84.月の伝承
ロウたちが案内された城の浴場は、想像以上のものだった。
意匠の凝った
一目見た瞬間はあまりにも広すぎて、その上触れることすら戸惑うほどの
風呂に入って極楽極楽とはよく言ったものだ。
そのあまりにも気持ちよかった湯浴みの結果……
「ふぃ~、気持ちよかったぜ~」
「あぁ、本当にいい湯だったな」
「疲れも吹き飛んだわね」
「気持ちよかったです~」
「うむ。悪くはなかった」
「しかしまぁ、気持ちよかったのはわかるが……二人はどうやら浸かりすぎたようだな」
横になったセリスとカグラの顔は、真っ赤に茹で上がっていた。
ロウがセリスを、シンカがカグラを団扇で仰いでいる。
その横でリアンは牛乳を一気飲みしていた。
「だってよロウ~。気持ちよかったからよ~」
「そうですよ~。気持ちよかったからですね~」
「「……はぁ~」」
間延びした声で満足そうに言った二人に、ロウとシンカは同時に溜息を吐いた。
同時に数回の
「いい湯であったか?」
ロウたちがくつろいでいた部屋にパソスが入って来た途端、セリスとカグラは慌てて起き上がり、まっすぐに姿勢を正した。
「あぁ、本当にいい湯だった。ありがとう」
「それはなによりだ。そう固くならず楽にしてくれ。今ここにいるのは国王ではなく、一人の男だ」
言って、微笑んだパソスは先ほどまでの豪奢な服装ではなく、実に楽な恰好をしている。おそらくは寝衣なのだろう。国王ではなく一人の男だというのを、まずは見た目から変えてきた、ということなのだろうが。
そんな彼を前に、セリスとカグラはこくこくと無言で頷いた。
全然肩の力が抜けていないことにパソスが苦笑する中、シンカが問いかける。
「あの、陛下。ご質問が」
「陛下ではないというに……まぁよい、なんだ?」
一瞬不満げな表情を浮かべるも、パソスは先を促した。
「最初に会った時から、ロウに対して柔らかかったと思うんですが……どうしてですか?」
「……うむ。旧知の仲であるゲヴィセンの紹介だから、では不満かな?」
「は、はい……正直なところ、その……」
シンカの疑問も当然といえば当然だ。
いくらゲヴィセンの紹介とはいえ、謁見の間での態度は納得できない節がある。周りに兵や娘がいる中、表面上は形だけでも取り繕うものだ。
その上、この部屋に寝衣で現れたとあっては、その疑問もより一層深まるといったところだろう。
「はははっ、そうであろうな」
もっともだ、そう笑いながらパソスは過去を振り返った。
「そうだな、今からもう四年も前になるか。私が山道を馬車で移動していた時のことだ。急に外から悲鳴が聞こえてな。馬が急に走り出し、崖から落ちそうになったことがある。それを救ってくれたのは、一人の女性であった。他の者は皆、まるで神隠しにあったかのように姿を消しており、その女性は私を王都まで送り届けてくれたのだ。いわば、私の命の恩人だ。今思うと、あれも
「となると、その女性は魔憑だったのか。それと陛下が俺に温情をかけてくれるのと、どう関係してくるんだ?」
ロウ自身、やはりシンカのように気になっていたことなのだろう。
話の先を促すと、パソスは顎を撫でながら続きを話した。
「その女性がこう言っておったのだ。いずれ、この国にロウという人物が訪れるだろう。そのときはどうか、できる限りの力を貸してほしい、とな」
その言葉に、ロウたちは絶句した。
それが真実ならその女性は、四年も前から今日という日のことを予知していたということになる。
いくら魔憑とはいえ、そんな能力が本当に存在するのか。第一、何故その女性はロウのことを気にかけていたのか。
「その女性の名はなんと?」
「すまぬ、名は教えて貰えなかったのだ。ともあれ、私の命の恩人であるその女性が気にかけていた男であり、旧知の仲であるゲヴィセンのいるミソロギアを救った男。それが貴公らが知りたかった理由だ。そういえば、どちらも恩人であるからかして、どこか貴公と似ていたような気もするな」
