死の味
甘くはなかろうと思う。
辛く、苦いものになるであろう。
死んでみないことには、分からない。
友よ、今日の本題は三行も続いたぞ。というわけで、以下は蛇足だ。
分からないと結論付けたことについて、なおもくどくどと書こうと思う。
元来、文章や言葉は、分からぬものを分かったような気にさせるための道具だ。
ある人間からはこんなことを言われる。
「あなたご自身は希死念慮があるなんておっしゃるが、私の目から見たら到底死にそうには見えない」
まさしく甘い認識だ。
私は死ぬ。誰も、あなたも、今日にも死ぬ。今にも死ぬ。
その辛苦に満ちた現実から目を逸らすことは許されない。何が? 命が、だ。
日々、自分が死ぬことを絶えず想定し続けたらノイローゼになってしまうか。
だとしたら、それはやめておけ。私は無理強いしない。ほかの手を考えよう。
といっても、私から提案できる企画書は一切ないのであるが。
私は「受け入れねばならんことを受け入れる」ことに痛痒を感じないからだ。
苦しみの本質は、常々その手前にある。すなわち、生まれてきたことだ。
生誕は、諦めや覚悟の介在する余地がない点で、死よりもずっと暴力的だ。
末期病患者でさえ、否認から受容に至る細く短くもそれなりに体系だった思考プロセスがあるというのに、胎児にはそれすらない。
「はい産まれた、さぁ生きていけ」と、こうくるわけである。
そして、何事もなく死んでいく。
何事かを成したと思い込んで死ぬ方もおられるが、極めて稀だ。
なんとなれば、人間を含め動物に成せることなど何一つとしてないからだ。
積み重なった死の上に、一切の絶滅と宇宙の寿命がやってくるのみだ。無職者の預金残高と同じだ。どれほど薄く切り詰めて引き延ばしたところで、いずれ数字はゼロになる。我々や十代先程度の人類は、まだ絶対的な滅びからは逃げきれる世代だろうが、積み上がった年貢は同時に詰み上がってもいて、収まるべき場所と時をまんじりともせず待っている。
その頃には再就職先の四次元空間にでも旅立っているか。
訳の分からぬ話になってしまった。言葉はこれだからいけないのだな。
友よ。
この際だ。まとまってからでいいから、死について、あなたの予断を聞きたい。
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