始めることすらできないまま。

 年配の友人(音楽仲間である)が不眠症と軽度のうつ病を患った。


「死にたい」と漏らすこともあった。


 経済や仕事のこと以外の、実存的な悩みにぶち当たるのは初めてだったらしい。


 自殺について、少々多くのことを考え抜いてきた私との、ちょっとしたカウンセリングもどきを経て、結局、長年勤めた会社を早期退職し、退職金と保険などで細々と暮らすつもりになったらしい。


 が、ここで思わぬ僥倖ぎょうこうが舞い込んだ。


 前職で取引のあった会社から、ヘッドハンティングされたのだ。


 というわけで、今では月々の給料はかなり減ったようだが、時短勤務でゆとりのあるサラリーマン生活をしている。


 私としては、男やもめが一人無職になったところでどうにでもなるだろうと思っているのだが。


 彼には、今日まで真面目に働いてきた仕事人としての財産があった。


 前職では特に出世もしなかったそうだが、見る人は見てくれていたのだ。


 まぁ、良かったのではないだろうか。


 この話はここで終わりだ。


 ここからは、そんな財産を築く権利すら得られなかった人の話をする。


 たとえば、病気や障害。

 たとえば、就職氷河期。


 どうしようもない環境が、その人を舞台の袖に追いやることがある。


 彼らは、キャリアを積み上げられるスタートラインにさえ立てなかった。


 そんな人が、その運命を呪い、社会を、世界を悪罵したとして何が言えよう。


 彼らに必要なのは「社会のせいにするな」などという説教ではなかろう。


「辛かったですね」「私も同じです」などという共感と慰撫の言葉でもない。


 一億円だ。


 上の文字列に、友よあなたは何を感じただろうか。


 深く首肯したか、はたまた、寒々しい虚しさに襲われたか。


 大なり小なり、即物的にも程があるだろうよ、とは思われたのではないか。


 欲しい物が得られなかった、という体験の機会さえ得られなかった人々に与えられるのは、金だけだと私は思っている。


 金で満足することはできない。


 だが、限りなく人生を苦しみから遠ざけるお守りにはなる。


 やむを得ずある夏の夜にホームレスのような野宿を強いられたことは、もう話しただろうか。


 夏とはいえ、とても寒かったのを覚えている。


 飢えと寒さは、苦しみにおいて死の左右にはべる存在だと思う。


 そして、金や寄る辺のない人間は、それらに近い場所にいる。


 苦しみは減らさねばならない。大事なことなので、何度も書く。これからもだ。


 始めることすらできないまま、将来に渡る苦しみに苛まれる人々に、どうか、金を。聞いているか、政府。お前に言っているのだぞ。たまには満足のいく仕事をしたらどうかね。

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