ロウは過去の記憶を遡りながら、険しい表情を浮かべていた。
四年前、パソスが言った人物に心当たりがあるとすれば、ロウの中には一人しかいない。
何故なら四年前といえば、ロウがリアンたちと出会った時期でもあるが、同時にケラスメリザを訪れていた時期でもあるからだ。
つまりはロウの恩人であり、ロウに力を与え、ロウにこの世界を教えた女性もまた、このケラスメリザにいたということなのだから。
たとえ恩人とはいえ、四年前にたった一度出会った者の顔を鮮明に思い出すことは難しいだろう。その女性と本当に雰囲気が似ているのかどうかロウ自身にはわからないが、少なくとも四年前にいなくなった彼女、セツナもまた、黒き双眸と漆黒の髪を持っていた。
「それより、この国に伝わる話を聞きたかったのではないか?」
「は、はい」
シンカが頷くと、パソスはゆっくりと語り出した。
「この世界には七つの大国がある。我が国、ケラスメリザ王国。そしてヴェルヴェナ帝国、コキヤフレル共和国、ロスマリーノ教国、ラーナリリオ公国、ホルテンジア群島国、アイリスオウス中立国。そして国の主要たる町には、それぞれディザイア神話の一部が伝わっておるが、その内容はすべて違うのだ。うち、王都クレイオにはディザイア神話の英雄詩が伝わっておる」
パソスは魔石を取り出すと、そこから地図が浮かび上がった。
中央の大陸がアイリスオウス。
それを中心に、まるで花弁のように六つの大陸が伸びている。
「そして、ヴェルヴェナ帝国のカリオペイアに叙事詩。コキヤフレル共和国のメルポメネには悲劇。ロスマリーノ教国のポリュムニアに賛歌。ラーナリリオ公国のタレイアに喜劇。ホルテンジア群島国のテプルシコラに舞踏」
「ん? 一、二、三……それじゃ六つじゃないですか? 俺たちのアイリスオスが入ってないですけど」
セリスが指を折って数えながら首を傾げると、パソスは一言頷いて、先を続けた。
「アイリスオウスの歴史は浅い。なにせ、たった三百年前にできた国なのだからな。その前にあったのが今はなき、カリンデュラ亡国。この国のウーラニアには天文が伝わっておった」
そう言って、パソスが再び魔石をなぞると、浮かんだ地図がひっくり返った。
ちょうど、アイリスオウスの真裏に位置する大陸がある。地図を二つに割って比べることができるなら、まる鏡に映っているように見えるだろう。
「カリンデュラ亡国か。聞いたことがある。確か、今は人の住めない土地になっていたはずだ」
「うむ、リアンの言う通りだ。で、続きだが……各国の首都の名は、記憶を司る女神ムネモシュネが、ディザイア神話の記憶を残すために名付けたと言われておる。皆も知っているのはディザイア神話の教本や絵本の話だと思うが、それは子供向けに誰かが著したものだ」
歴史を辿っても、ディザイア神話の物語が世に出回ったのがいつからなのかを特定することは難しく、当然その著者も誰かはわからない。
ただわかるのは、ディザイア神話を題材にしたとされる絵本には、必ず【777】の文字が記されているということだけだった。
「そして、神話は各国にある一基の碑文に記されておる。先も申したが、この国の石碑に記されておるのはディザイア神話の英雄詩……これがその写本だ」
パソスが差し出した写本にはこう記されていた。
【碑文:英雄詩】――――――
此は希望の詩
幾多の命が失われし時、金銀の月がその威光を示す
死地へと舞い降りたのは、猛き想いと勇ましき想いを背負し使者
穿つ太陽、煌めく星、狂乱の月は死を告げる断罪者
弱き者の為にその拳を振りかざし、影を、大地すらも砕く
命を猟り取ろうとする影の存在を狩り尽くす
慟哭の最中、魂を糧にその想いを影へと刻み付ける
秀でる者達のその雄姿は
混沌の中で輝く希望そのものだった
―――――――――――――
「学者たちの見解は様々でな。書館に行けば詳しいものがあるだろう。この碑文があるのは、神々より送られたとされる花園なのだが……」
「花園?」
「ロウ、それって……」
