“降りる”選択肢がないことについて

「負けました」「ありません」


 将棋や囲碁は、辛うじてルールは知っているという程度の知識しかないが、プロ棋士たちが投了する瞬間に、わけもなく深い息を吐き出したくなる。


 よく分からんが、詰んでしまったのだろうな。

 取り返せる陣地がないのであろうな。


 負けたことが分かってしまう瞬間。

 はたして、どのような気分なのだろう。


 これまで、そして恐らくこれからも、真剣勝負の舞台に立ったことはないし、立ちたいとも思わない。また、立ちたくなければ一生立たずに済んでしまうので、本当の“敗北”とは如何なものなのか、多少の興味はある。


 ひるがえって、人生には“負けを認めて降りる”選択肢が存在しない。


 投了は、死ぬことでしか果たせない。つまり自決。自殺だ。


 いつものごとく、酷い話ではないか、友よ。


 詰んだと思っても、死なない限り終わらない。むしろ、負けてから、詰んでからが長いといえるかもしれない。


 そもそも、人生に明確な敗北など無いということなのであろうが。


 私は、例によってというか、勝ちも負けもないだろうと思う。


 人生を、そういう“設定”で動かしていない。


 生きている限りは、この世に何らかの生きた証を残さねば、もしくは、幸せな一生を送らねばならないという設定で生きておられる方には、きっと人生に負ける瞬間が来るのだと思う。


 その心意気に、思うところは特にない。


 ただ一つだけ。


 それは、あくまでそういう“設定”で、価値観の一つでしかないということは、申し上げておきたい。


 真剣勝負に水を差すのは心苦しいものである。だが、これはどちらかといえば、鍋に差し水を足す感覚だ。


 熱くはなってもいいが、沸騰してはいけない。逆上のぼせあがった頭で勝てるほど、勝負は甘くない、はずだ、と思う。うむ、やはり私には分からない。


 人生に“降りる”選択肢がないことで、自殺した方も多くいるだろう。


 負けてしまったのだから、詰んでしまったのだから、投了じさつするしかない。


 潔い、のだろうか。


 私にはむしろ、『敗者は潔くあらねば』という規範に縛り付けられているように見えてしまう。


 別に、みっともない姿を見せてもいいと思う。将棋盤をひっくり返して、畳の上で寝転がって泣き暴れて見せてみれば、その姿に美しさを見出す好事家もいるかもしれない。


 私のように、人生に“勝ち負け”という概念を持ち込まなければ、もっと気楽に生きられるのだし。


 そう考えると、私は実のところ、人生を降りられた人間なのかもしれない。


 どう、思われるか。

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