死を見つめる
輪切りになった脳を見た日。
友よ、CTは眠たくなるのだな。
私だけかもしれんが。
順を追って書く。
足に妙な痺れを感じ、一晩経っても治らなかったので脳神経外科に行ってきた。
軽い問診の後、「恐らく大丈夫だろうがいっちょ脳でもみとくか」となり、生まれて初めてのCT検査と相成った。
結果、私の輪切りになった脳みそは健康で、脳卒中も脳梗塞もないとのこと。
つまらん。
万事において大事には向いていかない私の人生を象徴する出来事だ。
すると、国民健康保険証の期限が切れていた。
役所から届いていないのである。
昨年はただの一度も病院に行かなかったので、今日の今日まで気付かなかった。
つまらん。
万事において些事しか起こらぬ私の人生を以下略である。
それでは本題だ。
私は死ぬことを受け入れている。人はそうすべきだとも。
それは、己をないがしろにすることとは違う。
今回は、そのことを書いていきたい。
苦しみは予防せねばならない。
うむ。
書きたいことはすべて書いてしまった。私の本題は常に短い。
以下は蛇足だ。
これでも祖父や母などが脳の病気で亡くなっている家系であるので、ひとつ、大いなる苦しみの予感が頭をもたげた。
死は苦しみだ。以前も書いたが、そのことから目をそらしてはならない。
死が怖くないというのは、嘘である。
人間は死を怖がるようにできている。まさしく脳に。
死が怖くないのではなく、死を怖がる自分を恥じていると考えるべきだ。
友よ、怖がることは恥ではない。
否、よしんば恥だったとして、なんだというのか。
我々は生誕の屈辱、生存の恥辱、老化の凌辱を一身に受け続けている。
生老病死の苦しみに、「感じない」はあり得ない。
不幸を感じる神経を、自ら鈍麻させているに過ぎない。
なぜここまで断定的に語るのかと言えば、私がまさにそうであったからだ。
私は神経が細く鋭敏過ぎるところがあるのか、刺激や恐怖に大変弱い性分だ。
それゆえ、虚無的な内面世界を作り上げてひきこもることで、己を守ってきた。
「人生は無意味だ」「生命は無価値だ」といった、私の思想の根幹を為す両輪は、当然のことながら後天的に作られたものだ。
それが分かったからといって、適応的な「活き活きとした」世界に回帰しようなどとは露ほども思わない。私は私の安住の地を見つけたのだ。友らにも、そういった気持ちの置き場ができればいいと思う。
問診室で、輪切りになった自分の脳を見た。
すかすかとしたところもなく、ごく普通の、健康的な形をしていた。
その中に広がっている、大空洞の如き虚無の世界など、まったく窺い知れない。
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