真実のとき。それは苦しみの果てにある死のみか。
私が好きな『それでも世界が続くなら』という名前のバンドに、こんな歌詞がある。
≪みんなきっとそう そうなんでしょう 死ぬ死ぬって言って死なないつもりで生きてる≫
おおよそは真実を言い当てているが、少なくとも私には当てはまらない詞である。
私は間違いなく、今日、今この場で死ぬと思っている。今こうして文字を打ち込んでいる矢先に心臓が止まり、机に突っ伏して臨終する想像ができるし、それを受け入れている。
なんとなれば、私のこの命には何の価値も意味もないからだ。
何もないので、当然死ぬことにも意味はない。わざわざ痛い思いをして自殺するなど御免こうむる。苦痛がなければ是非とも安楽に死にたいと思っている。
要するに、市井の多くの人たちと同じだ。
苦しまずに死ぬ方法がないから、仕方なく苦しんで生きている、と。
上手く死ねないから、下手に無駄に無意味無価値な生を永らえてしまっているのである。まったく度し難く阿呆で間抜けな話であるな、友よ。
これはまったく私の本当のところであり、一切の嘘偽りない本音だ。
「私はまったく無味無価値な存在である」というのは、体系的論理的な蓄積を経て辿り着いた思想・価値観ではない。
ある日ふと、あれは5歳か6歳のころ、唐突に“分かって”しまったのだ。
「あれ、おれってなんのかちもないそんざいだな」
さながら、数学の天才が式の前に解答を得たような、などと書くと偉そうに過ぎるか。
当然、当世の支配的な価値観とは相いれないため、今日まで大変な苦労といらぬ苦痛を背負い込むことになってしまうのだが、今となってはすべてどうでもよいことだ。
私はこの「すべては無価値」という価値観を持てたことを好ましく思っている。
何しろ気楽だ。何かを積極的に求めたり努力したりといったことをしなくてもなんの痛痒も感じない。いざとなれば死ねばいい。まぁ痛いのは嫌だが仕方ない。できるだけ苦しくない方法は探し続けようと思う。
と、そこでほかの人々のことを考える。
果たしてどれほどの人が、自身の人生や生命に、心から意味や価値を見出しているのだろう。
自分の内から出たと、少なくとも自分ではそう思える確固たる価値観として「私の存在には意味がある。価値がある」と言える方々ばかりなのだろうか。
少しばかりの疑義も感じないのだろうか。
私は感じない。「私には何の価値もない」という価値観(さきほどから妙な言葉遣いだとは思うがあまり深くは考えてくれるな)は、誰に何を言われようとも揺らぐことはない。
何故なら、誰よりもその価値観を揺さぶってきたのは私自身だからだ。他者に合わせるために必死で意味を、価値を見つけようとした日々が、確固たる自信となっている。
そんな、骨の髄まで“無価値”が染みついた人間として、こう思う。
この世界で幸福など感じている人間が果たしているのだろうか。
生きる苦しみや辛さといった感覚を“不幸”と称してしまったせいで“幸福”もあるのだと勘違いをしてしまっただけではなかろうか。
この世には不幸も幸福も無く、確かな苦痛と死に向かうしかない生の辛苦だけが真実なのではないだろうか。
私としては、そちらの方が納得できるし気楽である。
これを読むあなたがどの価値観を持つかは自由である。
なんであれ、真実のときはやってくる。
もしかしたら、私も最期の一瞬、「これこそが意味であった、価値はあった」と思い、失われていく命を惜しみながら亡くなるのかもしれない。
そう思えば、苦しみの果てのそのときを、少しだけ楽しみにも思えるというものだ。本当に、少しだけだが。
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