自殺も二十歳になってから、だろうか。

 せっかくなので、政治的な話をもう一つしようと思う。


 この手紙を読んでいる友が何歳なのかは分からないが、もし十代だったとしたら、とりあえず自殺について考えるのは棚上げにするよう、おすすめしたい。


 命令でも強制でもない。


 しかし、だ。聞いてくれるか、平成十年代生まれの友よ(2020年現在)。


 あなたは今、とても情緒が安定しない時期を生きている。


 これはどんな天才であっても例外ではない。十代とは混乱の時代だ。


 無論、私もそうだ。混乱、否、むしろ錯乱していた。


 当時書いていたものはほとんど処分してしまったが、かろうじて残ったものをほろほろと眺めてみれば、読めたものではない。日本語の体を成していない。だが、意味も訳も分からず苦悩していたことだけは分かる。と、そのような塩梅なのだ。


 しかるべき場所で演説すれば大反感を食らうこと請け合いな言葉で表せば、十代の人間はすべて脳が熱に浮かされた状態である。


 だから、何の理路も原因もなく、ふと「死にたい」と思う。


 まるで、ビッグバン以前の宇宙の如く、無から量子の網目を潜り抜けた希死念慮が、ぽろり、と転がり落ちてくるのだ。


 つまるところ、脳が、とても信頼に値しないのだな。


 脳なんていう手足の付属品のような臓器が信頼に値するわけがなかろうと?


 御意だ。


 しかし、待って欲しい。


 これは、とても言語化が難しいのだが、熱暴走状態だった脳が、だんだん冷めていく感覚が分かるようになるのだ。


 左様。


 私は今、意地の悪い書き方をしている。


 来るべきときが来れば分かる、と。


 それで納得などできない、と。


 分かる。


 だがここは、私を罵倒することで矛を収め、納得していただけないだろうか。


 十代という、熱帯夜の森林を抜けた先には、存外くっきりとした平野が広がっている。そこで見つかるのも、結局は希死念慮かもしれない。


 だがそれは、まったく、まさしく、まるまる、あなたのクリアな意思が紡ぎ出した、一本太い筋の通った、神聖にして侵すべからずの希死念慮である。


 そこからなのだ。自殺を語る長い旅が始まるのは。


 今後、安楽死や自殺ほう助を筆頭として、自殺についての話題はたけなわとなることだろう。


 その先、自殺が、社会的に認められた選択肢になることがあっても、恐らく十代のうちは待ったがかかるはずだ。


『自殺は二十歳になってから』である。


 ことほど左様に、これは政治的な線引きの話である。


 一つ、説教じみたことを最後に書いておこう。


 死にロマンは無い。


 死には、憧れ、敢えて自ら所望したくなるような美しさなどない。


 死はただ死である。


 彼は我らのそっけない隣人であり、文字通り死ぬほどの痛みと苦しみである。


 それでもなお、益体もないと分かっていても、我々は彼を求めてしまう。


 これはどうしようもないことで、どこまでも虚しく哀しい所作なのだ。


 だからこそ、だ。


 友よ。


 先走って、いつか必ず味わう苦しみを飲み干す必要はないのだよ。


 どうせいつか辿り着く道だ。気長に行くのも悪くなかろうよ。

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