スキゾイドの話

ねぇ、お外は寒いよ。

 スキゾイド(統合失調質)人格を単純に書けば、堂の入ったひきこもりである。


 自分の外側にほとんど興味を持たず、内側にあるものだけで完結し満足してしまう。あえて悪い表現をすれば自己中心的な自己満足人間である。


 スキゾイドパーソナリティ障害を挙げて「本人が困っていないのだから障害になりえない」とする意見もあろうが、世のひきこもりが問題となるのは「現状本人が困っていなくともいずれは困ったことになる可能性が高い」からである。ゆえに同様にスキゾイドにも「困り」は発生する。そこに至ってスキゾイドはその人の生活をおびやかす「障害」となる。


 なにが具体的に困るのかというと、外の世界と自分とを接続する経路パスが無くなり、孤立することだ。困窮し路頭に迷う。ホームレスや餓死のリスクが高まる。


 この状態の人は、いわば本人がスキゾイドに飲み込まれている。


 それは外界への『無関心』であったものが『恐怖』に転じてしまっているのかもしれない。


 ここで私の話をしてしまうのだが、電車やバスなどを利用するとき、座れることが多い。


 なんのことはない。一人分の席が空いていれば多少狭くとも尻をねじ込むあつかましさがあるというだけの話だ。


 しかし、これをやると少し驚かれる。「よくできるな」と面と向かって言われることさえある。


 確かに少し嫌な顔をされるときもあるが、特に何とも思わないので、私は他者に対する関心が少ないゆえに恐れも少ないのではないかと自己分析したのである。


 なにが書きたいかというと、外に無関心なスキゾイド人格は、使いこなせれば適応的な社会生活を送る手段になり得るということだ。


 無論、これは対症療法だ。無関心ゆえ、付き合いは基本表面的にならざるを得ない。外世界とのパスが切れやすいスキゾイドの困難は解消されない。


 あとは気質的に外に向かうエネルギーが少ないのでとても疲れやすい。スキゾイドにはそもそも社会生活を送る資質に欠けているのだ。


 代わりに内面世界は充実している。この手紙がその証拠だ。私はこの『親愛なる自殺志願者へ』を一生続けていける自信があるが、その一生が相対的に短いものになる可能性はとても高いと感じている。


 スキゾイドの困難について書いてきた。


 さて、そろそろ私は出かけなければならない。


 年の瀬に近づくたびに知人のミュージシャンたちから「遊びに来ないか」と誘いを受ける頻度が増える。毎年のことだ。


 外は寒い。


 行きたくないとは思わない。音楽はスキゾイド的な人間にとってかなり楽しめる娯楽だ。外に出ながら内面の世界を充実させられる趣味だからだ。


 とはいえ、どこかで強迫観念的な部分があることも認めねばならない。


 誘いを断る度に自らを苦痛に追い込んでいるような危機感を煽られる。


 繋がりたいわけではないが、自分の最期をソフトランディングさせるためには繋がっておくことは必要不可欠だと思う。


 そう思えているうちは、私のスキゾイドは障害にはならないのだろう。

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