「あぁ、マークイス級が言っていたな。花園に行くと。陛下、その花園っていうのは……」
「うむ。それは神々から送られたと伝わる花が、一年を通して咲き続ける不思議な場所だ。クレイオの花園に咲いているのは、フォックスフェイスという黄色い花だ」
花、というのは当然一年を通して咲くものではないく、季節によって移り替わるものだ。
アイリスオウスやケラスメリザは一年を通しても、さほど大きな気候の変化はないものの、一年中咲き続ける花など聞いたことがない。
ロウは親指を唇にあてながら考え込むと、リアンへ視線を向け、問いかけた。
「リアン、アイリスオウスにも花園はあるのか?」
「あぁ、議事堂の裏手、庭園を抜けた先にある錠のついた門を抜けると洞窟に繋がっている。確かそこがそうだったはずだ。立ち入りは禁止されているが、咲いているのがアヤメの花というのは間違いない。アイリスオウスの象徴だ」
アイリスオウスの国旗は菖蒲の花の文様であり、ケラスメリザの旗は黄色い花……フォックスフェイスの花だった。
つまり、各国の首都には花園があり、そこにそれぞれディザイア神話に関する碑文が存在しているということだ。
「アイリスオウスにも碑文はあるんですか?」
「あるはずだが、記された内容まではわからぬ」
英雄詩、叙事詩、悲劇、賛歌、喜劇、舞踏、天文……七大国で計七つ。
となれば、ミソロギアにある花園の八つ目の碑文にも、ディザイア神話の中の何か題材があるはずだ。そう思いシンカが問いかけるも、やはりパソスにも詳しい内容はわからないようだ。
そんな中、ロウは思考を纏めていくように小さく呟き、問いかける。
「三百年前、カリンデュラが消えた。そしてできたのが中立国のアイリスオウス。花は神々の贈り物。アヤメの花……希望、メッセージ。陛下、カリンデュラにあった花園の花は?」
「すまぬ。カリンデュラに関しては、何も伝え聞いてはおらぬのだ。ただわかるのは、数日で滅んだということと、調査へ向かった者たちが帰らぬことから、死の大地と呼ばれておること。それだけだ」
「ロウ、何かわかりそうなの?」
「いや……はっきりとしたことは……」
ロウの中にあったのは大きな違和感だった。
三百年前にカリンデュラが滅び、アイリスオウスが建国されたとするのなら、アイリスオウスにある花園と碑文は他国に比べて新しいということになる。
いったいなんの為に、それを作る必要があったのか。
もしかすると、カリンデュラの碑文がミソロギアに移されたのかもしれない。
しかしそうだとしても、一年中咲いているという花を他国に移すことは可能なのだろうか。
今すぐゲヴィセンかロギに話を聞きたいところではあるが、そうもいかない以上、ロウはとりあえずその事を頭の隅に置き、話の続きを促した。
「陛下、続きをお願いしたい」
「といっても、私の知る大抵のことは話し終えた。後は元よりこの国が信仰する神についてと月の伝承についてだが、前者はともかく後者は私が幼き頃より聞かされて育ったもので、碑文を元に作られた物語ではないし、そういった書物もない。実際のところ、どこまでディザイア神話に関係しているかはわからぬのだ……」
「構わない」
口伝、というほどのものでもない。
大抵の者は幼き頃、親に聞かされた物語の一つや二つくらいはあるだろう。
パソスの場合、それが月の伝承だった。
石碑に刻まれていたわけでもなく、書物として残っているわけでもない。
ただ、親から聞かされていた、ディザイア神話に出てくる月の物語。
「我が国、ケラスメリザ王国が信仰しておるのは月の女神だ。ここより少し離れた小島には、女神の神殿があると言われておる」
「月の……女神」
ぽつりと呟いたシンカの声は、緊張のせいで少し掠れていた。
生唾をごくりと飲み込みながら、続くパソスの話に耳を傾ける。
「他の国と違うところは、他国の崇める神は一人だが、月の女神は二人おってな。一人は女神セレネ様。もう一人が女神ユノー様。この二人の女神が月の国を束ね、守護しておられる。後にセレネ様の名がアルテミス様と改められた理由はわからぬが、どの国が信仰する神も七百年ほど前に名が改められたようだ」
