大切なのは人でも命でもなく、楽であること
どうにも世情に乗れんところがあって、ぼうっとした気分で過ごしている。
出かける予定ができたと前回書いたが、それも急に立ち消えてしまった。
ひきこもって生活することに何の痛痒も感じない人間なので、別に構わないのだが、どうにも世間全体が“閉店”しているような心地で、「あなたはそれで良いのか。本当に?」と、問い質したくなってくる。
私は、最近(2020年四月現在)の人間模様を見ながら、こう考えている。
皆、「命は大切である」と思い過ぎてはいないか、と。
また「大切な人を守れ」という教義に囚われ過ぎてはいまいか、と。
粗末に扱えなどといいたいのではない。
標語を棒暗記するばかりで、中身に関心が向いていないように見えるのだ。
命の、なにが大切なのか、しっかりと見据えておられるだろうか。
そういったことについて、私の考えを語っていこう。
私は大雑把な人間なので、他者を細かく分類したり、序列化したり、階層化したりすることができない。
ざっくり、自分以外はすべて他人だと思っている。
そして、誰に対しても、一定程度の親しみを抱いている。
いわば、この四苦八苦を備えた娑婆に生まれついた同胞意識だ。
こうして、出会ったこともない赤の他人を“友”と呼んでいるのも、それだ。
誰にも苦しんでほしくはないし、不幸や不快の少ない人生を歩んでほしいと思っている。
「お前は博愛主義者か」と訊かれれば違うとお答えする。
どちらかと言えば、薄愛主義者だ。広く浅く、人々に親愛の情がある。
命に関しては、何とも思っていない。
大切にせよとも、もっと粗末に扱えなどとも思わない。
どうせ生きていれば必ず死ぬのである。
命そのものには興味が湧かない。
関心を寄せるのはそれについてくるものだ。
すなわち、苦しみと悲しみである。不幸と呼んでもいい。
私の心を占めるのは今や、長生きすることでも、華々しく死ぬことでもない。
生きている間の苦痛をいかに減らすかだ。
いかに、
最初は、“快楽”と書こうと思ったが、違う。単純な“楽”だ。
人間そのもの、命そのものを大切にするのではなく、その人が楽に生きているのか、それだけが私の行動指針だ。
もう少し上手に書けるつもりであったが、なんとなく分かったような分からぬような手紙になってしまった。
今後、またすっきりと明快にできるようにしていこうと思う。
それでは、明日からあなたが人生を楽しみ、楽に過ごされますよう。
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