人は何歳まで生きるのか
物心ついて以来ずっと、この世に生まれ落ちた失策を挽回できずにいる。
一次面接どころか、エントリーシートの手前、募集要項の時点で弾いておくべきだった非社会的な人材が、どういうわけだか生まれてきてしまった。
と、こういった文章は、人間を「この社会を、継続・繁栄しからしめる存在」とする意見に添うことで生まれてくる。
くだらん。
そのような勝手な定義に巻き込まれてたまるものか。
世が滅び、人が滅したところで知ったことではない。
そもそも、滅びるほどの価値があると、本気で思っているのか。
まったく鼻持ちならん自我の肥大ぶりだ。どうせそのような人間が、いじめと戦争を起こすのだろう。自らの価値観で、自らの存在を貶めている。いい面の皮だ。
友よ。
この世にはびこった史上最も許されざる詐欺師の言葉は何だと思われるか。
「命は大切だ」
私はこの言葉を推したい。
まるで人が生きることには何らかの意味があるとでも言いたげだ。この言葉に騙された人々の多くが今日も苦しんでいる。一刻も早く唾棄すべきだ。
必要なのは、命を神棚に捧げ、丁重に崇め奉ることではない。
自然の一部として、ありのままにしておくことだ。
どういうことかといえば、
「人は死ぬものである」
という事実を、幼少期からしっかりと見つめるべきなのだ。
そして、できることならば、しっかりと死を管理する。
私としては、『人生の五十歳定年』を推したい。
五十歳になったら、人間は必ず死ぬようにする。
なんとなれば、ホモ・サピエンスは不当なまでに長生きだからだ。
人類の寿命自体は、科学の発展によって長く引き伸ばされたのではない。
伸びたのは乳幼児死亡率の低下に伴う平均寿命であって、ものの本によれば、それこそドングリを拾ってマンモスを追いかけ回していた時代ですら、八十歳を超えて生きた個体は存在したのだという。
そのように無駄に長寿な我々の寿命を、政治と科学と哲学の力でギュッと縮める。
反感を覚えただろうか。だが、私の目には、今、誰も彼もが、長過ぎる人生を持て余し、苦悩しているように見える。それが誤解であってほしいが、どうもそうは思えぬのだ。
無論、私はそのようなことに思い悩んではいない。飯を食い、糞を垂れ、寝床に就いて、死ぬ時が来たら死ぬだけである。メメント・モリ。カルペ・ディエム。
もしくは、人が死なないようになれば良い。
こちらもものの本によれば、さまざまな技術の革新によって、人を不死に近づける方法はあるのだという。
いずれにせよ(五十歳定年/不死身化)、やるときは列を揃えて一斉に、でないと、大きな不満が出てしまうだろう。
友よ、あなたは、ご自分が何歳まで生きると思っておられるか。
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