人間諸々の話

未来への希望など持っていたからダメになったのか。

 いわく、日本国は社会経済政治さまざまな点において衰退の一途をたどっているらしい。


 国力は弱まり通貨の価値も減った。日出づる国は落日の時を迎え黄昏ののち闇夜に没していくのだと。


 それが正しい認識なのか、私には分からない。


 先だって書いた『日出づる国~』うんぬんの文章も「はて? “日出づる”でよかったか? “日出ずる”だったか?」などと立ち止まってしまい、しばらく調べ物の時間になってしまった程度には物を知らん(結局、『どちらの表記にもそれなりの根拠がある』というところで最初の直感に従うこととした)。


「我が国は他国と比べ、衰退しつつある」


 と、いわゆる先進国といわれる国々では、たいていどこも同じようなことを言われているのではないだろうか。


 フランスやドイツ、イギリスやロシア、韓国台湾などでもそうした声が上がる想像はたやすい。常に「我こそがナンバーワン」と自信満々なのはアメリカと中国だけだろう―――この話はここで止めておこう。


「衰退など本当にしているか。今の方がずっといいじゃないか」


 という反論がある。それに対しては、


「物質的に30年前より今はずっと豊かだろうが、30年前には今より未来が良くなっていくという希望に溢れていた。今はそれがない」


 という再反論があるだろう。そこにはさらに、


「そのような『希望』などというまやかしを信じていたのが衰退の原因なのではないか」


 というまぜっかえしが考えられる。こうして観念的な議論は発散を続ける。 


 とはいえ『危機感は楽観に勝る』とまではいわないが、肌感覚として、常に最悪の事態に備えておいた方が精神的な損失は少ないとはいえそうである。


 未来への希望と音にすれば耳あたりこそ良いが、つまるところ実際以上に己が大きく見えている状態なわけで、甘い音色に酩酊し現実を見失いありもしない幻を見てしまっている、と意地の悪い見方もできてしまう。


 未来はつねに『人間万事塞翁が馬』であってつまり「なんとでもなる」「なるようにしかならぬ」なのだと思う。


 私は「日本が衰退しているのかどうか分からない」と書いた。


 それは「良くも悪くもなっていない」と考えるからだ。


 なにも豊かになどなっていないし、なにも乏しくなってもいない。


 30歳にも至らず死んでいたような時代から平均寿命が80歳を超えた社会は豊かなのではないか。


 私はそう思わない。


「何故生きているのか」という根源的な問いを棚上げにしたまま寿命ばかりを伸ばしたところで、我々が“死”に悩み続けることに変わりはないからだ。


 いつだって私たちは差し引きゼロ、ご破算の世界を続けている。


 夏は涼しく、冬は暖かくなった。そのための資源の浪費、月々の電気代の請求書に溜息をつくようになった。


 現実(野生・自然など)に飢えて殺されるか、観念(社会・世間など)に悩み殺されるか。結局我々は苦しみ続けている。


 病を治す抗生物質が耐性菌を作り出すようなことを、延々とやっている。


 思うまま、のままに生きられるようになった代わりに、生のままに死ねなくなった。


 ここ数年はパンデミックがあり、久方ぶりに我々が野生を思い出す時期であったように思う。


 人類は、というか動物は常に生命の危機にさらされており、いつなんどきでも死ぬことがあり得るのだという、基本的なところに立ち返った感がある。


 その反面、精神的な充足は失われがちであったとみえる。まさしく未来への楽観ができなかったからだろう。


 病死も増えたが、自殺も増えた。


 そういうことなのだろう。


 明日も恐らく、我らはなにも変わらない。


 

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