執着について

 以前は、「いつ死んでもいい」などと居丈高いたけだかに思っていた。


 実際は「いつでも人は死ぬ」だけである。


 そこに、矮小な個人の矜持や覚悟を差し挟む余地はない。


「生きていたい」も「死にたい」も「死にたくない」も「生きたくない」も思いとしてはバラバラだが、何の意味もない発言だという点では一致している。


 死は個人の思いを斟酌しんしゃくしてなどくれない。


 生も老も病も死も、人間様のちいちゃな手の内に収まる話ではないのだ。


 考えるだけ無駄だと理解し、何も心配することはないと了解すべきだ。


 これが恐らく、遥か昔に仏陀が辿り着いた涅槃ニルヴァーナの境地なのだろう。


 私は辿り着けないだろう。その日の楽と快に身をやつし、放蕩に生き続けるのみである。それはそれで、それほど悪くない。


 少なくとも、「幸せになりたい」という執着はない。


 執着。


 これについて、今回は書いていきたい。


 幸福の追求は、海水で喉を潤すかの如きだ。


 どれだけ飲んでも、渇きはやまない。


 何故なら、諸行無常の世において、不変の幸福を求める所作は、すなわち渇望でしかないからだ。


 得ることのみに執心しては、失う苦しみに耐えられない。し、得た物はいずれともなく失われるのが娑婆の仕組みである。


 幸福を愛する人は、それと同じ程度に不幸を愛さねば、大きな辛苦に苛まれるだろう。


 だが待って欲しい。


 幸福と不幸をバランスよく愛でる。それはもはや、幸福になる必要などないということなのではないだろうか。


 私のような統合失調質人格者は、自分さえ満足するか納得できれば、あとは野となれ山となれである。いいねが少なかろうが、PVがまったく伸びなかろうが、何の痛痒もない。楽しく書けていれば万事OKだ。


 ただ、たとえば学校や会社という社会は、それがなかなか許されない。


「まぁ、多少、出来は悪いが、こんなもんでよかろうよ」


 と、切り上げることができないのは、大変な苦痛であったし、他人と同じことができていなければ怒られたり、時として悪し様に暴言や暴力など振るわれる環境は、地獄といって差し支えない。


 私が無謬であったというつもりもない。ある程度は流れに乗ったスピードが要求されるところで、まったくアクセルを踏み込む気のない低速運転を続けている者がいれば、怒りたくなるのも当然だ。


 しかし、だ。


 やりたくなかったのだよ、私は。


 そこまでして何をしゃかりきに生きて行かねばならんのだと、そう思ってしまう。我ながら天晴れな人としての機能不全ぶりである。


 今では、なけなしの社会性とやらを振り絞り、どうにか適切な距離感であるとか、関係を築くことができている―――ような気はする。実際は分からぬ。


 少なくとも、社会は私にとって、少しベタベタとし過ぎだった。もっと無感情に、無感動に、そっけなく淡々としていて欲しいものである。


 ただ、それを求めすぎるのもまた、執着だ。ゆめゆめ気を付けねばなるまい。

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