アーサー、君にもいつか手紙を書きたい。

 映画『ジョーカー』を観た。


 笑えない類の喜劇であった。この映画の下敷きになっている『タクシードライバー』や、ウディ・アレン監督の『ブルージャスミン』を観たときと同じような感覚。いたたまれない気分になりつつ、これはもう笑うしかないという気にもさせる。こうした上等な悲喜劇はなかなかない。快作であった。


 貧困、障害、虐待。主人公のアーサーは、誰がどう見ても酷い境遇にある。それでいて、無きにしも非ずな嫌らしいリアリティも保っている。もし、自分だったらと想像しただけで身の毛がよだつ。


 私だったら耐えきれず、持っていた拳銃で自殺していただろう。アーサーはそれで他者を撃ち殺したことをきっかけとして、ジョーカーへ堕ちていった。そこに大きな差は無いように思う。


 映画のキャラクターとはいえ、アーサーは、まさしく私が書く文章を宛てる友の一人であった。この世のすべてに絶望した彼への手紙を、これからゆっくりと作っていきたい。この世に数多いるアーサーの話をしたいのだ。


 それはそうとして、なんだあの連中は。


 アーサーのやった殺しに勝手に感銘を受けて暴れ回るあのゴッサム市民たち。一人の孤独で不幸な男の悲しみと苦しみに目も向けず、ひたすら自分たちの怒りと憎しみを燃やす肥やしにする連中のことだ。 


 私から見れば、暴徒の誰も彼もが“生の自家中毒者”だ。そんな者たちが起こす自己破滅的なパレードは、この笑えない喜劇映画の丁度いい清涼剤、見世物だった。


 この世に自分が生まれてきた意味はあるのか。生きる価値はあるのか。


 お答えする。どちらもない。


 どんな人間にも、だ。富める者には価値があり、障害者にはない、と言った類の話ではない。人類はみな平等に価値が無い。これはテストに出る。配点の高いサービス問題だ。ありがたく思っていただこう。


 多くが、百年と持たず死にゆく定めを負った二足歩行の動物に、何ができるというのか。思い上がりも甚だしい。我々ホモ・サピエンスができることは、生まれたついでに生きて死にいくことだけである。それは多くの生命の在り方と同じ。我々は、この地球の大地に辛うじてへばり付いているという点で、クジラやシャチなど以外の哺乳類と何も変わらない。


 ただ一点を除いて。


 価値もなく、意味もない。なのに、悲しみと苦しみがある。それが、まさしく我ら人間の悲劇だ。そして喜劇だ。笑えない。しかし笑うしかない。そういう類の。


 そのような世界で、死なないついでに生きている私がやりたいことと言えば、いつまでもただ一人に届く手紙を書き続けることだけだ。そしてその手紙を、その人の辛苦の近くに置いてくれれば幸いである。

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