人間のプロたちと、アマチュアリズム。
球春到来、といっても分からない人には何が何やらであろう。
最近、YOUTUBEなどでプロ野球の春季キャンプの映像をよく観ているのだ。
どこの球団が贔屓だとかは、いらぬ宗教戦争を生まないために明かさないが、ときに育成契約(支配下とは違い、一軍の試合には出場できない)選手にもスポットを当て、その厳しい練習風景をドキュメンタリーのように映す動画を何本も見ていると、自然、腹の奥から盛り上がってくるものがある。
「よし、俺も頑張ろうかな」などとは思わないのだが。
うむ、安心してほしい。私の意識の低さは令和三年も健在だ。
「すごいなぁ」とは思っても、それで我が身を省みることは無い。
意識して省みないようにしている部分もある。
努力に貴賎なしだ。この世の中、誰もが、ただ生きているというだけで、何かしらの努力者であるからして、他者の努力など、呆けた顔で「すごいなぁ」と思っておれば良いと思うのだ。
敬意は抱く。立派だと思う。尊敬もしよう。
だからといって自分は下げない。
彼らは人生には価値があるという価値観の元、それに手を伸ばし、必死に追いかけている類の人間たちだ。素晴らしい。
だが、私はそうではない。人生に価値があるなどと思わないし、だから何も取りに行かない。幸福などいらん。気楽でありたい。
私と彼らは違う。昔は一丁前に劣等感など抱いていた時期もあった。若さとはまさしく愚かしさだな、友よ。
右に左にヨロヨロフラフラ、百本ものノックを泥だらけになって受けきった新人選手がひっくり返っている。モニターの前で、我知らず拍手を送ってしまう。
しかし、だからといって、公式戦で活躍できるとは限らない。
プロの世界は上澄みの上澄みだ。そこで才能と努力と結果を認められた限られた人間だけが働ける実力至上主義の世界だ。
努力だけでは、プロとして認められない。
努力なんて、誰でもしているからだ。
この
人生が結果だけで評価されるようでは、あまりにも辛い。
人の一生には、ただ頑張ったというだけで褒めてもらえるアマチュアリズムが、どうしても必要だ。と、私は思う。
が、どうにもプロの人間が増えているような気がしてならない。
これは、ここ十年で登場した動画配信者、俗にいうユーチューバーの影響があると思っている。
あれは、今まさにプロ化の波が押し寄せている職業だ。
プロ化とは、
私の日記のようなチャンネルなぞ、多くて50再生、登録者など10人くらいしかいないが、「そういうの、やってないんで」といくら言っても、否応なく何かしら業界のヒエラルキーの中に入れられてしまう。それが嫌だというわけでもないが。
困惑ばかりが募る。
どんな楽しみも、地道な頑張りも、すべて数字がつまびらかにしてしまう。
数字は、“プロ化”の最たるものだ。
これはYOUTUBEやこのサイトというわけではなく、インターネット全体に向けての批判だが、
プロ的な価値観に絡めとられるあまり、死んでしまう同胞が、あまりにも多い。
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