私は産まれてきても良かったし、産まれてこなくても良かった。
私がこれを書いているのはまだ年の瀬であるが、あなたの元に届くのは年明け早々だ。ネットは即時性が特徴だが、それは手紙とは相性が悪い。今年も、自分勝手に無駄なタイムラグを設けつつ書いていこうと思う。
年末に、あるニュースを観た。
時事ネタは取り扱わないと以前固く決めた私であるが、これは周期的なニュースなのでご容赦願いたい。
さて、昨年もまた、日本人の出生数は減っていたらしい。そしてそれは、いわゆる先進国の中ではほぼ同一の事象だそうで、ある程度まで発展した国の出生率は、自然、下がることになっているようだ。
個人的には、「順調だ」といったところか。
人類は黄昏に陽が落ちるように、緩やかに滅亡していくべきだと考えているからだ。
政府はさまざま人口減を食い止める対策を練り打ち出しているにもかかわらず、なぜ減少に歯止めがかからないのか。
私の仮説は、「ある程度満たされてしまった人間は、気付いてしまうから」だ。
気付いてしまう。
何に?
人間の一生に意味は無く、人間の命に価値は無い、ということに、だ。
うむ、穏当に書き直そう。
人間の一生に意味はいらず、人間の命に価値はいらない。
我ながらいいことを書いた。2021年からは自画自賛を増していく所存だ。
物質的に精神的に満たされてくると、考える余裕が生まれる。
すると、一生の儚さ、人生の不条理さ、無意味さ、無価値さが浮き彫りとなる。
物質的豊かさは、その喪失によって終わりを告げ、精神的豊かさもまた、精神を司る脳や神経、大雑把に言って我らの身体が死を迎える段になってすべて終わる。
何をしたところで、何も残らん。人生には、何の意味もない。ゼロだ。
当然、生殖にも意味は無い。根本的に無意味な存在が、同じく根本的に無意味な存在を産んだところで、0に0を足し合わせると同じである。
これはニヒリズムだろうか。私はそう思わない、単純に論理的な帰結であると考えるが、そこは特に議論しない。思ったように解釈してほしい。
ただ一つだけ申し上げたいのは、0は0であって、マイナスでは断じてないということだ。
急進的な反出生主義者のように「人は産まれない方がいい」とは思わない。
人は、産まれてきてもいいし、産まれてこなくてもいいのだ。
そしてそれは、多くの人が心底で思っていることだと、私は思う。
なぜなら、私はごく凡庸な人間であり、そんな人間から発せられた考えなどというのは、すでにかなり多くの人々が思っているであろうからだ。
産まれる命に価値は無いが、別に産まれなかった命に価値があるわけでもない。
すべてはニュートラルであって、どっちでも構わないものなのだ。
そして「どっちでもいい」と分かった人間は、自然、低きに流れ、凪いだ海へとたどり着く。
やらなくてもいいなら、やらない。
面倒くさいことはしないに限る、というわけだ。
それをわざわざやる人のことを、決して悪し様には言うまい。
自分という無意味な存在が、他者の無意味な行為をなじってどうする。
産むがいい。産まなくともいい。そのどちらも私は祝福されるべきだと思う。
無責任に祝福するなどといっていいのか。いいのだ。祝福もまた、何の意味もない。
豊かさと引き換えに人類がその数を減らすのならば、無知と格差を徐々にではあるが解消しつつあるこの世界はやがて、やはり穏やかな黄昏を迎えるのだろうか。
人類が人類自身でこさえた諸問題を解決せしめた瞬間、この星から人類は消え去るのだ。
何ともロマンチックな話ではないか。
何があるわけでもないが、新年である。
何事か希望のあることを語ろうと思った。
私にとっては随分と望ましい話をしたつもりだったが、どうだったろう。
とにもかくにも、挨拶だ。
今年も、よろしく。
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