信仰する神が二人いるというのは聞いたことがなかった。
他国とも違うと言っていることから、他国での信仰はやはり一神なのだろう。
そう考えるとより特殊な風習に思えるが、神の名が一斉に改められたというのも気になるところだ。
「その神々の世界でも、ユノー様は一目置かれておったようだ。そして女神直属の部隊――月の使徒。この存在が魔の軍勢の侵略を妨げ、神々の大戦においても大きく貢献したと、そう伝えられておる」
「……月の使徒」
考え込むように呟いたロウの記憶の中に、何かが引っかかったような感覚がするものの、それが何かを思い出すことはできなかった。
「そしてその月の使徒の中でも、一番有名な人物がおってな。これは私の見解だが、この国の碑文に記された英雄詩、その中に出てくる英雄こそが、月の伝承に出てくるその御方だと思っておるのだ。先代国王が言うには、月の伝承の物語は実際にあった話らしい。そう考えると、とても誇らしく思えてな。私も幼き頃、一目会ってみたいなどと子供ながらに思ったものだ」
そう口にするパソスの瞳と声は、まるで童心に返ったかのように熱を帯びていた。余程その物語の登場人物が好きなのだろう。
物語の中に出てくる実在しない人物に会ってみたいなど、当たり前だが一国の王にも可愛らしい子供時代があったのか。
そう、皆が微笑ましく思っていると……
「名をソティスというのだが――」
「ま、待ってください!」
シンカが急に大声をあげると、パソスは少し驚いたように肩を震わせた。
「カグラ、ソティスって」
「う、うん。ペルセの町で導きにでた名前だよ」
シンカが自分の記憶が間違っていないことをカグラに確認すると、カグラも少し興奮気味に頷き返した。
だが、もしそれが本当だとしたら……
「待て、どういうことだ? 導きとは、この世界を救う手掛かりのはずだ。導きがその名を指したということは、ソティスという人物は実在するのか? ディザイア神話にでてくる降魔や魔憑がいるのはまだわかる。だが、特定の名を持つ者までが実在するとなると……いや……そういうことか」
途端、リアンの脳裏に鮮明に蘇るある男の言葉。
”すべてがってわけじゃねぇが、その神話は真実だ。けどな、その真実じゃないって部分が問題でな……世界はまだ救われてねぇ。――滅びが始まるのはこれからだ”
降魔を目にしたこともなく、始めてエクスィの言葉を聞いた時、神話が預言書のようなものだと思った理由は簡単だ。
これまでずっと誰も降魔の存在など知らず、平和な世が続いていたからに他ならない。
そして近年になって、降魔が原因で起きた神隠しの噂が広まったのだ。
降魔と共に神話が始まる……つまり、神話に出てくる英雄を探し、神話に綴られたようにこれから世界を救うのだと思っていた。
だが、神話が真実であり、救われていない部分が真実ではない。
そしてこれから滅びが始まるのだとすれば――
「ディザイア神話はただの神話でも預言書のようなものでもなく、もしかすると……」
「歴史……なのかもしれないな」
リアンの言葉の続きをロウが補足した。
降魔や魔憑が出てきただけなら、それが予言書だという推測は正しかっただろう。しかし、ソティスという名が王都に伝わる月の伝承と導きの両方に出てきたとなれば、話は変わってくる。
ディザイア神話は世界の予言でも、空想の物語でもない。……実話だ。
そう、神話に綴られているように、おそらく世界は一度は救われたのだ。
神話に出てくる者たちの手によって、英雄と共に一度は降魔を討ち倒し、仮初めの安寧を迎えた。その平和こそが今の世であり……そして、神話は再び動き出した。
しかしそこで、新たな疑問が浮上する。
ディザイア神話が歴史だとするのなら、登場する人ならざる亜人や神々も実在するということだろうか。いや、それこそ有り得ないだろう。
