2000年後には2000億PVの未来。
常に筆の(指の)赴くままに手紙をしたためているのだが、書き出しには気を付けないといけない。
「書きたい」と思ったからには、何か書いておきたいことがあったはずなのだが、書き出す言葉によっては、文章があらぬ方向に飛んで行ってしまうことがある。
また
初志は何一つ伝えられないまま、だ。
書き物中毒的な人間にとって、真っ白なページは魅力的でありつつ危険物でもある。
書くことが苦にならない類の人間は、多くの場合、その身の内側にこそ広大な世界が広がっている。
豊かな内面世界などといえば聞こえはいいが、実情は独自の言語を持った宇宙人が延々と独り言を繰り返している怪異に過ぎない。
昔の文章をたまに読み返すことがあると、国語の巧拙とは別の次元で「こやつは何を書いているのだろう」と思うことがある。
徹頭徹尾、自分の中だけで完結した言葉を繰っている。書き手は気持ちいいのかも知れないが、読み手は苦しいだけである。
逆に、相手にスラスラと読み下してもらえるような文章というのは、誰よりも書き手が頭をひねっていなければならないのだと思う。
ここまで書いた上で、本題、というか書きながら思いついたことを書く。
伝える、とはどういうことであるのか。
正確には、どういう風にあるべきなのか、ということについてだ。
現代では、とにもかくにも「見てもらわねば始まらない」という思想が主流だ。
まずは多くの人の目にとまり読んでもらわねば伝えたいことが伝わらないと、なるほど、それなりに理解も納得もできる。
だが、そのためにそもそもの“伝えたいこと”を棄損してはいないだろうか。
煽情と扇動の増築を繰り返したあげく、その文章のもっとも大事な主張であるところの大黒柱を抜いて「ああ、すっきりしたな」などという本末転倒に陥ってはいないだろうか。
我ながら、それなりに刺激的なタイトルだと思っている。
これもまた手前味噌だが、タイトルに反して随分と抑制的な内容であると自負している。
ここまで大きく注目されることも無ければ、誰かに大きな反感を抱かせることも無く、平穏無事に続いているのは「多くの人に読んでもらいたい」という意識が希薄なおかげだと思う。
では、私が「誰にも何も伝わらなくていい」と自己満足だけを目的に書いているのかといえば、それも違う。それなりに苦労しつつ他者がなんとか読み下せる文章を書こうとまさに頭をひねってはいる。
「今ここで伝わる必要はない」と思っているだけだ。
私は長いスパンで、かつ偶然性に期待して物を見ている。
200年か、2000年後かの未来、奇跡的に、たまたま、偶然どこぞのサーバに残っていた私の文章を、これまたどこの誰かも知らない人が読んで「ふむ、こいつはなかなかいいことを書いているな」と思ってくれればいいな、と、そう考えてこの手紙を書いている。
私は古びないものを書いているつもりだ。
恐らく2000年後も、我々は自らが死ぬように運命づけられ生まれてきた事実に打ちのめされている。
私の文章は残りさえすれば読まれ続ける。その確信がある。自殺は、死は、常に古く、新しい話題だからだ。
短期的な、その場が盛り上がりばかりで何も伝わらないまま消費され古びていく、いわゆる“バズ”を狙うなど、もったいない。
書き出しは重要だ。
書き始めた頃は、こんな自慢じみた文章になる予定ではなかった。
しかしながら、これは自負だと理解していただきたい。
私は常に2000年先を見ているのであるからして。
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