どう引き受けてくれようか、この死の痛み
何度も書くが、今日を生きるかどうかは運だ。
運でしかない。
偶然、生き延びられる目が出ただけであって、我々の運命は決して変わらない。
それは死だ。はっきりと書いてしまう。私に文学的な空白を求められぬよう。
我々人類は全戦必敗。「いかにして負けたか」でしか、生を評価できない。
少なくとも「私はもっと生きるはずだった」などと、傲慢な世迷言を吐いて死ぬことだけは無いようにしたいと思う。未練がましく、無様が過ぎる。
いや、構わんか。生命に評価すべきことなど何もないのだし。
本当に、我らの認知という奴はどうしようもないな、友よ。
ただ何の意味もなく湧いて出てきたものに、価値評価を行おうとしてしまう。
無意味で説明できることに、理屈を捻り出そうとする。
果ては神なる概念をこしらえ、崇め奉る。
いるわけなかろう。とも、言いきれぬか。
だが、実在する僅かな可能性が正しかったとして、その神とやらが、私やあなたを一顧だにするとは思えない。
事実、どのような神をいただく宗教や信仰も、人が死ぬことは避けられないとしている。なので、つじつまを合わせるようにこれもまたせっせと天国地獄極楽浄土をしつらえた。徒労である。しかし、人間の仕草はすべてが徒労であるので、何も問題は無い。本当にそうだろうか。そういうことにしておこう。
誰もが、自らの死を引き受けるべく、文字通り必死である。
適応的な価値観の人々が信ずる道徳では、「生をあきらめる」というごく自然な成り行きを受け止めるのに、非常な困難が伴う。生きることをあきらめることや、死ぬことを重大に捉えられないことは不道徳となってしまうからだ。
なぜそうなるのかは、私には分からない。理屈を説明されれば分かったような気にはなれるが、それはあまり誠実な態度とは言えないだろう。
そういった意味では、自分から死のうと決意を固める我が友たちは、非常に命に対して誠実だとさえいえるかもしれない。
まさしく自裁だ。罪状は生誕、罰は生存、恩赦が死亡である。
ゆめゆめ、それを悪し様に言うなかれ。
いずれにせよ、いつかは引き受けねばならぬ運命だ。
想像を絶する痛みと苦しみの中で、誰もが赦しを頂くのである。
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