だが有り得ないと思いつつ、降魔は現に実在している。完全に否定しきることはできなかった。むしろ……
”それは私も聞いたことがあるわ。女神様がご乱心なされたのかしら”
ロウの脳裏を過ぎったのは、ペルセの町で出会った名も知らぬ女性との会話。
そう、神隠しというのが近年になって流行り始めたのは確かだが、遠い昔にもその噂はあったのだ。それが執行の女神による裁きなのか、降魔の仕業なのかは定かではない。
それでも神隠しという噂が昔にもあったとなれば、すべての可能性を頭の中に置いておくべきだろう。
しかし結局のところ、何が真実でどの推測が正しいかという確証を得ることはできない。
……謎は深まるばかりだった。
「とにかく続きだ。陛下、話の腰をおって申し訳ない」
「かまわぬ。それで、ソティスについてだったな。他の精鋭の使徒を率いていた隊長が、そのソティスという御方だ。それはもう素晴らしい才の持ち主だったと、そう伝えられておる。過去に神界であった戦争で、偉大なる武勲を上げたことで有名になり、神界中にその名を轟かせたと。私の知る話はこれくらいだ」
「……女神の神殿がある島に行けば、もっと詳しくわかりますか?」
シンカがそう尋ねると、パソスは一度頷いた後、首を横に振ってみせた。
「で、あるな。確かにわかるかもしれん。が、止めておいたほうがよいだろう」
「どうしてですか?」
「あの島には、得体の知れない何かがいる。そう、昔から言われておる。あの島に財宝があるのではないかという噂に眼の眩んだ者たちが、何人もあの島に行っては何かに脅えながらひどい形相で帰って来る。帰って来れただけまだよいほうでな、帰って来ぬ者までおったそうだ。それもどこまで真実かはわからぬが、今ではもう誰もあの島には近づこうとはせんのだ」
「しかし、神殿があるなら人はいるはずです。町か村はないのですか?」
リアンがそう問いかけると、パソスは顎を撫でた。
「うむ。しかし、他との交流は一切持たない謎に満ちた島。神殿や町があるというのも、実際はただの噂に過ぎぬ。真相は誰にもわからぬということだ」
「気になるな。もしかしたら当たりだ」
「で、でも。今は止めておいたほうが……」
「そうね」
リアンの言葉をカグラがいい辛そうに否定すると、シンカも彼女に賛同した。
そしてその理由をロウが補足する。
「導きはまだ終わっていない。それにはきっと、何か理由があるはずだ。それに今の戦力だと、得体の知れない地に踏み込むのは危険すぎる」
一つ目が今日の戦いでの選択を指していたとすると、残り二つ。
このクレイオで同時に三つの選択の文字が浮かび上がったということは、残り二つの選択もこのクレイオの地で迫られる、ということだろう。
するとロウの言葉に、パソスがそれ以前の問題であることを指摘する。
「それに、今行くのは無理であるな」
「どうしてだ?」
「あの島には満月の夜にしか行けぬ。それ以外の日は島に近づくと濃い霧がかかり、島には辿り着けぬらしい」
「……不思議な島ね」
「な、なんだかイメージと違いますね」
「どういうことだ?」
眉尻を垂らしながらそっと呟くカグラに問いかけたのはリアンだ。
「あっ、いえ。月って暗い夜を光で照らしてくれて、優しいイメージがあったんです。じ、実際に陛下も、月は迷花を導くって言ってましたよね? でも、その月が崇められている島の噂は、なんだか不気味なものばかりで……」
「……確かにそうだな」
リアンは瞑目し、納得するように頷いた。
「今はわからないことだらけだ。だが、シンカたちが信じる導きに従っていけば、しだいにわかってくるだろう」
「焦っても仕方ないってわけね」
ロウの言葉に、シンカは残念そうに溜息を吐いた。
真実に近付いたようで、結局わからないことが増えた。
一番重要な目的でもある開き切った魔門、
焦っても意味がないのは誰もがわかっている。
しかし謎ばかりが増え、確証のない推測ばかりでは焦るのも仕方ないだろう。
