気に食わない話。
とある方が亡くなったとニュースを読んだ。
よく存じ上げないが、またひとり娑婆の同胞が姿を消した。残念と諦念、そして「もう苦しむこともないのだな」と息をつく思いとが相反せず同居する。
それはそれとして、気に食わん話がある。
その方は芸能人で、長らくネット上で誹謗中傷、罵詈雑言のつぶてを投げつけられ続けていた。
そうした因果と享年の若さが結びついて、すっかり死因が自殺となっている。
公式からは何の発表もないうちから、である。
気に食わん。二度目だ。
誹謗中傷されたから自殺した、などと。
誰かの死が、そんな分かりやすい物語になってたまるかよ、と思う。
しかし裏腹に、死の原因は粗探しされ、故人のSNSは家探しされ、野次馬電脳名探偵たちの悪者探しは加速し続ける。
いつもの成り行きだ。
他者の死に際し、胸に起こった不協和を調律せんと、物語が持ち出される。
結果、人々の目は「人が死ぬのは、人が死ぬようにできているからだ」という、根本的な部分から逸れ続ける。
気に食わん。何度でも書く。
ネット上の悪口大会を諌めるのに、死は必要ない。他者を苦しめる言動は厳に慎まねばならん、と、ただそれだけの話だ。分からん者には躾が必要という話ではあるが、やはり死はいらん。苦しみがあるというだけで十分だ。
何故ここまで死と苦しみを分けようとするかと言えば、死は勝手に向こうからやってくるからだ。
もし、故人の死因が、自殺ではなく突発性心不全であったとしたらどうだろうか。誹謗中傷を問う声はトーンダウンするか。そんなことがあってたまるか。
だが、死を媒介に話を進めてしまうと、そういう危険性が出てくる。
「人が死ぬからやめろ」ではいけない。
「人が苦しむからやめろ」と、万事はそういう話でなければならない。
死は物語ほど単純ではないが、苦しみは単純だ。
苦しみに焦点を合わせれば、我々の罪にはすぐ辿り着く。
すなわち、生誕だ。
生まれてさえ来なければ引き受けずに済んだ苦しみを、今も受け続けている同胞が世界中にいる事実。
なにもかも、気に食わん。
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