我が人生、自転車レーンで見つけたり。
頻繁に通る道に自転車専用レーンができた。
日本、というか広く東アジアにおける自転車交通の無法ぶりに、ようやく我が地元の何もない地方都市行政も重い腰を上げたといったところである。
さらりと
まず、やはり道路の感触が良い。歩道とは違い滑らかで速度も出せる。
歩行者を気にする必要も無く、開放的で心地よい。
ふむ、珍しく連中もいい仕事をしたではないか。
と、納税者の一人として思っていたのだが。
どうにもこうにも快適に過ぎる。
それもそのはず、このレーン、私しか走っていないのだ。
私の住む街は人口一万人の村ではない。軽くその60倍はいる。
私以外の自転車ユーザーは相も変わらず歩道をせこせこ走っているのだ。
まぁ、気持ちは分かる。
それに、行政の教育不足という面もある。
数年前まで、自転車は歩道を走るものだった。道交法? そんなものの前に道が狭いのである。
なので、ある日突然ホイとばかりに自転車用の道路が拡張されても、おいそれと使う気になれんのだろう。
そして行政も明確な指導を打たない。なんだ、結局いつもの税の無駄遣いかといった残念な趣きである。
そうして、私のようなものばかりが一人、車道の隅を走り続ける仕草へと落ち着く。
そんなことを考えながら自転車で走っていると、この広い車道と歩道の間を縫って走り続けるような、身の置き場の難しい半生であったな、とふと思う。
物心ついたその瞬間からどこにも居場所がなかった。
これは直観的であるからこそ絶対的で、頭でいくら理屈をこね回し、即席で浅薄な社会適応を繰り返したところで決してぬぐい去れぬ感覚だ。
どこにいればいいのかも分からぬから、どこを歩けばいいのかも分からぬ。
歩道を走れば気を遣い、車道を走れば気を遣われる。
邪魔者になりたいわけではないが、“自分”を降りることもできない。
ここまで生きてきてひとつ確信を得たことだが、私は人間ではないのだろう。
現在の分類法では雑多に“人間”とされてしまっているが、この先数百年か数千年を経た未来では、私のようなものは人間とは呼ばれていないはずだ。
これは何も悲しむような話ではない。
昨今流行りのダイバーシティといったところだ。
無理やりに“人間”をやらされる者が減るのはむしろ喜ばしい。
やはり、自転車レーンは快適だ。
思索すらも放たれたものになる。
帰宅し、今こうして手紙にまとめている。
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