「なんにせよ今日はもう遅い。部屋を用意してある。今日はもう休んで、続きは明日でよいだろう。セリスはすでに限界のようだ」
笑いながら指差すパソスの先を見ると、セリスがまるで魂の抜けた抜け殻のように放心していた。考えるのが苦手な彼にとって、今の話はまったくついていけなかったようだ。
「大人しいと思ったら……緊張感のない奴だ」
「そう言ってやるな、リアン」
「色々あったし疲れてるのよ。陛下の言う通り、今日はもう休みましょ? カグラも眠くなってきたみたいだし」
「そ、そんなことないでふ――~っ!」
慌てて否定しようとした言葉を噛んでしまうと、カグラは恥ずかしそうに俯いてしまった。
「そうだな、今日のところは休もう」
「うむ。それがよい」
パソスが懐から鈴を取り出すと、それを鳴らす。
扉が開き、入ってきたのは女中が一人と、スィーネとファナティだった。
「お前たち、表でずっと待っておったのか?」
「はい」
一言。ファナティは静かな足取りでロウの前まで来ると、途端に跪いた。
「は? え? なんだ?」
あまりに突然のことにロウが間抜けな声を上げながらパソスを見ると、彼は苦笑したまま静かに頷いた。誰もがまったくこの状況を呑み込めずにいると、ファナティの強声が響く。
「ロウ殿!」
「え? 殿?」
「私は……私はなんと愚かなことを。ロウ殿の心情も知らずに、私が犯した無礼の数々。とても許されるものではありません」
奥歯を噛み締めながら拳を強く握り、ファナティは心底自分を責めるように、そして自分への怒りを押し殺すような声音でそう言った。
「ち、ちょっと待ってください。ファナティさんは――」
「ファナティと!」
「……えっ……と」
「ファナティと!」
ファナティの気迫に若干引き気味になりながらも、ロウは望まれた通りに砕けた口調で問いかける。
「あ、あぁ……ファナティ。ちゃんと説明してもらえないか?」
「はっ! 城に戻り、ロウ殿が入浴をされている最中、私はロウ殿が背負った真実を見ました。私は本当に愚か者です。何も……何もわかっておりませんでした」
軋む音が鳴る程より強く歯を食い縛り、悔しそうに強く両眼を閉じたまま、ファナティは振り絞るような言葉を口にした。
それに続くようにスィーネも瞳に哀切の色を浮かべ、ロウたちを順に見渡し、言葉を述べる。
「私もファナティと同じ気持ちです。私は愚かでした。今やっと、ロウ様やリアン様の言っていた言葉を、正しい意味で理解することができました」
スィーネがゆっくりとリアンの前に進むと、真っすぐな瞳で頭を下げる。
「リアン様。この度は大変ご迷惑をおかけしました。助けていただき、本当にありがとうございます」
「いえ、頭を上げてください。私は仲間に背を押されただけにすぎません」
「ですが、助けていただいたのは事実。あのときのリアン様のお言葉は、今思い返せばとても身に染みる思いです。どうか固い態度はお止めください。あのときのように……」
「……あれは勢いです。あのときの無礼な態度はどうかお許しください」
変わらないリアンの態度とその言葉に、スィーネは残念そうに頬を膨らました。
途端、ファナティがロウの名を再び強く呼んだ。
「ロウ殿!」
「な、なんだ?」
「私の口から出た愚かな言葉を、都合よくなかったことにはできません。ですので、私はこれからの行動を以て自らの愚言への償いと謝罪とし、ロウ殿へ返していきたく思います。どうか、なんなりとお申し付け下さい」
実際のところ、あのときのファナティの言葉に対し、ロウは腹など立ててはいなかったし、むしろ彼の言う通りだと思っていたのだ。
それでいきなりこうまで態度を変えられては、なんとも居心地が悪い。
「じ、じゃあとりあえず、その態度をなんとかしれもらえないか? ファナティはこの国の兵を束ねる立場だろ? 一応体裁もあることだし……」
「なりません!」
「な、ならないのか……」
「ふふっ、いいじゃない。ロウ殿」
