい。すぐに売ってくるから待ってて」

 彩希は顔が真っ赤に染まる黒羽を置いて、軽やかに歩み出した。

 風に揺れる黒髪から現れる美貌に、男性だけでなく女性までもがため息をつく。

「いらっしゃいませー。喫茶店アナザー自慢のパスタです。美味しいですよ」

 明るくて、良く通る彩希の声。清楚で知的な印象を感じる彩希に、話しかけにくいな、と思っていた人々はその声で安堵する。

「すいません。一つください」

「あ、俺も」

「ありがとう。三百円よ」

 彩希にお金を渡し、若いカップルがパスタをその場で口に頬張った。

「んー、美味しい」

「お、マジだ。お姉さん。このイカパスタなに? 見たことないイカだけど、どこ産?」

 祭りの終わりに向けて、会場の熱気は高まっている。

 浴衣を着た女性。くじをもう一度引きたいと駄々をこねる子供。過ぎゆく季節を感じる老夫婦。

 人々がそれぞれの過ごし方で、祭りを堪能している。

 彩希は、それらの人々をゆっくりと見やり、やっと若いカップルに視線を向けた。

「知りたい?」

「う、うん」

「教えてくれよ。教えてくれたら、もう一個買うからさ」

 彩希は優しく髪留めを撫でると、目を細め妖艶に笑う。

「申し訳ございませんお客様。企業秘密です」

 喫茶店アナザーのたった一人の従業員は、自慢げにそう言った。

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喫茶店のマスター黒羽の企業秘密2 天音たかし @kkaazz

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