立ちっぱなしに疲れたなら。

 なかなかなものを見た。


 珍しく近くのコンビニに行ったのだが、二つのレジを担当する店員の目が二人とも死んでいた。


 単純にシフトの上がり直前で疲れていたのかもしれない。が、もはや自分が立っていることにすら気付かないありさまで、いざレジに商品を置いてもしばらく前方の虚空を見つめていたのには、ちょっとした恐怖さえ感じた。


 あと、単純にやはりセブンイレブンのセルフレジのシステムは少々おかしいと思う。すべて客に任せればいいものを、なにゆえ店員がいちいち・わざわざ商品のバーコードを読むのだろう。滅多に行かない私がいうことではないが、あれで常連の客たちは納得しているというのか。


 閑話休題。


 私は彼と彼女に椅子でも持ってきてやりたくなった。


 店員が椅子に座って接客することに、本来はなんの不合理もないはずだ。


 が、どうにもなぜだか、社会は労働者を立たせておきたがる。


 無論、立って作業した方がいいこともある。


 しかし、それは座る自由あってこそだとも思う。


 私も、たとえば小説を書く時は(それは労働ではなかろうという指摘を今は受け付けない)、立ったり座ったりときには正座したりとさまざまな姿勢を取る。自分なりのバイオリズムがある。


 それに人類は立ち続けたり座り続けたりするようにはできていない。歴史を見渡した時に一番頻度が多いのはおそらく“歩き”だろう。歩いて歩いてたまに漕いで祖先はこの極東の日本列島まで辿り着いた。動くことが我らの本質だ。立ちっぱなし、座りっぱなしは身体に合っていない。いわば曲芸だ。


 それは目も死ぬというものだ。


 自分では動くことができず、ただ時間が過ぎるのを呆然と待っている。


 そのような時間はあるいは金になるのかもしれんが、生きてはいない。


 生きる時間をゴミ箱に捨てながら寿命を延ばしているようなものだ。


 その寿命を使ってまた労働に出るのだとしたら、最終的な人生の可食部はどの程度になるだろう。


 人生に意味はない。


 だが、言葉をどれほど繰っても苦しみは厳然としてある。


 本来はその苦痛すら無意味であるはずなのに、感じずにはいられない。


 苦しみを減らすために。


 こっそりレジカウンターに椅子を持ち込む程度のことは、やっても罰は当たるまい、と思うのだが、どうだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る