間髪入れず、それだけは出来ないと否定の言葉を口にしたファナティにロウが苦笑すると、シンカはからうようにわざとらしい言い回しをしながら、他人事のようにくすくすと笑っていた。
そんなシンカにロウが溜息交じりの声を漏らすと……
「シンカまで……」
「シンカ殿、私は真剣に話しているのです!」
「え……私も?」
可笑しげに笑う声が消え、彼女は目を丸くした。
まさか自分までそう呼ばれるとは、露程にも思っていなかったのだろう。
すると、ファナティは胸に手を当てながら立ち上がり、
「貴殿らは皆、尊敬に値する御方。当然です。が……」
言葉を切り、ファナティはリアンへと鋭い視線を送った。
「貴様は認めんぞ! あ、いや、待て、勘違いをするな。運命の日とやらの活躍も勇気も認めている。そして、姫や村を救ってくれたことにも深く感謝している。本当だ。だが、それでもだ! 姫に近づくことは許さん! 姫は幼き頃より、この私がずっとお守りしてきたのだ! 姫をたぶらかすなど許さ――」
「ファナティ。リアン様を悪く言うのはお止めなさい」
「で、ですが姫っ!」
「ですがではありません!」
「ぐっ……ぬ」
スィーネに強く言われ、ファナティが言葉を詰まらせる。
幼い頃からスィーネを見守り、共に過ごし成長してきた彼にとって、彼女は大切な妹のようなものだったのだろう。
とはいえ、少し過保護とも思えるその光景を前に、ロウたちは深い溜息を吐いた。
「その辺にしておけ。ロウたちは疲れておる。部屋へ案内せよ」
「はっ! では、セリス殿は私にお任せください」
パソスが二人を諫めると、ファナティはセリスを抱え、用意された部屋へと歩を進めた。
皆が先に廊下へ出ると、ロウはふと思い出したように振り返りながら問いかける。
「そういえば、陛下。ユーフィリアという名に心当たりはないか?」
「……ユーフィリア」
何かが引っかかったのか、パソスは眉を寄せながら小さく唸るものの……
「すまぬ。聞いたことがあるような気はするが、どうにも思い出せそうもない。少し調べて、わかったら教えよう」
「ありがとう、よろしく頼む」
…………
……
部屋は個別に用意されていたが、カグラは一人で寝ることに慣れていない、というよりも、用意された部屋の広さと豪奢さに落ち着かないというべきか。シンカと一緒に寝ることにしたようだ。
「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい」
「お、おやすみなさいです」
「あぁ」
「おやすみ」
「シンカ殿、カグラ殿。ごゆっくりお休みください」
それぞれが就寝の挨拶を交わすと、セリスはファナティが担ぎ込み、リアンも部屋へ入っていく。それに続いてロウも自分の部屋へ入ろうとすると、後ろから声がかかった。
「あのっ」
「どうした?」
振り返ると、声の主はシンカだった。
「え、えっと……その……や、やっぱりなんでもない。また明日ね」
「ん? あぁ、しっかり疲れをとるんだぞ」
柔らかく微笑んだロウが部屋へ入ると、
「……ロウ、貴方がいてくれてよかった。これからもよろしくね」
ロウの部屋の扉を見つめ、シンカは小さく呟いた。
…………
……
少して、用意された自分の部屋へ入ったはずのリアンが静かに部屋から出ると、周囲に気を配りながらロウの部屋の扉を控えめに
「……話がある」
イダニコ村を救った時、聞こえた音。あれは間違いなく鈴の音だった。
リアンの記憶の中、あれに酷似した音を持つ者は一人しか心当たりがない。
実際に聞いたのは初めてだが、複数の鈴を持つ者もそうはいないだろう。
――デュランタ
今までその話を敢えて伏せていたのは、二人の少女が原因だった。
目の前でロウが深手を負った原因であるデュランタは、少女たちにとっては
しかし、このまま黙っているわけにもいかない。
ロウにだけはその事を伝えておくべきだと、リアンは考えていた。
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